硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

境界領域

炒める時にわざと焦げ目を作るように炒めたキャベツは香ばしくてなんとなくバーベキュー感がある。実地だったら多少行き過ぎても、自然とか空気とかの調味料でなんとなくなるけど、ガスコンロで1人分作るとなると許容範囲は結構狭くなる。

 

そうして、今日の昼ご飯は2人分作った。有限のメニューの選択。ある食材の中で二人分を考える。うどんが一人分、常備菜のぜんまいきんぴらが残っていて、卵としめじと椎茸と豆苗がある。そこで、米を一合炊いて、ゆかりと白ごまの混ぜご飯にちょっと風味付けのごま油。うどんも使いたいから主食のもう1品でキノコと豆苗のあったかいうどん。特に隠し味みたいなものはないけど、ほんだしと醤油と砂糖の配分は一過相伝くらいな秘伝ではある。次作る自分にも承継されないし。そうして、これではたんぱく質が足りないから、残りの食材を使って卵焼きを、何か月かぶりに作った。味付けは塩と砂糖と白だしを数滴で油はごま油。配合バランスは知らない。卵焼きは卵単品の料理の中でトップだと思う。人の手をかけないと作れないから。ともあれ、ランチで4品なんてなかなか贅沢ではあると思う。

 

美味しそうに食べて貰ったけど、僕はこれが嬉しいっていうより、こういう領域に居てありがとうと思った。厳密に言うと、個別的な人間関係において、相手の為に作ろうとする過程をくれたこと。相手の嗜好はどうかっていうのは一緒にご飯を食べていたらなんとなくまでは分かるけど、本当のところは分からない訳で。結果としては自分が食べ終わるより早く食べてしまったったというのはあるけど、それはまた別の話。

 

 

というところで考えるに、料理って、自分が食べるためだけの領域は思考と、他人に振る舞うっていう意味では表現と近しいものではなかろうか。生命維持のためとは今や別領域。サプリとか点滴でも生命の存続だけならできる時代、食も趣味の領域に移行しつつあるし。

 

ところで、なにやら直に接するところでも自分はどうやら変わったらしい。何が変わったかを言語化することはできないらしけど、僕もあまり言語化はできない。これは言語に対する過剰な信仰と発話者からの文脈を読んで現実化しろみたいな社会性の名残りだと思わなくはない。一応は、断捨離して浄化されたからみたいなことにしたし、これは一応近しいことだけど、要は、属性から独立した自己を承認したことで、外から見たら自信に見えるみたいなところではないかなと。拒絶に対する不安とか想像力は従来通りだけど、だからといって、自分の中身は揺らがない。というか揺らぐのが自分だからいちいちダメージを受けても揺らがない何かがあるっていう不確定的な確定的な人格を承認したところ。ここの承認は社会的でもないし倫理とか道徳的なものでもない。

 

 

ということで、表現の自由の話。

 

嫌悪感の話はつぶやき場で盛り上がっているのだけど、少し飽きてきた。

 

嫌悪感の共存のために嫌悪感自体を道徳的に承認するっていう命題は、要は社会的マナーの話であって、直感として分かる人なら分かるし分からない人は一生分からないものであって、話し合いで埋まるようなものではないというのが自説。嫌悪が行動ないし態度に直結するっていうのが一般的で見方である世の中だったら、嫌悪自体をなくそうというのが自然な風潮だし、直結しないっていうのが大勢になれば嫌悪自体は承認されて良いってことになる。もっと言ったら、本当は直結してないのに直結してるっていう美談が旧世代の価値観なような。

 

これで言うと、何か公に表現している人は、何某かの感情から発しているっていう推定になる。例えば見られること自体に価値を置いているとか、同じようなものさしを収集したいとか、肯定的評価をされたいとか。信念なく発している人がほとんどに見えるソーシャルメディアで発していることを子供に見せられるのか、みたいな話。

 

多様性を承認するって言ってしまったら、かなり厳密な自己統制が必要になる。

嫌悪感の共存の命題は、少子化の先にやってくるのは移民だっていう射程まで含んでいるような気がするけど、ほんとのことは分からない。

 

こういう倫理的な側面で、ヘイトスピーチに対して徐々に規制が広がっていることと、表現の自由に含まれる芸術について。思想に公権力が介入したことで芸術が殺されてきたことは、あまりおおっぴらにはならないみたい。おそらく対象が「人」ではないからだと思うけど、人の世界は自分の世界の視野であって、そういう世界を広げるためのものが芸術の最初だと思っている。厳密にいうと演劇が一番担ってたっぽい。

 

ヘイトスピーチの定義って、一番広く言うと、属性に対する差別的表現みたいなことらしい。

国際的には規制すべきだっていう風潮だけど、なんとか日本は守っている。条例も大阪とか東京でできているみたいだけど、そのうち憲法違反の判決が出るような気がする。

 

これって、フランスではTwitterで発した人が統制されたらしいけど、こうやって狩られることが人として進んでいるのかどうかという話。属性で自分を括らないようにするのが最終地点なのでは。ただ、かなり孤立することになるけど、孤立が悪いことではないっていう承認があれば問題ないような。もちろん、自分を属性でしか捉えられない人は自己観をぶっ壊されることになるけど、マジョリティーがなくなることが差別をなくす一番手っ取り早い手段だと思う。どういう文脈であれ属性の威を借りれなくなったときに残ったその人はどんなものか。

 

っていう人格論とは別に、芸術と表現規制の話。

 

芸術っていうには表現物だけど、社会的な背景が不可避。哲学の最初の方にある人は芸術は人民が堕落するから要らないって見解を示していたところから言うと、残ってきた古典的な芸術は、都度都度の社会で必要ないっていう一般的ルールから外れて残そうとした意思の系譜があってこそ。古典が好きなのは、この部分もある。

 

日本で言うと、残っている文豪の作品って、個人的なことを問題としつつも為政者に対する風刺は読み込まないと分からないっていうくらいでしかできなかったものが残っている気がする。外国だとガリバー旅行記もそんな感じなのか。現代でいうと伊坂さんは社会の巨大さを語っている気がする。

 

という感じで、芸術分野って、表現の自由の規制と離れているようで一番敏感な部分だったりする。今のところマジョリティー言葉狩りのところにあるから大丈夫だけど、ヘイトピーチが一般的に規制するようになれば、差別用語とされているものを表現に取り入れようと考えて創ろうとしたとしても規制されるから迂回しなければいけなくなって芸術の自由が阻害されることになる。

 

