硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

ものさしの話

 

 

良くない言霊は自分の中に留めていたり、抽象的に語ったりする分には構わないけど、あまり特定するといけない。返ってくるから。ということで昨日の日記は一日限り。

 

さて。

だいぶ持ち直した。自己診断というかネットの簡易診断ではそうそうに専門医にかかった方が良いですだったけど、たぶんまだ自分でなんとかなるレベル。チョコとビールしか味を感じないくらいになるとやばいかなと思うけど、ちゃんとご飯は美味しい。グリーボールはキャベツの一種だけど味も食感も柔らかい。

 

持ち直すための1つの動作として、美味しく感じるようにご飯を作るというのがある。メインは豚肉と大根としめじの炒め煮。ベーコンと卵の味を加えないスクランブルエッグ。もやしとにんじんとピーマンの酸っぱいカレーナムル。あとグリーンボールと鰹節の青じそドレッシングサラダ。どうでもいいけど、グリーンボールっていう単語はタッチタイピングの練習に良い。伸ばし棒の辺りはあまり遣わないから死角になる。

 

でも、一人で食べるご飯に何も感じないっていう感覚も分からんでもない。

味って味覚だけじゃなくて、食べている環境みたいなこともあるし。団欒で楽しく食べると美味しいっていうやつ。僕は実家のご飯時間自体はあまり好きではなかった。強制的に食べさせられている感がなんとも。ただ、料理の味自体は美味しかったなぁという記憶があるのだけど、昔姉と妹に母親料理上手かったよなって言ったら、両者ともそんなことはないっていう見解だった。僕以上にご飯時間が嫌だったのだなぁと。

 

確かに他人と食べるご飯って変な緊張感があることは否めない。

そんなことはない人の方が多いのかな。会食がリラックスタイムなんてことはありえないのだけど。この話ややこしくなってきたから保留しておこう。

 

 

そうして。

 

持ち直しの話。

 

呑み会でやらかしたかもっていうのは案の定杞憂だった。

どれだけ酔っても、大丈夫な人にしか粗相はしない。大丈夫な人の迷惑はこの上ないけど。

うつ傾向でバランス取れてないからもしかしたらと危惧していたのだけど、そんなことはなかった。そうして、ここでの教訓、人は人のことにそこまで興味ないってこと。何回も書いているような気がするけど、そんなものだ。この話は別にどうでも良い。

 

 

もうそろそろ時間もアレだから本題へ。

 

この時間に洗濯する隣人の精神性も気になるけど。

(ベランダに洗濯機があるタイプ)

 

僕の持ち直しの本分は、自分の基準で動くようにすること。

 

基準を一般論にするとどうしようも動けなる。

一般論の基準とはなんぞやっていうと、何かのためとか元気とか頑張るみたいな原動力がないと人は動けないっていう観念。こういう意味でいうと鬱の人に言ってはいけない言葉の故が分かる。要は他人事的一般論か経験則的一般論だから。まぁそういうことを言ってしまう感覚も分からんでもないのだけど。

 

僕の基準は、何かのためとか誰かのためとか自分のためとかでもなく、ただするからするっていう観念。原動力がないだろうみたいなことを言われると、逆に原動力が必要なのだろうっていうブレーキになる。

 

目的を持って生きているわけでもないし、それが重なることはあるだろうけどそうやって観測された自分は別に本当でもない。

 

だからかっていう納得。

もともと信念とか目的とか意志みたいなものが希薄なことは自覚していて、これがうつの感覚と近いのも知っていたからこそ、ただ黙々と積むことをやってきたのに、無駄に馴染んでしまっている。自分のためとか考え出すと動く気なくなるわと。

 

 

もともとそういう観念では生きられないというだけ。

いや待てよみたいな反論も脳内で出てきたけど、そろそろお暇。

 

 

この話題後何回か引きずりそうだなぁ。

 

おしまい。