硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

むきだし

はぁ~緊張した。公募用の自己紹介等と日記編集してPDF化して、人に見てもらって、送信するときが一番。分かりやすいタイトルにしていて良かった。投げてしまうと、投げる前より遥かに楽になる。試験の時も同じで、前には吐き気を催すけど、最中は楽しいし終わった後はもうしょうがないという精神になる。これくらいの精神でいつも居られると良いのだけど、極限は世界にあまりない。ある意味スリルみたいなもので、戦場カメラマンとか山登りとかもきっとここに近いところがある。山漫画がグロテスクなのに好かれるのは、きっと本当はそういうリスクを負いたかったという羨ましさがあるような。結果をありきとして考えるのは、結果が決まってそうな場合であって、結果がないところには適応できない。

 

 

死のイメージについての距離感。僕は結構近いところに居る。とさつがグロテスクだからという大雑把な感覚ではなくて、死が極限状態になったら、人間も動物も変わらない。死には言葉あまり関係ない。死のイメージでもう1つ思い出すのは実家で飼っていた白猫のチロ。かなり人懐っこくて、本能も放棄してしまったような子だった。双子のテンテンはもっとツンツンで、野生に近かった。野生に疎い白は、坂に停めてあったワゴン車のスライドドアの閉まる勢いに巻き込まれて死んでしまった。記憶を掘り返したらその瞬間にも立ち会ったから臓器がはみ出て命が終わるところに居たはずだけど、その映像記憶はない。父親が段ボールに入れてしろという名前の白犬のお墓と一緒に埋めたのは覚えている。そのあとテンテンは、野生をそこそこにして、魂が移ったように人懐っこくなった。

 

何日か前に猫は人の言葉が分かるっていうのを見たけど、そうじゃなくて、むしろ言葉で疎通することの方が劣っているのではっていう説。猫さんに通じたと思えたのは、尾道辺りの公園。厳密にはあの界隈の猫は人とあればくっついてくれるというかもだけど。

 

言語が通じるっていう観念は、言語が高度だっていうことを前提としている。同じ言語を使っていると思っていても言語では無理だなって思ったことがある人は居ないなんてこの日記を読んでいる人には言わせない。言語が分からなくては分かりにくいけど、例えば、相手が言いたい伝えたい表示していることを感じるのは素朴な感覚としてあるはず。ということは、動物の方が感覚的に鋭いから、何を見ているかっていうと、言葉じゃなくて、その人が醸し出す空気では。もっと言ったら、波なのだろうけど。野良猫氏が寄って来てくれないのは下心が垂れ流されているから。これって人間界にも適用できそう・

 

植物には痛覚がないかどうかも人には分からないし、肉は食べない、けど植物は良いみたいな思想は色んなものを馬鹿にしている。植物の世界を言語化したらどうなるのだろうね。痛そうって捉えるのは観測者の感覚であって、植物だってないがしろにされたら痛いと思う。反応として、より育たないとか吸収されないとかより苦みをとかになるのかも。我が家の豆苗は毎回すくすく育ってくれる。自分に分かる反応だけが生きている世界って考えるのは、省エネとしては良いけれど、それを他人の世界と一緒にしてはいけない。僕の世界は誰と

も一緒ではないけど、色んな世界は許容したい。許容ってまるごと受け入れるとはちょっと違う。その世界が正しいとは言わないけど、その世界を創ってきたあなたは正しいという感じ。

 

 

自分の日記を掘り下げて思ったのだけど、滅茶苦茶読みにくい。自分がぼやかす文脈を使うのは一応の意味はあるけれど、読み手として読んだらまどろっこしくてしょうがない。ほんとは無駄な接続詞とか「という」を多用するのもおかしいのも分かっている。自分の文章に思う、を使うのもおかしい。今日はそれをやってみた。随分読みやすくなっているはず。

 

Twitter世界をほじくって批判していたけど、そんなことより自分の表現を磨いた方が得策でしかない。色んな世界が見えるのは良いけれど、見えた世界に影響してもいけない。ちゃんと自我を確立している人は、新しいことに対しても自我が揺らがないのだろうけどいちいち揺らぐ。揺らぐのが通常形態だからもう一回返ってきてなんでもないのはある。

 

 

最後。

 

歴史で培っていた観念なのか、人は自分の仲間を求める習性があるらしい。でも、仲間っていう感覚自体が恣意的なものだから、世の中のすべからくの人が自由に発言できる関係の人と出会えたら良いなって願う。ちゃんと自分で或る人限定だけど。

 

自分であることを探るのはわりと禁忌だから、覚悟がない人はやめたほうが良いって助言する。

 

 

 

 

 

 

 

自己中

ぎりぎりまで引っ張るのはなかなか悪い癖だなぁ。応募の文章作って添削してもらって1晩寝かせたけど、今日締め切りだと思っていたら明日だったからそれで良いかと。もう1日寝かせてもこれ以上の文章はなさそう。日付が離れるほど自分の文章ではなくなる。そしてまだ自分の日記を発掘していないという。

 

 