もう一つ致命的な問題は、ヘイトの部分が時代とか環境とか社会によりけりということ。

もともとは、マジョリティがマイノリティの属性に関しての差別的なものさしに基づいての表現だったのだろうけど、日本で言ったら、自分がマジョリティだと思っていたらマイノリティだったみたいなことは将来ままある訳で、表現規制論はやめといた方が良いとしか言えない。自分が見たいコンテンツが回りまわって消えることになる。

 

 

最後。

 

つぶやき場が飽きたっていうのは、公に語れる思想が自分には成り立たないなっていうところ。もちろんここだって公だけど、自分の物差しを他人にこれが良いよなんて言えない。だって、僕のものさしは僕が四半世紀以上構築した結晶で、これを表面でなぞらえるのは無理だし、なぞりたいと言われても無理だし。かといって、これで人を下げるということにはならない。他の人が積んできた年月とは質的に違うから。

 

 

ただ、お互いの年月を収集したいっていうものさしになると話は違う。

そういう関係だとぽろぽろ積んできた知識が出てこられる。僕は知識を自分の内面に向かわせているから、知識が誰かよりあることで他人より優れているとはならない。これは経験も然り。

 

最期の最後。

 

日記だって一種の表現物だけど、いっぱい読者が増えたら嬉しいことにはならない。冒頭の料理の話と一緒。僕の根本的な人格的欠陥は顕示欲がないっていうところにあるような。私的関係では別だけど、どちらにせよ、顕示欲って何か苦労した返ってくるっていう疑似お金みたいなとこにある。反応こそ価値があるみたいな。

 

だから僕の日記ってどれだけ苛烈っぽいこと書いても誰もやってこないんだろうなと。Twitterだと、自分で見るアカウントを決めないとどんどん流れて行って彼方に行ってしまう訳で、自分とそぐわない見解を追うっていうのも自分がその世界を選んでいるから同列と言っても構わない。世界を選ぶっていう感覚も分かる人しか分からないという。どんなだって少なからず選んだところはあるだろうに、それを受動に捉えて悪い部分を他責にする。

 

信念不足という説もある。個人的には信念なんてなくていいし、他人に信念を求める信念なんて割とやばい。信念って、自分のごちゃごちゃした矛盾を無理やり一括りにするもので、自分に使うことすら不適切なのに。

 

もちろん、それで良いっていう信念をちゃんと持っている人に文句はない。

信念とはこういう文脈でこそ使うもの。

 

おしまい。

 

 

 

 

 

 

住み分け

お腹が空いても思索に触れる方に優先価値を置いてしまうのは不健康極まりないような気もするけど、朝夜と食べているし、途中で水も飲んでいるから問題ないのかな。いっそ昼は無塩ナッツくらいにしようかとも思う。三食論は別に生物学的な話でもなくて、確か何処かの国の商業戦略だったようなおぼろげな記憶があるし、生命維持以上の食の話は趣味嗜好の領域だからいつ誰が何を食べようが自由か。

 

オリーブオイルの健康効果を調べるところから始まった。オリーブオイルも独特の癖があるから、慣れないと違和感があるから、ある程度訓練がいる。それでしばらく調べてみて衝撃的だったのが、エキストラバージンオイルって表記されていても表記を決めている国際なんとかっていう団体の基準が緩いから、含有成分がピンキリだということ。作り方で味が変わるなら分からんもないけど、モンドセレクションみたいなことなのかと。ちょっと違うか。

 

別にこういうことを調べるのは、選択の自由の枠内で調べること自体が好きなだけで、別に健康志向でもない。脳っていう器官にとって有用なものも調べたりする。魚とかチョコレートとかブドウ糖は良く聞くけど、水はなるほどなって。水分補給は仕事でも同じだろうけど。アボカドも良いらしいけど、定期的に食べたくなるのはそういうことかと(違

でも、最近全然安くならない。

 

あと、読解力みたいなものも見ていて、僕はあまり読解力ないのだろうなぁと思った。額面通りにあまり言葉を捉えないっていう素朴な直感と、いや言葉は記号だっていう後天的に習得した論理の矛盾で、なにかちぐはぐになっているような。

 

右脳左脳のどっちが優位かっていう診断で、ゆびを組むのと腕を組むときにどちらの手が下かで決まるっていうのを見た。僕は両方右脳優位で、感覚肌だということだったけど、これをちゃんとした研究結果ではないから信憑性がないという見解つきのものだったけど、確かにこの考え方も有りで、僕もあんまり信じていない。この診断が正しいとすれば、腕を組む時に意識して逆にすることを無意識にできるようになれば脳の優位が変わることになる訳で。ただ個人的な体感としては、自分の直感に違和感があるとされたところから、常識を疑う方向に哲学学が始まったっていうところはある。別に性自認異性愛だし、何か精神疾患の認定をされている訳でもないから、マジョリティーなのだろうけど、だからこそマジョリティー論理に受け入れられない部分があったというか。

 

 

さておき。

 

この前書いた強制性交等罪の事件って、訴因の問題もあったらしい。訴因は刑事訴訟法の重要論点なのに。訴因はざっくり言うと、検察官がこの犯罪が成立するか判断してくださいっていうもので、裁判所は検察官が準強制性交等罪で起訴したから抗拒不能が争点になってそれは認められないとなった訳で、控訴審で強制性交等罪に訴因変更して暴行又は脅迫が争点になったら判断は変わるかもしれない。

 

 

ともあれ。

 

なんだか、元号も変わったことだし自分が書いてきた文章を1回全部消去しようかなという衝動がある。勝手にしろよという話だけど、一応言っとこうかなと思うだけ。自分の文章ほとんど読み返さないし、きっと矛盾だらけだろうし。前に書いた時から自分の世界は更新されているから一概に矛盾とは言えないけど、他人から見ればきっと矛盾になるだろうなと。

 

 

そうして本題。

好き嫌い論。

 

何か違和感があった思想

 

子供は傷つきやすく弱いから、守らなくてはいけない。だから、子供に対して性的に見る嗜好を持つ人を社会は容認してはいけないというもの。表現することを認めて欲しいっていうことに対してかな。前提はなんとなく分かる。でも、後者は良く分からない。素朴に個人的感情として気持ち悪いとか、実際に害を与えたっていう形容詞句で限定したそういう嗜好を持つ人なら分かる。

 

これは、昔、漫画アプリで男性の性的不能者を揶揄した表現が、子供にこんなものを見せるべきではないとか実際にそういう障害を持っている人を傷つけたっていう文脈で炎上したのを眺めていた時にもあった違和感と似ている。何かいっしょくたにされているのことは感じるのだけど、だからと言って、その傷を訴えている人を批判したい訳でもないし、というもやもや。

 

そこで、というか、パターナリズムについて調べつつ考えてみた。

パターナリズムっていうのは保護主義って訳されるもので、要は○○という人たちはこうこうといった理由があって、完全な人より援助するする必要がある国家が守る。しかし、その分何かしらの制限がある。みたいなこと。

