硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

定点観測

朝から災難だった。弁当のご飯をレンジで温めてラップを剥がしていたら床に落としてしまった。すぐ食べるのだったら接地面だけこそぎ落として食べていたのだけど、さすがに3時間くらい雑菌が繁殖した後に食べると考えると無理だった。だから今日の弁当はおかずだけ持っていって、ご飯はコンビニ業界トップの魚が乗っているやつにした。コンビニご飯も悪くはないのだけど、塩気がきつい。

 

 

晩御飯のメニュー。

 

メインは鶏胸肉と茄子とカットトマト缶の炒め煮。顆粒コンソメウスターソース、牛乳、ケチャップで味付け。うん、美味しいけどパスタソースの方が合うような気がする。卵料理は豆苗との炒めもの。味付けは塩と砂糖だけ。まぁ卵って何も味付けしてなくても味あるし。もう1つは、やっと買ったひじき。人参と油揚げでレンチン煮物。味付けは顆粒だしと醤油と酒と砂糖と梅入りゆかり。ひじきも単体で味があるし美味しいのだけど、言語化はできない。

 

まぁ味覚も非言語の経験の領域。僕にとって美味しいものでも誰かにとっては薄いかもしれないし。これは色覚とも近い。同じ色という言葉で表現されていても、実際に見ている色が同じとは限らない。

 

成分とか分量で定量化できるのは確か。でも、火の入れ具合とか水分の飛ばし方だとか、電子レンジの年数だとか、諸々の条件が違うからどれだけ細かく表記しても再現性がない。もっと言ったら、気分によって色覚も味覚も変わるし。なんとはなしに景色の画素が上がるし、既成品の味ががらっと変わるみたいなことは当たり前のことだと思うのだけどどうだろう。

 

 

はい、前置き終わり。

 

 

ものさしの話の続き。

 

人が人を人として見るとき、何を指標にしているのかっていうのは観測しているのだけど、おそらくはまずは自分にとって有害か無害かだと思われる。無害であれば人とするみたいな。有害と無害が何を持ってそうなるかっていうのも良く分からないのだけど。煩わしいとか精神的にしんどいみたいな抽象的なのは分かる。でも、煩わしさって当たり前のことじゃなかろうか。

 

 

僕の指標はちょっと違う。

確か昨日影響させ合うのが関係だって言ったけど、これは視点が能動的。僕が言っているのは受動的なこと。で、影響っていう言葉の意味もはっきりさせて置くけど、頭の中レベルの話ではない。有名な格言がある。言葉が思考になって行動になって人格になるみたいなやつ。考え方に感銘を受けるなんていつでも何処でもできるから関係とはみなさない。じゃなくて、現実になった時初めて関係になる。

 

例えば、僕は歴代の恋人さんの行動指針はだいたいトレースしている。たいしたことではない。料理は洗い物を終えるまでとかそんなレベル。今だと水回りはキレイにするとか。けども、行動として現実化はしている。

 

言葉でしか疎通はできないけど、表現は言葉に留まらない。

要は、深い関係だったとか言いつつ自分の現実が微塵も揺るがないならそれは関係とは言わないと思っているという話。影響を受けるっていうのは思想の話ではないし、刹那的な現実化でもない。人格として馴染んで初めてそうなる。

 

感化っていう言葉に直すと分かりやすいか。

感化されなくなった人と関係を保つって慣性でしかないような。

 

言葉は思考と直結しているのは確かだけど、思考は行動と直結しているような感じはするけどそうでもない。

 

僕はあまり人に影響したくない派でできればさっさと退場したい。

関係とかではなく人は人としてみる。そうして、それでも自分に影響されているなって思う人は浮き彫りになる。

 

 

あとは、因果律の外の話。

因果律っていうのは、原因と結果の繋がりを一本として考えるっていうやつ。シンクロニシティなら割と一般的だろうか。

 

宇宙兄弟のアニメが共時性になっている。

自分に帰ってきて考えないために情報量を増やすっていうところとか。

 

 

やれやれ。

時間切れだからおしまい。