晩御飯はやっとこさのピーマンの肉詰めと、広告の品だったパプリカと家にあったきゅうりの塩昆布浅漬け。ちょっぴり米酢入り。塩昆布は最後に残留した塩の部分ばかりだったのだけど、これが美味しい。昆布茶と近いのかな。肉詰めは、ピーマンがより新鮮で大きかったらもっと美味しいかったろうなと思う。たまたま玉ねぎがなくて長ねぎにしたけど、火の通りが悪いことから考えるとちょうど良かった。種には塩コショウに加えて山椒も追加、ソースはカットトマト缶とウスターケチャップでサイコロトマトのさわやか味。

 

 

さておき。                  

 

自我の話とかなんやらを書いていたから、寝る前に考えてはいけないようなことを考えたからなかなか眠れなかった。死ぬ前の痛さの話。死に極限に近いところでの痛みってあまりないのではないかっていう前提から、でも意識はあるとすればってことを想像して、勝手に恐ろしくなっていた。例えば、クライミングをして滑落してしまっている間とか、その後に

外傷がひどくて死ぬしかないのに意識があるとか。あと、クレバスの途中に引っかかって生きているとき、電波が通じるならきっと助けてくれじゃなくて感謝を伝えることに電波を使うと思うけど、それを伝えられた残された人がより罪悪感を感じるかもなっていうところもなくはないとか思想がスパイラル。もっと考えると、例えば洪水で暗渠に引き込まれるとか、ダムの排出口に落ちてしまったのに意識があったとしたら、どうだろうって。おそらくは、負荷が高すぎて意識がすぐ飛んでしまうって想像できるけどそうじゃないかもしれない。でも、よくよく考えると人は確実に死に向かっている訳で、あくまで距離の問題でしかないともいえる。大地震なのに体が動かないって夢は良く見る。で、起きてからも自分の血管の動きとか体の反射で、揺れているなぁって勘違いする。

 

 

そうして、そういう世界のことを考えていたからか、梅田の飛び降り自殺を見つけてしまった。動画もセットだったけど、さすがに見なかった。まず動画を撮って拡散する神経を疑うし、なんだか邪気がありそうだし。ただ、人の死の価値が違うっていのはいつでもあることだけど、なんでだろうと思ったら、自我との距離感によるということ。全然関係ない他人の飛び降りなんて動画で撮ろうが何をしようがなんとも思わない。自分は同情できないから。

 

たぶん、中世の魔女裁判で処刑されている人を眺めいているのと同じ感覚なのだろうな。いや、別にこの感性自体は脈々と続いているものだから否定すべきではない。撮った人とは絶対関わりたくないなというくらいで。人が他人の死について悼むかどうかっていうのは、その人の自我との距離によるのだろうなっていう仮説。家族の死とか友達だとかは、自我の一部が死ぬことに等しいから悲しい。関わっても自分の世界から離脱してもなんとも思わない人も居るだろし。亡くなったとしても、あーそうかで終わる。

 

ここに、人の命は等しいんだっていうなんだか正義漢の人が生まれているのが現代。たしかに理念的には等しくて、この等しさは国家が国民の命を等しく扱うことであって、個々人が個々人の命を等しくなんて、無理でしかない。

 

 

人が死んだら何が悲しいのだろう。

 

僕が命の価値観で気持ち悪いと思ったのが、保育園の散歩中に車が事故して突っ込んできて、保育園が会見を開いて園長が泣き崩れたという話で、Twitterにその泣き崩れている場面をキャプチャーして、さも自分は園長の気持ちわかりますみたいなところで、保育園は悪くないみたいなことを主張していた人。本当に慮るなら、感情を煽るように園長の画像を使うなよって。一回貼ったらずっと出回ることになって、園長がTwitterを使ってなかったとしても保護者界隈は分からないし、その画像を見る度に悲しみがフラッシュバックされる訳で。人権を守っている人と標榜している人の行動とは思われない。

 

もう1つ、気持ち悪いまではいかないけど、胡散臭いなって思うのが、飲み会に言ってたら、凄くセクハラされている男3人女1人の飲み会が隣にあって、トイレ行ったらその人がストレスで吐いていて、大丈夫ですかって聞いたら、けなげに大丈夫ですって答えたっていうエピソード。これ自体は本当にあるかもしれないし、そうだとしたら他人でも何かしらやろうとは思うけど、この聞き手はそれを放置して、後日Twitterにエピソードだけ載せている矛盾。これが本当だとしても当時者になったときに放置したのは女権を推奨する立場を表明しているのだったらおかしい。放っておかないはず。自我の距離感。

 

子供は嫌悪感を放っておいたら差別することになるという研究があるらしいけど、これって観測者がどういう思想であったかっていうのも影響しているように思う。客観的な観測なぞないっていうのが厳密な物理学界隈であったみたいだから、統計上のデータもどこを捉えるかで解釈はずいぶんと変わる気がする。

 

 

なんだっけ。

 

この流れで、シンクロニシティという名の共時性も、あらゆる外界の情報からたまたま自分の意識に登っていることが目に入ったところを世界としているっていうのはある。意識が変わると世界が変わるのはよほど頑張ってきた人だけで、そうじゃなかったら、自分が嫌だと思っていることばかりが目に付くようになる。

 

 

ということは、自我も他人がどう思うかみたいなことは考えなくていい、という境地までは至ってないけど。

 

 

最後。

 