 

最初に出てきたのがたばこ増税の話だったけど、これは違うと思った。僕は喫煙者だからマイノリティ。タバコを吸う自由と吸いたくない、体調が実際悪くなる人もいるっていう調整で、場を住み分けましょうっていうこと。健康に悪いから減らさなければならないっていう目的らしいけど、憲法判断って立法者が規定した目的に限定されないから、医療費削減も含まれるかもしれないし、医療費削減のためにたばこを吸う人を減らすことを目的としてたばこの値段を上げましたでも通じる。

 

子供はまもるべき存在であるっていうのは分かる。歴史上、労働力とか性的奴隷みたいなこともあったし、今も世界で完全になくなっている訳でもないだろうし。ただ、ここに子供は判断能力が未熟だし物事の分別がつかないのが子供だって理由をつけるのはなんだかおかしい。子供は人ではないって言っているように見える。では、子供と大人の基準はどこなのかという話も出てくるし、18歳ですって言っても、その基準を決めたのは大人であって。だから、パターナリズムの話は、子供の未熟さを理由とするのではなくて、この世代の大人が子供にそうしたいと思っているエゴだくらいでいいような気がする。犯罪あたるものは犯罪とするのは当たり前だけど、ゾーニングだったら。僕が幼少期だった時代はテレビの自粛も緩かったけど、縛りをきつくしたら性犯罪が減ったっていう統計結果があるならまだしも。

 

ちょっとずれたな。

主張としては、子供が性的な目で見られることでトラウマになるから容認してはいけないみたいな話。容認の定義も一元化できるものではないだろうけど、誰もが目に触れるネットでそれを表明しないことを社会的なスタンダードにするみたいなことだと、いやいや、子供を一括りで捉えるのは子供を個人として見ていないようなということになる。ここで子供は自分と同じ人ではないっていうものさしであるって自認するなら分かる。

 

パターナリズムの論文はまだ完全に読みこんでないけど、教育の話だった。ここでは、自我の発達段階に合わせて教育をするべきで、一括りに児童とすべきではないみたいなところにいきつきそうだと予想している。これは凄く良い。個人的には自我の発端は最初にある環境だと思っていて、そこには学校も含まれるけど、何を勉強したかよりも教師も含めてどんな人と最初社会的に接したかの方が強そう。科目自体は中立だろうし。道徳は別か。

 

給食でも家庭の食卓でも好き嫌いはいけないっていうは教育としてどうなのだろう。

僕はたまたま好き嫌いもほとんどなくアレルギーはなかったけど、栄養で考えたら、他の食材でも代用はできるし、食わず嫌いも一般論としては認めるようなことを教育した方が良いような。個別論として、個人的関係において自分が好きなものを勧めるのは良いけど、そのときに皆食べているんだからって補強するのは違う。」

 

僕はたまたま自分の嫌いを克服したいっていう精神性だったから自分で料理するようになって色々食べて他の国の食材とか味付けも採り入れているけど、だからといって、皆それをしたら良いとは思わない訳で。修行みたいなものだし。

 

 

あとなんだっけ。

 

三つ子の一人を育児ノイローゼになって床にたたきつけて殺した事件で、何故か母親を擁護する署名が集まったっていうのも見た。僕はこの事件に対して母親の問題が社会的問題だって一般化するのもなんか危ういし、やっぱり子供は人じゃないのかっていう印象。刑法上胎児と人は違うけど、これは別に価値観の話ではなくて、処罰類型として違うというだけ。

 

 

多様性とは嫌悪の共存だっけ、原文とは違うかもしれないけど、これは至言だと思った。

 

ということで、好き嫌いと表現の自由の話。

どんどん文字数増えるなぁ。

 

つぶやき場はマウント取る場だなぁって思っていたけど、今日はまともに論理を追っている人をいっぱい見つけて、ほっこりした。上から目線でもなくて、論理というか理論というか命題を語るときって、自分の素朴な感情とは切り離さないといけないなとずっと思っていたけど、そういう層がほとんど居なかったから、論理とは言えくっつけるのが当たり前なのかと観測していたというだけ。頭は思索にうずもれていたけど。

 

素朴な好き嫌いっていう反応は許されて良いっていうのは、なんとなく冷たいというか優しくないように見えるけど、そう見えること自体が、感情は行動とセットだっていう、割と古い人間観だと思う。内面はともあれ、行動は切り離せるのが人間の理性であって、切り離していないのはどちらかというと差別=嫌悪としているものさしの多数派っぽい。

 

まぁ嗜好とか感情の表明が人格に直結するっていう考え方も分からなくはない。特に犯罪とかの有事の時に顕著だけど、他人って基本的に得体の知れないものだから、言語とか行動とかの表明から逆算するしかないし。ただ、人格自体があやふやなものだから、どう逆算したところで相手には辿りつけないし、自分にもたどりつけないっていうのが自説。

 

 

思想的区分が直感的に嫌だなぁって思っていた理由もなんとなく言語化できるようになった。結局のところ、属性で語ることが差別の芽になるからだろうなって。相手を属性で見るっていうのは認識のショートカットでしょうがないけど、自分を属性の代表者であるように括ってしまうと、自分すら個人じゃないのかって。属性の中での個人っていうのも分かるけど、じゃあ属性をとっぱらった個人として語ると良いのではと。そのうち変わる価値観だと思うけど。

 

でも、属性を提示しないと議論の俎上にすら上がれない、みたいなことはありそう。

 

 

眠くなったので、おしまい。

おやすみなさい。

変化という代謝

なかなか細々と料理している。読み方はこまごまでもほそぼそでも可。

 

今朝はもやしとサラダほうれん草と温玉うどん。うちのレンジでは50秒くらいがちょうど良いみたい。昼は火を使いたくなかったから、豆腐丼。すりごま、しょうゆ、顆粒だし、味噌でタレを作って、サラほう豆苗をのっけて、最後にオリーブオイルとマヨネーズ。夜は、ぜんまいきんぴらともやししめじ椎茸のゆかり和え、納豆に塩コショウとオリーブオイル、豚こま塩コショウ炒めを豆苗にのせたものに市販の柚子胡椒ドレッシング。ぼくの夏休みっていうゲーム実況を見ている影響なのか、品目が増えている。昭和中期から後期の田舎の家庭に都会の小学生がホームステイするみたいな話なのだけど、食卓がやたらと毎日豪華。

 

和食と中華の味付けはだいたいできるようになったけど、イタリアンも入れたいなと思って少し調べた。オリーブオイルは常備しているけど、あとはにんにくとハーブとか胡椒とかみたい。バジルも育ててみたいなぁ。にんにくは栄養的にも凄いけど、国民皆が毎日食べていることを前提としないとなかなか毎日食べるのはキツイ。

