硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

意味の話

まともに見える狂人って一番やっかい。

 

後編の途中でダウンしてしまったから、一旦リセット。
というのは建前で本音はあまりに滅裂になってしまったから。変態性みたいなもののしか読み取れない。これ自体は否定しないけど、多分あの情報だとニュアンスがずれる。

人は情報の動物だって昨日の自分は書いていたように思う。
文字情報を開示している人の方が情報量多いなんてことはなくて、特に公開している文章なんてどうしたってよそ行きに改ざんさているし。

というのは現実でも当たり前に適用される。相手から読み取ることができる情報は当人が生きている限り無限だし、自分が発信している情報も然り。そうして、脳の処理はそこまで追いつかないし処理に無限に時間を使える訳でもないから、選別が必要になる。

その選別が他人の印象とか他人を見る目ってされているもの。類型的に自分にとってどうかっていう話だから、あまり相手を見ている訳でもない。あくまで自分の中の話。という選別はもちろん当人自身にも適用される。自己像がまやかしだっていうのはもう科学的にもあきらかなはず。人格は変えられるっていう話もあるし、脳のどこかが物理的に毀損した人の人格が変わってしまった症例とか、サブリミナル効果とか諸々。

んで、なんでそれを自分としているかっていう私見は、暫定的にそれしかないからだと思っている。視界を狭めることによって自分を保つ。でもこれが生活というものなのだろうなと。


さておき。

元恋人さんのラインのアカウントは削除した。自分のそこにしか残っていない過去日記と天秤にしても残しておくことに意味はなかろうなと。過去日記ざっくり読んだけど、引っかかっている部分は変わってなかった。

色々と複雑な気分だけど心は軽くなったのは確か。ふわふわしすぎていてあまり落ち着かない。軽いっていうのは外用の表現で、本当は心の真ん中が戻ってきたという感覚の方が近い。生活を唯一想像できた人だったし、ろくでもない恋愛関係だったけど、自分がこの人に影を落としてしまったのではないか、人生を害してしまったのではないか、っていうのがずっと気になっていた心が回収できたっていう意味で。

人の情報っていくらでも偽ることができるし、トップ画で新生児と握手するような画像を他から持ってくることはできるけど、僕の選別ではこの人はそんな無意味なことをしないと思っているから。もう一個の可能性は不妊治療をしていたお姉さんの子供という可能性もあるけど、どちらにせよ生活は確保できただろうって。


という感じで人間関係を断捨離しているのだけど、残った人と昨日関わっていた。日記が書ききれなかったのはそういう理由もある。中断っていうのは時間以上にタスクを害する。そして一人だけ通信できたのだけど、僕が関係を切った人のエセ恋人さん。本命の恋人が居たはずなのだけど、いつのまにか配偶者になっていたらしい。


別にもう一回いちゃいちゃしたいってことはない。そんな労力かけるより一人で本を読んでいたほうが良いし。この人も生活ができない人なのだろうなっていう意味でどうなったのだろうと思っただけ。生活の相手があの人っていうのはどうかと思うけど、総じて問題ないかなって。もう関わることはないだろう。何目線かっていうのは不明。

もうひとりは中学生のときの恋に恋する時代に好きだった人。大学の時の同窓会で泥酔状態のこの人からキスされた記憶がある。その時はもう過去の人だったからなんともない。僕は自分の記憶をあまり信じていないから、改ざんの可能性もあるけど。
この人は既読になったけどレスポンスはなかった。まだ生活を得てはいないらしい。これも改ざんの可能性もあるけどこの人何回かmixiに文章を書いていたことがあって面白かったから興味があるだけ。警戒されてブロックされたらそれまで。


もうひとりは本の師匠なのだけど、アドレスが変わっていて連絡できなかった。
僕はかなり他人から影響を受けるたちだけど、この人にはコペルニクス的転回くらいの影響を受けた。本を何冊も並行に読むのもこの人の教え。人格の分裂は分裂のままで良いっていうのもそうか。そんで、教えてないけどもう読まれている気がする。


今日はあまり滅裂ではないかしら。

僕は、元気とか頑張るとか自信とかっていう抽象的な表現が嫌い。なぜかって言うとそれを発する人がその中身を消化しきれてないから。ただ言葉として発する場合は論外だけど。

職場の人にもっと自信をって言われて反射でげんなりしたのだけど、この人の中身はもっと期待してくれているのだろうなって観測すると、あぁそうかってなった。ただし、応えるかどうかはこっちの主導権の話。

抽象的な表現って相手に解釈を丸投げする。
けど、現実で見ると、当たり前にそうやって疎通しているように見える。言ってくれないと分からないって割と定型文だけど、言葉以外にも情報はあるのだからそれを踏まえて解釈したあとに、質問として自分はこう捉えたのだけど本当はどうなのって聞くのが本筋なのでは。僕にはそういう観念はない。人に興味はあるけど、その人の言葉がその人の本当とは思っていないから、聞いたところでって思う。これって薄情なのかな?


自信って、文字通り自分を信じることなのだろうけど、僕の解釈だと少し違う。
信じることの極致は宗教で、宗教って信じたものに基づいて行動すること。自分に基づいて行動することを自信とするなら分かるけど、一般的に言われている自信は布教活動のことなのだろうなって。それはできないというか、したくない。


言葉の機能。

職場の近くの本屋さんのガラス扉にキャッチコピーが貼ってあって。
物書きは嘘がつけないとか、優しいとか。


それで考えたのだけど、言葉に重きを置くことは過去に視点を置くことなのだろうなと。
文章は時系列で言ったらどんどん過去になる。未来のことを語ることもできるけど、ちゃんと言葉を扱っている人はそこに意味がないことを知っているはず。そうして読んだ人は過去の自分を現在の自分だと錯覚して捉える。


でも、僕が異端だなって思うのは、一年や二年そこらじゃ人ってそんなに変わらないのだろうっていう観念。観測だと確かに変わらないのだけど、当人の内心ってどんどん変わっているはずなのに、外面では同じものにするとか。

言葉は過去しか表現できない。
記憶も言葉で再現されるし、日記とか感想とか感動とかもそうだし、未来のことを語るときにも過去の自分の思考から想像されたものだし。

疎通もそう。
過去から観測した相手への経験則で言葉が選別される。


これが生活。
モーパッサンのある自殺者の手記ではないけど、僕は生活というものがキモチワルク感じる。

生活の定義。
動物としては異端の観念なのだろうけど、要は変化をしないことで個を継続する行為。もはや集団ひいては社会と言っても良いのか。自他の変化を拒む思想。縛るでも変わらない。

だから生活の相手として僕を選ぶのはやめとけって。
生活できないやつはそうそうに退場させられるから。

この話どこまで細かく書いて良いものか。
僕のほんとうのものさしは、どの哲学書でも臨床心理学からでもトレースしているものでもないから。

着地点ではそれほど異端でもないのも知っている。
それは自分のものさしの中で観測者の範囲で振る舞うから。僕がないがしろにしていると観測するならそれはブーメランでしかない。大事にしてくれる人は大事にするはず、経験的観測。

ここで書いていることも、顕示欲なのだろうって観測されるはずだけど、単に誰にも観測されうる場を利用しているだけ。顕示欲も自分の構成要素だと思うのだけど、多く見積もっても25%くらいしかない。4分の1が満たされたところで何がどうなるものでもない。


これと同じように好きとか大事とか言葉の意味を分析している。僕はあまり遣わない言葉だから余計に気になるけど、それほど重みがあるようには思えない。好きは虹色だけど、大事は行動を伴うものなはず。

 

おしまい。