こうやって気持ち悪さを表明しているけど、誰か、じゃなくて自分が持ってる気持ち悪さをあぶりだしているだけなような気がする。

 

 

おしまい。

越境

ピーマンの肉詰めを作るつもりだったけど、タイムマネジメントの不具合でタイミングを逃した。作ったことなかったから楽しみだったのだけど。実家では良く出ていた。ハンバーグを半分に切ったピーマンに詰めるということかな。ハンバーグは1人で作るとコスパが高いからあまり作る気がしないけど、マーボー茄子の余りと考えればそう悪いことではない。ご飯は1回で終わるものではないし。そうして安かった鯖缶ももそもそ食べようとしている。

 

歯が痛くて食が楽しめなくなるように、口内環境って食を楽しむための前提項目みたいなもの。歯医者がおっくうというもの分かる。昨日歯医者に行ったときに抜いた神経に何かを詰めるっていう治療をやってもらったのだけど、口の中でなにかが焼ける匂いがするなんて、なかなか生きた心地がしない。どこかの神経に誤って当たってしまったらどうなることやらって。舌の下の動かすときにやたらと可動してしまう肉の部分に口内炎ができて気になる。けども美味しいものは美味しい。今の嗜好は魚介系に寄っているから、我が家ではあまり食だけて良かったとはならない。

 

 

食には、色々栄養学的な意味以外の栄養があるのは確か。

食も文化に規定されている部分があるし、文化じゃない部分もある。栄養価みたいな独立した部分で語るからおかしくなるのかどうか。

 

 

さておき。

 

興味というのも面白い観念。

日本語のニュアンスが面倒なのは、「が」だとそれしかないだし、「は」だと他と比較しているみたいだし、「も」だとなんでも良いみたいなところ。僕は雑食だから「も」がちょうど良いか。

 

 

今この日記と並行して劇評の公募の文章を考えているのだけど、なかなか難しい。明日締め切りだから今日ざっと書いて、明日推敲してから出すつもり。執筆した文章も同時に要るかから、この前演劇見にいった感想日記をPDFにして送るつもり。誤字脱字は直すけど、編集するかどうかは未定。

 

興味っていうのは結構、怖さと紙一重みたいなところがある。ということをひしひしと自分の文面から感じる。こんなので大丈夫なのかみたいな。でもこれって、自分の言葉を想像した読み手をして見ていることに近い。自分が自分の表出物の読み手になってしまったら、その人物はいったいなんだろう。

 

 

ということになると、何も書けなくなる。どうするの?誰かに悪影響あるんじゃないみたいな自分が

 

 

なんにせよ、自己紹介が苦手。途方もなく苦手。

どうしようもない。この日記で描いていることが途方もない自己紹介だというなら、おそらくそれは確かだけど、纏められてない自己紹介なんて紹介ではないという矛盾。

 

 

じゃなくて、興味と畏れの類似性か。

 

新しいところに踏み出すことが楽しいだけっていうのは子供の感覚で、そこには他人が想定されていない。実際は、そこに生きている人はいくらでもいるし、そこの界隈が受け入れてくれるかっていうかっていうのが出てくるのが関係というか社会を知った後に出てくる。そうして、その先が、本当はその界隈の既得権益は参入者の固定観念でしかないという、自分が作り出した檻みたいな。

 

何かをやりたくなったらやってみたら良いみたいな結論。

しかし、それを実践するのはなかなか大変。劇評もなかなか怖いし。自分の文章に価値が出てくるって嬉しいことなんやろか。想定読者が増えるから主客がスクランブルする気しかしない。そもそももそもそ。悪影響なんて考えていたらなんも書けないし。演劇は公メディアに晒されなかったから、独自に発展できたのもありそう。

 

悪影響宗教界隈はかなり恐ろし気な世界観だし。

 

 

そのまま現実に戻ってきて。10歳ユーチューバーがかなり叩かれているみたい。おそらくTwitterを使っていない人には何の影響もないのだろうけど。確かに義務教育くらいはやっとけみたいな意見があったり、不登校の理由が宿題が嫌だ、ロボットになりたくないっていうところに違和感があったりするのは分かる。O157の時の風評被害みたいにメディアの意見に流されるみたいな。外の人からすればカイワレ大根がスーパーに売ってなくても食生活にほとんど影響がないけど、影響された側からするとたまったものではない。

 

ただ、自分がしんどいことをしてきたという経験則で、不登校したらのちのちしんどいことになるぞーっていう見解は誰の為にもならんだろうとは思う。自分の劣等感を関係ない子供にぶつけるなよと。そういう人はどういう文脈にせよ実生活で自分に対して寛容を求めているのだろうという気はするから、別にどうでも良い。ユーチューバーはほぼ見たことない。メンタリストはちょっとだけ。

 

そうじゃなくて、世界の見え方の話。この10歳に対して、肯定否定にしろ、見解でこの人の将来に責任は持てないのに好き勝手言うところ。他人事を正義でいう言葉で括るのはなかなかいただけなくなる。

 

 

と言ったあとに、やっぱり勉強は大事だというのが自説。

勉強って言うと何か知識を入れるみたいなことに限定されそうだけど、そうじゃなくて、実学も含めて。自分が本当に興味に思っているかどうかというのは、他の世界も知らないと比べられない。知識を道具としてしか使わないなら、興味はどういう時系列でも同じだろうなとは思うけど。強制的じゃなくて、自発的に何かしんどいとされることをしてみないと、自分は見えないような。個人的にはしんどいと思っていない矛盾。