 

ともあれ、平成初期の田舎の家庭でも、品目は多かった。

これは別に時間的に余裕があったということではないと思っている。忙しさの定義がきっと違う。今でいう兼業主婦の母親は母親の先代が専業主婦でやっていたようなことをやっていた。家計的には大黒柱くらいだったけど、要は家庭の為に自分の可処分時間をほとんど全て費やしてくれていたということだから、団塊世代というか昭和中期のものさしのスタンダードだったのかもしれない。父親のものさしはなんとなく坂口安吾さんとか夏目さんくらいな感じだったから、そこにズレがあったのかも。

 

最近リバイバルがやたらと多い。漫画だったら中華一番とかるろうに剣心とか、幽遊白書もあるのだっけ、ドラマだったら結婚できない男の続編とか。コンビニの24時間が廃止されそうっていう話もあるし、令和では料理スキルが男女問わず必要になるっていうことになるのかもしれない。手っ取り早く買えるっていうものがなくなれば必要に迫られてやるしかないから、農業も盛り返してくるかも。まぁその分カップラーメンとかの即席ご飯がもっと増えるっていう向きもあるけど、栄養の偏りをなくすことは一応自分の残り時間を増やすっていう意味もある訳で。僕は単に趣味みたいなものだけど。

 

 

ということで、平成最後の日の話。

リアルタイムで天皇陛下の最後のおことばを聞けた。僕はあんまりただただ万歳みたいな感覚はないから、見て最初思ったのは、お疲れ様でしたという言葉。あとは結構あっさりだなと思ったけど、年齢を考えたらあんなによどみなく話すって凄いこと。

 

ただ期間が長いだけで短いものを下に見るっていう精神は好きじゃないけど、ここの歴史の重みに関しては平服せざるを得ない。思想的な意味ではなくて生きる芸術みたいな感覚。

 

 

人間宣言があって象徴になったけど、天皇とか皇族には普通の人権がない上に、日本の顔として生きなきゃならない。生まれの身分で人生が決まらないようにするっていうのが近代憲法のコンセプトなのに逆行してまで何かを残そうとしている。天皇制なんて無くしてしまえっていう考え方があるのも分かる。予算が流れているかは知らないけど、国庫レベルで枠にするなら、それを分配しろなのか、天皇制自体が気に食わないのかは知らないけど。それをどう捉えるかも個人レベルで構わないっていうのが今の日本だし。

 

ちょっと面白いなと思った考え方は、天皇家が時代を先取りしているっていう説。

なんの実権も持ってないのにこれだけ影響力があるっていうのはそれだけで価値がありそうな。平成生まれの人の中にも尊敬している人はいっぱい居るだろうし(分からないけど)、これでものさしを学んだとしてもデメリットはないと思う。対価がないところで気持ちを相手に与えられるところ。

 

と、持ち上げているけど、道徳的ないし思想的な意味で天皇陛下に対して何か信仰心がある訳ではない。ただ凄いと思うだけ。残っているということは残そうとした人の意志がある訳で、それを背負っていることに対しての敬意。と、纏う空気のよどみのなさ。

 

 

 

そうして年号が変わりました。

色々変わるだろうなぁ。

 

これで3つの元号を生きたことになるのだけど、正味昭和に対して実感は全くない。記録としては3歳か4歳くらいでどこかから落ちて骨折したらしいけど、それがギリギリ昭和と平成の間。だから自意識は平成が最初なのだろうけど、ものさしの収集は昭和だったのだろうなと思う。ちょうど時代の変わり目だけど、大人は皆昭和生まれだし。田舎だからゆったりとしていたっていうのはきっとあるけど、余計に昭和だった。

昭和以前の世代のものさしって高度経済成長もあいまってやっただけ返ってくるみたいなことだったのかな。高学歴が大事って。ただ、今年の東大の祝辞が何かにぎわっていて全文ちらっと読んだけど、社会に出たらもっと差別があるっていう発言は良いとして、学べるのは環境のおかげだって自覚しろみたいな発言はどうなのだろう。恵まれているって思うなら良いけど、日本の最高学府に卑屈を芽生えさせる可能性もなきしも。卑屈精神って相対的に劣っている人を見下すことになるような気もしないでもない。自分の力でやったっていう自負を壊すっていう意味もあるのか。なんにせよ完璧にまるっきり受け入れるような話ではない。

 

そうして、平成の価値観ってなんだろうっていうと、自由になったって言われているけどめちゃくちゃ閉塞感があるからちゃらんぽらんで良いやっていう感じな気が。平成初期と中期後期は全然違うだろうけど、これって何が違うかって考えると、教育の違い。義務教育は平成だけど初期だったから、まだゆとりといわれているより前。ただ、ゆとり世代が何か劣っているとするとしても、それは当人の責任ではない訳で。あと昭和世代が凄いかっていうと別にそうでもないし、なんというか、何かレッテル貼って自分を保っているとしか。

 

学ぶ人は勝手に学ぶし、それは高等教育機関がどうのでもない。

大学の科目で面白かったものがあったとしても、卒業した後にそれをやり続けるかっていうのは当人の資質の話で、対価とか強制されてやっていたことを自由になってまで続けるなんて普通はやらない。

 

でも、令和の時代はそういう主体性が重視されるのかなと想像したり。

固定観念がどんどんぶっ壊れる時代になると良い。昭和と平成の変わり目もきっとそうだったろうから、そうなるはず。

 

 

最後。

 

こうやって変わり目の話を書いているけど、ほんとうに素朴な自分は世の中の変化なんて全然どうでも良かったりする。それより自分の変化の方が大事、じゃないな、世界の変化として重要、くらいな意味。なんなら主観的に見れば自分の変化に合わせて元号が変わったくらいの曲解みたいな感覚もあるくらい。

 

要は他人を害さないところではかなり強気の価値観があるということ。

関係になるとどんどん自尊心を殺していくけど、もともと関係ってそんなものではという気もしないでもない。関係によって自分が開拓されるっていう面も等価だけど、関係で開拓されるのは、、。はて。

 

 

何を大事するのかって、本当に固有な意味で表現できる人は居るのだろうか。

 

 

ってな感じで、平成最後の日は、令和のための準備をして過ごしました。

 

 

おしまい。

 

 

 

 

 

 

 