 

 

最後に。

 

速読を越えた瞬読というのが広告で出てくるのだけど、別に変な話ではなくて、人って外界の膨大な情報を並行的に処理している訳で、文字情報だけ目で追わないと分からないっていう方が変だということ。まぁ、処理したものを再現できるかというとまた違うのだろうけど。

 

 

おしまい。

 

 

今日は午前中から外に出たのだけど、いい季節だな。一軒家にはだいたい花が咲いていていい匂いが漂っているし気温もちょうど良い。匂いの好き嫌いは食の好き嫌いと近いような。花の匂いは甘さみたいなところに近いのだろうけど、経験によってどうにかならないものもあるから微妙に違うのか。野草の中にはもの凄く臭いものがある。ドクダミも臭いけどやや香草感があるからまだマシなような。

 

一番の違いは人に適用されるかどうか。まぁカニバリズムは禁忌にしろ、人を味覚で味わうというのはないこともない。汗とかなんとか。匂いもそういうところはきっとある。これは経験というより、その人とかDNAとかの問題なのだろうか。

 

全然関係ないけど、一番近所のコンビニは、いつ行っても汗臭さが鼻につく。店員さんの制服を洗ってないからなのかどうか分からないけど、不潔な印象は拭えない。こびりついている。ただ、立地がちょっと悪いにも関わらずいつもなんだかんだお客さんがいる。何かに守れているのだと思う。

 

そうして、嗅覚って味覚とは違う意味の本能で、生理的に相性の良い人を選別する機能があるのかも。異性の方が良いにおいがするとかなんとか。まぁだいたいの人はだいたいの人の匂いが分かるような距離に行かないっていう物理的なパーソナルスペースがありそうな。まぁよほど正負の方向にはみ出してない限り無臭な世界なのだろうけど。匂いを感じる対象が匂いを発していると捉えるのか、自分がその匂いを捉えているのか。自我の範囲の捉え方にもよるのかな。知らんけど。

 

中学時代、ワキガだったと思うのだけど、嫌われている人が居た。フルネームも思い出せる。そうしてそれが匂い故だったのか、その人の人格故だったのかは未分離だったりする。僕はそこまで排斥していた訳ではないけど、嫌われた目で見られることが多かったからそういう人格になったのかもしれないとはいえ、人格自体も好きではなかった。なんてこと言い出すと中学時代のクラスメート1人も連絡取り合う仲になっていないからなんとも言えないけど。

 

そうして、カフェバイト時代の店長もワキガだったのだけど、なかなか嫌われていた。良い大人が臭い臭いと言い募って共通の敵にしていた。権力構造に上下があるからおおぴらに排斥はされなかったけど、まぁ頑固なところはあるからなぁとか。僕は店長の読書癖が合っていたし他人と自分を峻別するところも良かったから、あの職場で雑談するのはこの人が一番心地よかったのだけど、まぁ匂いは分かる。そうして雑談したあと他の人に店長と楽しそうに話していたけど一体何が面白いのみたいなことを聞かれる。

 

異質なものへの排他性は、成長しないのか、大人になってもあえて見ないようにしているのかは分からないけど、多数派だからという理由だけで正しいみたいな共通精神は、気持ちが悪い。嫌いだっていう共感数が増えることで自分の嫌いが何か正義みたいなことになるのは、人間のDNAに刻まれた歴史みたいなことなのだろうか。好きで括られるとまだましかというとそうでもないような気がするから、そもそも括らない方が良いのではと思わなくもない。寂しいけどね。

 

ただ、世界の見え方が世界を決めるっていう話から考えると、こういうのも僕の精神世界の反映だったのかもしれないという仮説もある。かなり極論っぽい考え方だけど、多かれ少なかれ世界の見え方にはそれぞれ文化的だとか個人的だとか社会的とか無数のバイアスがかかっていて、その偏向自体は特に問題ない訳で。

 

問題は、どういう文脈にせよあなたの世界も自分の世界と同じだよねっていうことを求める偏向。似ているくらいならまぁ良いかってなっているけど、自分の訴えのために、他人を巻き込むことはいかん。喜怒哀楽の表現は個人的なものであって、不謹慎だとか、悲しみとは涙だとか、固定観念を他人に押し付けちゃいけない。あと、他人との交流ってどうあっても寛容がある。自分が親だから他人がやっていた許さないことも許す。主語は子供だからでも同じ。ここに情があるのかというとそうでもないような気もする。自己の延長みたいなものだし。

 

 

でも、こうなってくると、どうやって他人と交流するのかっていうことになりそうだけど、交流も断捨離するみたいなことで良いのかなという暫定的結論。その場のみとかじゃなくて個人的なところだと、よほどのことがない限り、他人はわざわざ自分と関わってくれているみたいな感覚で良いのかなと。この感覚と自己価値を直結させると自分なんて石ころだみたいなことになるけど、自分と他人から見た自分の価値全然繋がっていない。認められることに重きを置かなくても良いのではっていう話。ただ、これは自分が流動しているっていう前提ありき。