器の任意性

夕方5時過ぎに母親から連絡があって、何某かの用事があってまた後で電話するから取ってくれと言われた。ニュアンス的にすぐだろうなぁと思って、マーク試験の過去問解いたり、判例読んだりして待っていた。その電話が終わってから買い出しに行けばいいかと思いながら8時までは粘ったのだけど、しゃーないかと思って買い出しに出かけたらちょうどお会計をする前にかかってきた。そして佐田岬に行ってきたとかGW入ってどこかに行ったのか、いや言ってないとかの問答と雑談も含めて電話を終えた。なんだろう、あまり他人の時間の価値を想像できない人というのは少なからず居る。現状何にも拘束されていないのは確かだけど、だからこそ自律してスケジュール管理をしなきゃいけない訳で。厳密にやっているっていうより、気分の乗り具合にちゃんとついていくという意味。なんか自分と接していないときはすべての時間をかけて夢に時間を費やしていると思っているような。

 

ここまでで400文字ちょいか。

 

文字数を自覚的に把握することは色々有用だろうから、なんとなく感覚的に分かるくらいまでは行きたい。脳科学者の人の話で、脳波をモニタリングしながら訓練したらある程度コントロールできるようになるみたいだし、何事をするにも自覚的であることにデメリットはなさそう。スマホのアプリとかで出ないかな。睡眠の深さがモニタリングできるならなんとかなりそうな気はする。

 

そうして、他人の時間について想像力がないというか無頓着な人について、特になんとも思わない。そういう価値観なのかと思うだけ。これってお金を価値観の基礎に置くとそうなりがちな気がする。仕事じゃなければ融通利くだろうみたいな。もちろん可処分時間はそこに回せるけど、回せることと回さなきゃいけないことは全然違う。家族っていう枠がなければ全力で逃げるものさしではある。

 

時間への価値が薄いのは、無意識で過ぎていく時間の方が多いからだと思う。気を抜いたらどんどんと死へ垂れ流されていくもの。

 

ここで学習したのは、人間関係において相手の任意性に任せるということ。あと、時間をかけても良いと思う物事や人に対しては待つのも関係の一部。こっちは自分の任意性。刑罰とか契約とかの拘束がなくても空気感での強制というものはある。常識とか家族観とか、自分が造り上げた観念を他人にも強制したい人は多い。そりゃあ自分の観念でしか語れないのだろうけど。

 

僕は任意っていう言葉が結構好きかもしれない。意向に任せるというか、意思に任せるというか。自他が自由な気がする。自分が決めるという方向にはやや薄いけど、そっちも時間の問題だろうなと。期待っていう言葉はなんとなくよさそげなものとして使われているけど、上から目線で自分の観念に合ってくることにコントロールしようとするなら、ある意味強制に等しい。自分の予想とかものさしを越えてくるものとして使われているなら問題ないけど、自分を対等以下として相手を見るなら楽しみくらいが適切なのでは。

 

閑話休題

 

やっと乾燥ぜんまいを使い切った。どこにスイッチが入ったのか分からないけど、朝一でぜんまいとえのきとささみの炊き込みご飯と箸休めの大根のゆかり浅漬け、わかめとトマトの味噌汁を作った。2合炊いたから処理するのが大変で、昼は卵焼きをおかずにしようと思ったけど、ランチは楽するというものさしだから、生卵をかけて、卵かけご飯みたいに混ぜ切らずに、カレーに生卵みたいな感覚で食べた。そして残りのぜんまいはナムルに。ごま油で炒めて、酒、中華だし、しょうゆ、にんにくチューブ、白ごまだから、調べたレシピではナムルだったけど、個人的にはきんぴらな気がする。細かい定義は知らんけど。

 

ついでに、今までの日記とここ二日くらいの日記って何か文章が違う気がする。別に厳密に読み返している訳でないけど、空気というか非言語が変わっているような。非言語領域を気にして文章を読むというのは基本的に無作法な気がするけど。僕の文章って何かを語りたいわけでもないし、思考の整理とも違うし、位置付けが難しいところ。学問しているというのは結構な有力説。

 

どこかの誰かがこれを読んで何か思うところがあればというくらいか。

 

さておき。

 

夏目さんの行人読み終わってしまった。主人公の兄はかなりややこしい奴。死ぬか宗教に入るかみたいな有名なフレーズがあったけど、ややこしさ具合ではきっと負けていないくらいに観測されてそう。次の夏目さん枠は何にしようか。吾輩は猫であるもこの家のどこかにあるはずだけど、大掃除中には目に留まっていないから違うのかも。硝子戸の中だっけ? も読み切ってなかったような。

 

やはり今日も歌詞なしBGM

クロノクロスにした。

 

学問の有用性についてちょっと調べた。経営学は役に立ちすぎるから大学ではやらないっていうのを見たのだけど、なんとなく分かる。妹は経営学部だったはずで、拝借したゼミナール経営学入門も一読で有用性は感じたけど、それによって何かを考えることになる訳でもないなと。経営者が語るやるべき学問3選も見たけど、確か法学、会計学、英語で、これは学問じゃなくて実学だろうと。全部進行形だけど。

 

役に立たないけど教養になるっていうのが本当の学問らしい。

誰かに語れるっていうのも役に立つの1つで、そういう意味で言えば心理学も実学っぽい。研究者って新しいものを探求してそれが対価になるからまた別の話で、構築された学問を取集する意味は、自分のことを掘り下げる道具になる。というだけと評価するかは本人次第だろうけど。研究者はまた色合いが変わるのかな。

 

美学入門を読んでいたら、プラトンアリストテレスが出てきた。

プラトンは芸術家を排斥するっていう見解だったらしい。イデア論からすれば素直な帰結かもなと思う。演劇を見ることで感情的になって、感情に流れることは理性的な人物ではないっていうことも言っていたみたいだけど、何某かの劣等感の反動な気がしないでもない。アリストテレスは感情の発散になるから奨励すべきという考え方だったとか。現代で言う、表現物に規制をかけるか否か論争みたいなことを古代でもやっていたのだから、人間はループしている。

 

個人的には、どんな表現物もあっても良くて、そこで昇華されることで感情が現実に向かないっていうのはあると思う。演劇1回しか見てない僕が言うのもなんだけど、共感とか一体化することで感情がろ過されるっていう機能はきっとある。生きるか死ぬかそれが問題だ、の時代は表現物が演劇くらいしかなかったから規制にかかっていたのだろうけど、今や演劇はメディアにかからないから結構自由にやれそう。

 

公刊の表現物も今やウェブ漫画もあるから、規制しようとする勢力も手が回らないのだろうなという気もする。規制する勢力はもともと為政者に対する批判をやめさせようっていう国家だったのだろうけど、今や、女性団体とか嫌煙者団体とかPTAとかの中間勢力が主力っぽい。自分のものさしにとって存在してほしくない表現は抹殺しても問題ないっていう、なんとも不毛な闘争。表現の自由がある限り終わりはないし、表現の自由をなくすっていう歴史の後退を選ぶなら、自分の自由も縛ることになる。

 

でも、グロテスクな表現はなんだか増えたような。

少年少女にはゾーニングされているのかもしれないけど、熊だったら良いのかっていうのが有名どころと無名どころと。熊が人の味を学習してしまった事件は実際の歴史でそういう傾向にあったときに色々見たから、動物園で大型肉食獣見るのはおそろしいところがある。管理しているっていう人間のおごりみたいな部分とか。なんたらカムイよりマイナーな方がしんどかった。夫が熊に連れていかれて、何時間も食べられながらすすり泣きが聞こえてくるっていうPTSD案件。だったらそんなところに住むなよって思っても良いけど、環境がどうあれ、住む場所を決めるのは自由で。僕は絶対熊とかワニとか捕食者が居るところには住みたくない。愛媛の田舎には大型哺乳類(イノブタ)はいるけど、あえて人肉を食う動物はいなかったから良かった。グロテスクな漫画読むと唾液が分泌される気がするけど、これは食べたいじゃなくてアレルギー反射だと思っている。レモンとか梅干しとかと同じ。

 

登山家がはた迷惑だっていうものさしもなんだか似たようなところがある気がする。違いは登山家が遭難したら税金が消費されて救助に向かうことが気に食わないっていう、自分の財布理論。税金は労働みたいな対価の話じゃないと思うのだけど、なにかズレて考えている人が多そう。税金の使い道の何が良くて何が悪いのかも主観論だし。

 

 

そろそろ最後か。

 

なんだかんだ、人が向上することに手っ取り早い道筋はない。すぐ使えるものはすぐ使えなくなるって誰かが言ったらしいけど、そういうこと。ネットにはびこっていう情報って手っ取り早く有用だけど、有用に使ったあとに再現できるか、応用できるかの方が大事。

 

だからでもないけど、僕の文章は、僕に共感するより次に応用してくれた方が嬉しいです。

基本的に自分をまるまる表現できている訳でもないし。

 

さてさて、明日はどう変化しているか。

 

おしまい。

 

 

 

未到達

 

 

ぜんまいが全然減らない。ご飯はちゃんと食べているつもりだけど、胃腸があまり受け付けていない気がする。吐き気を催しても出てくるものは食道に流れている唾液だから、消化はしているのだろうけど。でも、無気力状態かというとそうでもない。体の機能を集中すべきところに集めているような感じ。眠いのは眠いし鈍い気もするけど、それもあんまり関係ない。頭痛も歯痛も肩こりも、すべては反動としておこう。

 

さておき、なのかどうなのか。

 

死について! を読み終わったから、何にしようかと思って本棚という名の本を平積みした塊を眺めていたら、積読というか読んでいる途中で目移りしてしまったうちの一冊が目に留まった。自我が揺らぐときっていう翻訳本。脳科学の臨床医が症例を挙げながら、自我とは何ぞやを探る本。今日出てきた人は、頭を打って前頭葉とどこか忘れたの一部の機能不全になってしまって、痛覚を感じない以外はほとんど変わらない人。掃除用の薬品で焼けただれた骨が見えている手で握手を求められたとか。痛覚が後天的になくなったことを想像すると足が痺れた時の延長で、痛かったこと自体は覚えているだろうから、痛々しさを感じさせるものを見せないようにするくらいのものさしは残っていても良い気もする、この人の場合は痛みにまつわる観念がごそっと抜けてしまったみたい。

 

自己観の捉え方で、かの有名な純粋理性批判のカントさんとカントさんに賛同しなかったジェームズさんの説が紹介されていた。カントさんは、「思考が生まれる前、世界や自分自身についてわたしたちが知ることができるより先に、経験の主体として「わたし」があるはずだ」、で、ジェームズさんは、「移り行く意識の状態があるだけ」で統一的な自我が確立されるのは、その意識の状態を自分が体験し続けているからということらしい。

 

これでいうと、昨日の人のものさしは環境要因であるっていうのはジェームズさんよりの考え方になる。これを突き詰めると運命論みたいなことになるのだろう。そして、自他の行動に動機があるっていう考え方は、どちらかとも言えないか。主体としての自分じゃなくて客体としての自分を問題としているから。動機は主体的な自分の捉え方ではない。他人に説明しやすくなるけど、他人は納得できればそれで良いし、納得できなくても特に問題はないくらいにしか聞いていない。

 

っていうところで、現象学は主体性の追求とのことだから面白いなと。流行らないのも同じ理由で分かる。相対的じゃないから。

 

 

自分は自己観についてどう思うかっていうと、自分自身については任意性をやっとこさむき出しにできてきたなという感じ。そして、自分にとって動機的な言霊がほとんど力を持たなくなっている。表層の意識で何かをしようとか何かをしたいとか何かをすべきだっていうのでは自分を制御できない。表層の意識が何をどうしようが、やることは決まっていると言わんばかりな感じ。「移り行く意識の状態があるだけ」論だと、こういう自分のオートパイロットの良いところだけ自分のものとして悪いものを自分じゃないとするみたいなことになるのだろうけど。操縦なんてしない方が僕の場合はうまくいく。

 

表層的自我は環境に依るっていうのはなんとなく分からんでもない。

 

 

今日のBGMは言葉がない方が良かったから、クロノトリガーメドレー。

言葉には観念が付きまとう。それが良い時もあるし、煩わしいとこもある。

 

で、他人の自己観に対しては、僕から見れば客体になる。で、客体的主観論だと、自分の主観がどれだけ環境要因に影響されているのかっていう意識無意識がある人はほとんど居ないように観測される。もちろん出していないだけっていうこともあるはず。ある環境にある世界では環境に合わせて生きた方が波風立たないから、擬態している人も少なからず居そう。

 

僕の主体もまだまだ解放されていない部分がある。

でも、まだバランサーとして必要なのだろう。上限突破みたいな意味ではなくて不自由かどうかの話。もうちょっとな気がする。

 

 

まぁ、自分がどこかに腹が立つとか暗い部分がある時に、その闇がなんであるんだろうって疑問に思うよりも矛先への力の方がずっと強いだろうから、いちいちそう思う自分を気にすることはないだろうな。という人はちゃんと自我が統一されているとも言える。

 

自我の闇は潜り過ぎるとなんだか恐ろしげ。胎内の環境とかDNAくらいに掘り下げないといけない。胎児に意識はあるかとか。植物が音波に反応して変化するんだから、意識はともかく自我の前に何かにが声掛けとか間接的な手触りの頻度で決定されてもおかしくない。

 

これもおかしくないというだけで、本当のことは分からない。

 

統一的自我の観念は、その都度の社会で不具合なく機能するかっていう程度のものだと思っているから、こんなもの突き詰めてもしょうがないのだけど。

 