 

最後。

 

自我の話を、脳科学の臨床の話と自我発達論の心理学系列で並行して読んでいるけど、なかなか恐ろしい。心理学系列の話だと、自我とその外の境界は曖昧だっていうのがある。例えば自分の所有物とか服とか履いている靴とかは自己の1部で、接近だけど、同じ物でも他人が身に着けていれば自我のからは離れて自我ではなくなるみたいなこと。愛着なのだろう。僕はあまり自分の物を大事にしないから良くわからないけど。それで、脳科学の方は、脳疾患が起こって、身体なんとか症になったとき、自分の片腕を自分の物じゃないように認識してしまう症例があるらしい。言語野も他の五感もまともなのに、そこだけ死角になってしまう。

 

これを、疾患がないから自分は彼岸だけど興味深いって捉えるのが通常の感覚なのだろうけど、僕は、健全とされている脳機能があっても死角があるのじゃないかって思うから、おそろしい。死角があることが恐ろしいっていうのもあるけど、死角を自覚しない人が一般的だっていう妄想の部分も。それでも完全な自分だって思えるのは羨ましくもあるけれど。

 

 

メモ。

 

1周目終了。全体像を感覚的に掘り返した。掘り返すと他のものも掘り返されるから大変。

そろそろ劇評の公募の文章を考えねば。採用される気がしない。

 

 

おしまい。

 

 

過密

酢の物が食べたくなったからきゅうりとわかめで作った。ここに蛸があれば完璧。烏賊でも良さげな気がするけど、なんだか違う。たこわさも作ってみたことがあるけど、いかわさだとちょっと違う。調理方法だと烏賊の方が圧倒的に優勢だったりする。しかし、家で海鮮系は鮮度的に高い。

 

さておき。

 

つぶやき場界隈を見ていると世界は11人違うものなんだなぁと思わずには居られない。ステレオタイプの抑圧から解放された場である分、余計に個人の固定観念が目立つというか。良いとか悪いとかではなくて肉体ありきの社会より少し精神世界に近いだけで、この延長がSF的なネット上の仮想世界なのだろうなというだけ。世界の見え方が人によりけりというのは、人は経験で作り上げた世界を壊すことがかなり難しいという証拠であって、ということは、国からすれば経験を制限すればするほど統制が楽になるということ。教育も近しいのかな。

 

個人的には人の個人的世界を垣間見られることがなかなか興味深いけど。ジェンダーロールと性自認フェミニストの緊張関係とか。生物的には男性だけど性自認は女性な人が女子トイレに入るのは是か否かみたいな話で、それを悪用する男性が居るから駄目だという論。難しいけど、男性性対女性性の二極化だったのに、自分の経験から外れた概念が出てきて価値観の崩壊になっているのだろうと。

 

ジェンダーロールって制度に規定された性別的役割だと思うけど、僕は幸いにもそういう押し付けみたいなのは家族に特に感じなかった。女性ばかりが年長者だった言うのもある。おじいちゃんは早くに亡くなって父親も亡くなっていて、家庭内で言うと、女性の恐ろしさの方が一番最初の自我に近い。だいぶ抑圧されたし。これを嫌悪と名付けるなんてできないくらいに畏れ多いみたいなところがある。でも、友達は男で一般的なジェンダーロールの人だったからなかなか大変。だから、どっちの固定観念も嫌だったみたいな土壌がある。

 

 

という流れで、食べ物の好き嫌いが多い人は人に対しても好き嫌いが多いっていう記事を見つけた。これはつぶやき場界隈で見つけたのではなくて、食の好き嫌いが何故悪いのかっていうのを調べていた流れで見つけた。偏食は栄養が偏るとかじゃなくて、自分の好きなものばかりしかなくなってうんたらみたいなあまり納得できない流れ。大人が好き嫌いしているのに、子供にだけ好き嫌いないことを押し付けてきた来たらそりゃあ子供ながらに嫌だろうし、この辺りのダブルスタンダードを子供はよく見ているという説。

 

んで、食の好き嫌いが人の好き嫌いにつながるのは、子供の話じゃなくて、子供のままの味覚で接続されている大人の話ならまだ分かる。子供が好き嫌い多いのは、生物として存続するための本能みたいなものだから、腐っているものを判別するために苦みをアウトにするのは自然だし、甘みはエネルギーに直結して一番大事だから甘いものが好きになるのは自然だけど、大人は味覚の要素も知っているだろうし、ある食材から得る味覚とか食感が好きじゃないっていうのは単なる好き嫌いで、自分の都合の良い人しか収集しないみたいな。

 

僕はいうと、食の好き嫌いはなるべくないようにしようとはしている。一応日本のスーパーに置いてあるような食材はだいたい食べられるくらいにはなった。あと、ベトナム料理おとか、知らない味覚とか香草とかも積極的に収集している。パクチーは最初トムヤムクンヌードル食べたときに受け付けられないって思ったけど、この生理的違和感は知らなかったからでしかない。

 

 

ということで、食の好き嫌いが激しいことが人の好き嫌いに接続する人は、感覚が幼いという結論になる。幼いは別に悪いことではない。人が向上するには幼さをどれだけ残しているかにあると思っていたりするし。人の良し悪しを食べてきたものだけで決めるというのは分からなくもない。経験も食べるものだろうし。