 

んで、そろそろ最後だから、思考の言語化という可視化について。

 

思考は言語でするものだって言う考え方もあるけど、これって言語化できたものからの逆算じゃないのかって思わなくもない。見たものとか聞いたものをまるっきり再現できない以上、言語化することと頭の中にはいつでも齟齬がある。人は言語化するとき色々誇張しがちだし嘘もつくし。

 

 

それは嘘だって言ってた人がいて、曰く、イメージで思考するんだとのことで、これもなんとなく分かる。自分の全部が言葉で収納されている訳でもないし、言葉が当人を示してい訳でもないし。

 

 

 

よし、強制終了。

 

おやすみなさい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

睡眠不足で言語不足

寒い寒い。これが終われば一気に暑くなるのだろうけど。でも、これくらいの気温の方が汗もかかないし、厚着もそんなにしなくは良いし、それなりに厚着すれば空調も要らないしでちょうど良いのかもしれない。

 

そういえば、昨日書いていた紫の花と言えば、ガクアジサイもあった。僕っぽい花だと去年万博公園で言われたのだった。

 

さておき。

 

昨日の昼から、前に家から送られてきた乾燥ぜんまいを戻した。まず2時間くらい水につけておいて、水を換えつつ2回沸騰させて、水につけて冷蔵庫に保存するときは毎日水を換えなきゃいけない。水煮を買うにも高級品。とりあえず大量に大根と豆苗と煮物にした。実家風に言うと炊いたか。これだけ手間をかけているからか、野草のアクも繊維質もほとんど残ってなくてやたらと柔らかいのに味はしっかりとぜんまい。未調理がまだまだ大量に残っているけど。炊き込みご飯とかナムルとか色々やってみよう。

 

料理に試行錯誤してきた先人の変態性にはいつも感服する。食べるだけならもっと楽なものはいっぱいあっただろうし、山菜でもアクが少なくて調理が簡単なものだっていっぱいあるし、飢えていたからじゃ説明つかない気がする。探求心とか好奇心とかと言っても、キノコ類に限らず下手すれば死ぬし、模索していく原動力はどこにあったのかという部分。

 

食と言えば、最近貧乏飯のレシピ界隈をダイブしている。個人的には気力が湧かないときにどれだけ時短しているのだろうっていう部分を見るために。っていう視点で見るとそれほど節約しているわけでも時短でやっているわけでもないなぁと。卵かけご飯は好きだけど。あと、貧困生活している人のブログで野菜は高くて買えなくて炭水化物ばかりみたいなこともあったけど、もやしとか業務用スーパーのキャベツとか大根とかいっぱい使えるものだったらコスパは淡水化物とあまり変わらないような。結局のところ調理技術を試行錯誤して高める時間っていう資源がないっていうところなのか。炭水化物のおなかの膨れは不自然だけど、白い炭水化物に飼いならされているからなぁ。

 

ともあれ、精神的に下降傾向がある人のブログで、料理はできた方が良いっていうタイトルの記事があった。これはちょっと別の視点の話。積んでいれば落ちた時でも勝手に体が動いてやってくれるというニュアンス。生命維持にとってはかなり有益なオートパイロット。

 

僕が料理をするって言って、実際に弁当を見せたり食べさせたりすると、僕と一緒に生活する人は味付けにいちいち文句言われそうで大変だ、俺はどんな料理でも文句言わずに食べますって言った人が居るのだけど、なかなか的外れな仮説。他人に料理を作るっていうのはかなりのストレスで、だからこそそういう産業があるし、自分が積んできたことと相手が積んでないことは別問題だから、そこに文句をいう筋合いではない。まぁ、試行錯誤をしようと思わない人の料理はどうか分からないけど、そういう余地がある人には積んだ分で協力できるというだけ。まぁ感覚料理だから切り方とか調味料の厳密な量とか聞かれても分からないけど、料理下手っていうのは自己把握が薄いところにあるのでは、という気もする。

ちゃんと計量スプーンから始めれば、そのうちそれが感覚になるような。

 

夫婦の家事の分担の話で、過程に文句を言いだしたらおしまいだっていう話があった。自分のやり方と違ったやり方が目についてイライラするのは間違いで、結果があれば良い

のだって。僕はちょっと違う。過程の方が大事だと思っている。別にこだわりはないけど、だからこそ、より良い工程を省く手順をお互いが考えて良い。その分手が空いてパートナーが休めるならそれが成果。自分が苦労している分パートナーも苦労すべきみたいな感覚は、相手は味方ではなさそうな。そういう感覚は承継されているものだけど、僕は解脱した。

 

 

占いの本で、牡羊座は相対的に人を見る感覚が薄いっていうのがあった。確かに自覚しているし、そういう部分を積んできたけど、自分が牡羊座だからなのか牡羊座に生まれてなくてもそうだって断言できるかって言われたらそうでもない。学期の話だと、先人が居ないから

自分で基準を作るしかないっていうのはある、のか。

 

何かの反動なのか、やたらと眠い。自律神経とかホルモンの関係なのだろうけど、睡眠は人生の肯定みたいなものだから、良き傾向ではある。ただの生理現象にそんな意味はないかもしれないけど、睡眠は「明日」のために「今」の自分の意識を消すものだって捉えれば、そういうことになる。

 

人の闇。

 

こういうときに危ないのが、自分の精神バランスが崩れたときにふと自暴自棄になってしまうところ。自殺が多いのは鬱傾向からちょっと回復したときっていうのは分からなくもない。精神的恒常性はどういう状態であっても適用される。っていう感じの漫画をアプリで読んでいる。

 

色んな女子高生の精神傾向について描かれているのだけど、共通項としては、親から継承した精神性という部分。造形が良くて、他人ブスだって卑する女の子は、父親が女性を造形で見ていて、母親は父親に愛されるために整形でアンチエイジングしているとか。

 

あと、死者を処理する役所の漫画。中身は風刺っぽいけど、登場人物が死者だらけだから変なクレームが起こらないようにしているのはなかなか戦略的。役所の職員はみんな死刑された人で、職員それぞれにエピソードがある。例えば姪っ子が強姦されて犯人2人を鍬で撲殺したけど動機を語らなかった人とか、嫁が宗教団体に入って云々あって冤罪で死刑なったとか。

 

その宗教団体はなんとなくまともに見えなくもなかった。まぁ、自己肯定を他者に依拠する時点で肩書社会とそんなに変わらないけど。

 

もう1個は三月のライオン2期。将棋の漫画と思ったらいじめも出てくる。

 

これで持って帰ってきた部分っていうのは、人を害する人にはそれなりの環境がある。友人は二十歳過ぎたら自己責任だって言ってたけど、それは社会的な責任であって、社会的責任に至らない責任は責任と思わないことと同義。本音はそこじゃないと思っているけど。