 

 

そうして、俗っぽいものからちと離れて。

 

 

表現についてちょっと考えていた。表現の自由じゃなくて、素朴な表現とか芸術表現とかのこと。自分の内面を示す言葉っていつ生まれたのだろうなぁって。感情表現が生まれたのはいつかという話。言葉の機能って、人のもやもやの輪郭をはっきりさせるっていうのもあると思う。喜怒哀楽とか、人の感情をはっきりさせた言葉だと思う。喜怒哀楽の言葉がなかった時代にもそういう現象はあったと思うけど、言葉にすると、反芻できるようになって、この自分の感情は本当にこの言葉であてて良いのかということになったり。

 

今思うと、僕は高校時代古文が結構好きだった。できたから好きになったのか好きだったかできたのかは知らないけど、今の言語からすると、言葉がかなりふんわりしている。心情の描写は現象から比喩ばかりだったような気がするし、「あはれ」に何個意味があるんだよみたいな。個人的にはやはり徒然草の序文が好き。ものぐるほしけれ、ってきっと感情ではなくて、なんだかそわそわして落ち着かない自分を俯瞰しているのではとか。別に当時はなんとも思わなかったけど、感覚的に合っていたからという気がする。漢文は逆にきっちりしていたから楽だったような。こういう視点でもう一回勉強し直したい。徒然草も意訳だと訳者さんが兼好法師の何を思っていたのかを想像して埋めている気がする。

 

 

最後

 

経験によって人は見えるものを変えることができるのだけど、変えられない部分もきっとある。というのは、試験の過去問を解くのじゃなくて、答えを辿るだけを今週で5周しようと決めたのだけど、この方法って、高校時代に自分が数学のテスト勉強でやっていた手法だった。勉強をやった過程を記録として残すのが宿題だったけど、そうじゃなくて、無心で辿るだけ。その時は手で書いてやっていただけだで今はもう少し洗練されているけど。インプットの手法として一番やりやすいものっていうのは最初に自分で試行錯誤しているはずで。

 

 

おしまい。

 

 

 

 

 

 

 

 

自由と迷惑

蕎麦を食べた。納豆と温玉でめんつゆにワサビを溶いたつゆ。ここに山芋か長芋があれば最高だった。でも、乾麺を美味しく茹でるためには三リットル以上の鍋で少量の蕎麦を茹でなきゃならないらしい。パスタは芯の場合はアルデンテが良いけど、蕎麦に芯が残るのはなんだかもそもそする。食文化は奥深い。

 

っていう流れで、蕎麦をすする文化は外国からは違和感があるっていう外国の方の個人的主張を一般化して、自分もすするのは嫌だ、こういう文化は変容すれば良いなっていうのがつぶやき場に流れていた。文化は当たり前だから従わない人は悪だっていう思想は悪いけど、自分の当たり前と違うことで排除しようとする思想もなかなかやばい。

 

悪いっていうのは、道徳的に悪いとかじゃなくて、そこに参加している個人を害するという意味。僕は社会的集団のルールとしての道徳は円滑な社会において大事だとは思うけど、個人的な関係においては網が粗すぎると思っているから、個人の問題を社会で括るのもおかしいし、社会の問題を個人と直結させることも不適切なような気がする。個人の集合が必ずしも社会ではないし。職場も一種の社会だと思うけど、その場の空気を決めているのはある力を持った個人だったりするけど、それを一般化して、どの職場もとか一般的な企業はこうだって考えるのは思考が粗いという意味。

 

今日も表現の自由について進めていた。性表現規制はほんと難しいと思う。チャタレー事件とか悪徳の栄えとか規制すべき性表現と当時の最高裁判所が認定したものも今や手に入るし、そもそも規制根拠が性風俗っていうよく分からないものだから、なかなか。ロジックが良くわからないから、知識として収集するのも難しい。例えば個人を性的に貶める表現だったら分かるけど、それだったら性表現を言うまでもなく名誉棄損罪だろうし、性的羞恥心が社会共通のものだっていうのも今や結構苦しい気がする。需要だって色々細分化されているだろうから、単に男用のコンテンツだという主張もできないし。

 

 

ともあれ、憲法上の表現の自由っていうのも時代によって変わってきているから、なかなか難しい。もともとは政治的な論評を封殺されないっていうところが中核だったはず。そこから、為政者の都合の良い表現だけお墨付きがあるってなったら情報が偏るだろうということになって、人のあらゆる行動の基礎になるのは情報だろうっていうのが現時点。要は、表現を規制されないところに根っこがある。自分にとって気持ち悪い表現が流れることは、ある意味正しいことで、それを規制してしまえっていう考え方は自分がする表現も誰かにとって気持ち悪いという理由で制限されることとセットになる。

 

つぶやき場みたいに私人がなんの後ろ盾もなく発する場ができたことで、どうなるのかというのは気になるところ。テレビが主要なコンテンツだった頃は、ニュースを見ることでしか外界の情報を知ることができなかったわけで、報道の自由は一般の人の知る権利の為に重要で、今もその重要性は変わらないのだろうけど、その頃でもテレビの弊害みたいな話はあった。報道機関の印象操作によって世界が変わるみたいな。あと、受動的に情報を受けるからコミュニケーション能力がなくなるみたいな。確かに考えようみたいな方向に向かう情報は提供してくれなかった気がする。今はテレビがないから知らない。ってなことを言うと、学校でも考えようみたいなやり方はほぼなかった気がする。どうやったらいじめはなくなるかみたいな作文を書かされた時のは考えるの範疇だけど、情報がなかったし、ないなりによく考えたなぁ自分みたいなことはある。ほんとうになくそうと思ったら、思想統制するとか、属性意識を持つように育てた親まで巻き込んで罰則みたいなことをしないと無理な気がする。

 

じゃあ、ネットが発達して、自分が思う当たり前が当たり前じゃないっていう情報が蔓延している今、受動的じゃなく能動的になって、情報の幅が広がったかっていうと、個人的にはあんまり変わらないという説。自分だけがそう思っているんじゃなかったっていうのは個別的な社会から救われるっていう面はあるだろうけど、能動的な分、同じだと思う、あるいは自分が肯定的に評価できる情報ばかり収集することになるから、世界の敷居はどんどん孤立する。

 

僕は生身の人間に同じだなーって思うことはあまりないから、同属意識を感じることはない。神話上の人物とかフィクション上の人物には結構あるけど。思想で括って徒党を組むっていう感覚がそもそもない。

 

という意味では、気持ち悪いものがあるから気持ち悪さが分かるっていうことは結構健全な精神を育成するのではなかろうかと思う。

 

ようつべを見ていた子供が言葉遣い悪くなったから見るのをやめさせたっていうのが少し流行っていたみたいだけど、言葉遣いくらいならいくらでも変化するものだから、なんとでもなると思う。かめはめ波を真似していたこととあんまり変わりがないような。

 

自我が確立している人ならだいたい分かると思うけど、自分の自我が何か1つの情報でできあがった訳ではないはず。人格となるとなかなか難しいけど。人格は根深くて、自我はその上澄みみたいなこと。

 

人の言動を見て、これは人格なのか自我なのかっていうのはなかなか判断が難しい。

 

ここで思うのは、子育てみたいな教育の話の時に、蔓延している情報が悪影響になるから無くして欲しいっていうのは的が外れていて、結局のところどんな情報があろうが子供は親というか最初の保護環境をトレースして育つということなのでは。言語なんて最初は分からないし、話せるようになっても言葉の観念も分からんし。僕の根っこは田舎の村社会にあることはどうしても否定できない。それで良いとできるのか、違和感があるのかっていうのが、接した情報量なのかっていうのも分からないけど。

 

属性で括るっていうのは基本的には脳の省エネだと思っているから、そうやって節約して人を捉えるのは悪いことではないのだろうなと思う。というか世界の限定か。限定した方が良いとも思う。

 

最後。

 

山岳関係に携わっている人をテーマとしている漫画を読み進めているのだけど、なかなかグロい。滑落した人は原型を留めていないと想像しているからこれでもやんわり表現しているのだろうけど、なかなか。ここで、そんな危険なことしなければ良いのにっていう感想は現実的だけど、それを許そうっていうのが現代社会。個人的にはリスクが高すぎてクライマーは無理だなと思うけど、それでも他人の自由は制限できない訳で。1つの例を挙げると、登る山を前にして知り合った人と飲んで、別々に登っていたら、数日後にその人が落ちてきて、手を伸ばしたかったけどひっこめたというやつ。

 

難しいけど、あえてリスクを負うことも自己決定の1つだろうと。

そういうことで自分を確立するというのも自己決定。迷惑っていう観念が顕在化される領域だと思うけど、潜在的な迷惑はどこにでもあるしなぁ。

 

僕は実家の裏山の山頂(標高400なんぼ)の景色が好きだし、石鎚山に登るのも楽しかったから、生身で自然に挑む快感は分かる方だと思われ。ただ、肉食獣が生息しているとか、足を踏み外せば即アウトみたいなところまでの覚悟はない。

 

いったい何の話だったのだろうと思わなくもないけど、おしまい。

 

 

 

 

人の定義

茄子の旬夏でよかれと問いつつも我が欲するは只今なりけり

 

ということで茄子が広告の品だったから、鯖缶とトマト缶とピーマンと一緒に炒め煮にした。オリーブオイルたっぷり目で炒めて、缶詰加えて、ほんとはコンソメ顆粒が良かったけどなかったから、ウスターソースと塩コショウで味付けしただけ。茄子久々で美味しい。あと2本残っているから残りはマーボー茄子にしよう。

 

あと、昨日スーパーで見つけた、やたら長い油揚げを水菜とレンチン煮びたししてみたのだけど、やたらと美味しい。一般的なのと作り方が違うのかあまり揚げ感がない。しっとりしている。

 

 

さておき。

 

今日は特にないなぁと思っていたけど、そうでもないか。色々ある。僕は高校時代世界史選択で、1番嫌いな授業といっても良いくらい。でも、哲学史とか文化史とか宗教史とかと繋げて収集するなら面白いだろうなと、今はやっと思う。日本史は戦争より文化に寄っているのかなと思うけど、どちらにせよ、勝者の記述が残っているような。旧約聖書メソポタミア文明とか、古事記飛鳥時代とか照らし合わせて取集してみたいところ。聖書物語も読書時間に読んでいる。作者が解釈したものを日本語化しているのだろうけど、バベルの塔のエピソードは随分ニュアンスが違った。僕が知っているのは、全世界が共通言語をもって神様に届くようなバベルの塔を建てることが神の怒りに触れたから言語が分かれたっていうものだったけど、この物語では、ノアの箱舟のあとに産めよ増えよみたいなところから、バベルの塔で全人類が住んでしまえばまんべんなく人が居ることがなくなるから言葉を分けたみたいな話だった。解釈としてはどちらもあるのかもしれない。

 

ここで思うのは、要は、テキストよりも解釈の方が大事で、解釈の広がりは時代とか環境の許容性なのだろうなと。嫌悪感も正義感も愛憎も、その人が生きる領域でこそ意味を持つ。

 

嫌悪感についての話は、ヨーロッパで過ごしている日本人家庭で醤油を弁当に入れて、学校で女の子に臭いから嫌いって言われたときに、先生がその女子生徒に、嫌いは違いであって嫌うことはよくないって教えて、泣いて謝ったという話。嫌いは嫌いで良いけど、それを表明することが駄目だという説を唱えていた。

 

あと、石田光成のエピソードもあって、上司の膿をなんでもないように飲んで立てたみたいなこと。生理的嫌悪感があっても現実化な振る舞いは別にすべきという流れ。

 

一見繋がっているなぁと思ったけど、僕の解釈は少し違う。

それぞれの時代の生きやすさっていう道徳の中での話であって、普遍的な話でもない。石田三成の話は、道徳的にすばらしいっていうより、嫌悪感より上司を立てなきゃならないっていう規範でも解釈できるし、これってその時代のヒエラルキーに従わなかったというだけという見方もできる。君主の一存で首が飛ぶ時代に道徳規範なんてあったものでない。

 

あと、素朴な直感として、差別が悪いものだってする観念自体が差別を醸成するっていうのはきっとある。だから、醤油の件では、素朴な違和感とか拒否感が悪いものだってすることは良くないっていうのは正しいとは思う。他の文化を排斥するっていうのは人の素朴な精神だし、色んな文化的表現が混在できているだけで日本は進んでいる。その素朴な嫌悪感を否定して、道徳的に皆仲良くできるみたいな感覚は仲良くできない人が悪いっていう意味を伴うから、ホロコーストの再来なのだろうけど。

 

大人が良いと思う情報に触れさせるべき論にずっと違和感を持っていた。だからゾーニングとかも良くわからんって。これに対する疑問を解消する本を見つけてしまった。発達心理学じゃなくて。発達自我学というもの。少し古そうだから、発展してないってことは都合が悪いから潰された可能性がある。それで見たのは、新生児ってかなり未熟に生まれてくる分学習能力が半端ないし、一定の学習があったとしてもしばらくしたらリセットされるっていうもの。

 

人間が人間たる所以は自我だっていうコンセプトの学問。で、自我とは本能の外にあるものとのこと。ということは、どんな情報に触れるかとか教育みたいなことは本人の自我を構築するものとしてかなり低いところにあるのではっていう気がする。一番は非言語領域であって、庇護感なのではと。庇護されていると思えるから反発できるのであって、それがまともな反抗期。僕は反抗期も少ししかできなかたなぁ。

 

っていう意味で、人に何かを教えるとかっていう時に一番大事なのは、制度に頼ることじゃんなくて、ちゃんと自分が自分として確立しているか、なような。言葉でどれだけ武装してもそれを発する人を見ていると思う。子供はそうやって生きるしかないから、拙いって見るのは疎いような。

 

持ち上げたからバランスを取るけれど、自我が自明だって捉えているような気はする。子供が自我のために諸々やっているのはそれ構築するためで、構築したあとの自我には学習性がないってことになりかねない。もちろん一般的にはそれでも良いのだろうけど、完成した自我でも流動すると思う。恋人さんは随分とかわいらしくなっているし。自我は内心の領域だからたやすく変わる。

 

自我を本当にコントロールできる人はお釈迦様くらいになる。

相手に合わさなくなれば僕もそうなるのではっていう妄想はあるけど。

 

なんだっけ。

 

文章を書くことがアウトプットになる論はどうしても採用できない。

だいたいの文章って、アウトプットされるための言葉に見えるから。そうじゃなくて、自分の内面の非言語の深海を文字として発見するなら分かるし面白い。

 

僕の個人的な話だと、アウトプットは瞑想とかまどろみとか散歩中に自分に収納されたものを点検するのが先っぽいし。毎日インプットしているのもあるけど、インプットされてきた過去は抹消する訳にもいかない。当時の感情なんかも思い出されるけど、自我にとって

の感情はあまり大事なものではない。

 

突き詰めて言うと、個人にとって感情って至上なものだとすれば、それに従ってくれる拒否されるか押さえつけないといけないものかみたいな話になるけど、その感情を投げた相手の感情まで考えると、なかなか自明ともいかなくなって、正解は固定観念とはいかなくなるという話。

 

最後。

 

歴史が芸術のある程度を抹殺してきたことから考えると、科学技術的なものも同じだったかもしれないっていうファンタジー。ロストテクノジー

 

 

おしまい。