 

要は、どこに原因があるかっていう話。いじめは社会の縮図でそれをする人は親からそのものさしを承継しているわけだけだし、公共の場でマナー違反をする人も然りだし、人を傷つけることに痛みを与えててなんとも思わない人だってそう。環境要因がものさしを決めるっていうのはマウスも人も同じ。でも、ということは、誰か特定の人に感じるもやもやって、もしかしたらその人を作り上げた環境に対してかもしれない。ってなってくると、何にイラついて良いのか分からなくなってきて、生きている意味すら不可思議になってくる。

 

人が進化しない部分はきっとここにあるような。

 

 

おしまい。

 

指針

どうやら今回で200個目の日記になるらしい。何か達成したっていうより、よくもまぁこんなに為にならない文字を綴ったものだという感じ。平均1回1500文字として、30のあとにゼロ4つか。1000文字としても15万。凄いのか呆れるのか判断に迷うところ。別に毎日書くみたいなことはこれには設定していないから、時々空いていていることは問題ない。毎日何か考えていれば。

 

ただ、指が太いし湿度も一定していないからツムツムがやりにくいという動機で100均のタッチペンを買ったついでに、絵を描くことにも興味が湧いてきて、少し調べたのだけど、まずは模写を描きまくるべしとのこと。そうやって上達していくだとか。確かにキーボードも最初は歌詞カードを写すところから始めたなぁ。とすれば、この数10万文字も何かしらの効用があるのかもしれない。効用を主目的としていないから単なる副産物だけど。

 

絵と言えば、美術系はずっと駄目だって言われてきて、字も下手だしデッサンも駄目だったしで、自分の中のイメージを視覚化できないのだろうなぁと思っていた。でも、もはや記憶にもない次元だけど、幼稚園の年長から小学校2年生の間に愛媛から関東の方に遠出して何か表彰されたらしい。推賞だっけか。すいしょうっていう音だけ。何を描いたかは覚えている。ブドウ狩りの絵で、ブドウと人がデフォルメでやたらと大きかった。記憶に鮮明なのはもっと先のもので、姉がこの受賞に対して、まぁたまたま子供っぽい絵が当たることもあるだろうなって言っていた場面。そんなものかーって納得してしまって閉じてしまった。でも、子供の絵の中で選別しているのだから、何かがないと受賞はしないだろうと今は思う。別に大成するなんて皆無だけど、好きを1つ削られたかもしれないなぁと。

 

自分の頭の現実化で言うと、思考を文章化する精度は10年前と今では全然違う。できるとも思わなかった。っていう出発点を振り返ると、その時々で文章が綺麗ですねって背中を押してくれた個人が居たなぁって。今やもう原動力要らない自由滑空だけど、発射するためには原動力があった訳で。って考えると、人の資質は縁でしか開花しかないという説もある。

 

文章については、何年か前からそろそろ頭打ちかなと思っているから、劇評の件は縁として面白いかもしれない。まだ応募もしてないから採用もされてないけど、定期的に演劇に触れられるのは興味深い。

 

新キャベツ買って千切りしたのだけどやたらと固い。

これは普通のキャベツじゃなかろうか。

 

姉の話が出てきたついでに、牡羊座は頑固に突き進むっていう傾向があるっていう占いの本を見た。姉も牡羊座で確かに頑固だなって思うけど、方向が違う。牡羊座が主体性を持つっていうのはちょっと分析すると、日本の学年度制度だと成長が相対的に早いから、一番最初の集団生活でリーダー格になるという傾向にあると思う。僕も結構そういう傾向にあったのは確か。でもうちの家族好かんなぁって思うのが、自分が正当だって思っているところ。

 

一般的なのかもしれないけど、自分が正当だっていうのを保つためにやたらと他人を下げる。特に姉は口が達者で、他人とは円滑にやるのだけど、基本的に自分の正しさのために人を持ち上げて下げる。この系譜は姉が一番嫌っていた母からの承継なのだけど、全然気づいていない。いや、気付いたからこそ離縁したのか。

 

僕は姉を含め色んな人から優柔不断だって評価されてきた。思春期が終わってから姉と母の言い争いに遭遇して、どっちが正しいと思うかって聞かれたけど、他人に正しさを選ばせようとする時点でどっちも正しくない。当時は脳内が言語化されなかったから分からなかったけど、今になっても発話はきっとしない。僕は変わる可能性がない人を変えようとは思わないし、自分がそういう人にどう評価されようがどうでも良い、とまではいけてないけど、そういう方向で良いはず。

 

ってことは、人に影響を与えたくないっていう自己観察はむしろ逆なのか。

自分と接して変化しそうな人を無意識で収集している説。いや、これも逆か、自分が変化するだろう対象としか関わりたくない説。

 

人は良くも悪くも変わらない。

 

 

やれやれ。

 

色彩の話で言ったら、僕は紫が好きかもしれない。藤とかラベンダーの色合いも好きだし、買い物の途中にある名も知らぬ花も良いし、桜もレンゲソウも紫は配合されてるし。好きな色が自分と合うのかっていうのは別問題。

 

議論と言う名の言い争いの話も人一般の傾向と重なる。

集団的自衛権にまつわる議論を、学者 ブログで発見したのだけど、お互い揚げ足を取ることに重きを置いていた。教授がそんなことをやっていたら専門知識が勿体ないと思うのだけど、やっぱり知識があるプライドでマウント取りたくなるだろうなと。観測している分には色々取集できて楽しいけど。

 

 

 

あぁ、やたらと眠い。けど、寝たところですぐ目が覚める。

今日はぎりぎりだから、目覚めたら日が昇っていたら良いなぁ。

 

 

人は他の動物と比べても全然理性的じゃないっていうのを共通認識にしてみたら良いのに。

理性の定義は心理学なのか哲学なのか。

 

 

最後。

 

ここんところで最初に面接したとこで一番本音を出して居て、英語力もコミュ力も足りないからやっているって言ってしまったときに、そんなに八方に手を出して自分のビジョンが見えているのかって言われた。確かに社会的ビジョンとしては見えてないけど、個人的なビジョンとしては必要なことはやっている。社会的効用から見れば的外れでしかないだろうけど、そんなことは関係ない。

 

死について! 読み終わった。

エピローグに宗教外の縁の話を持ってくるのはやりおる。あるレズビアンの人が子供をつくりたくて精子の提供者を求めていて、良いですよっていう人が居て、そういう人がもう一人居て、提供者がエイズになったときに皆で会食して恋に落ちるっていう。原書の言語圏で人気にならないと翻訳されないだろうから、そういう価値観を持っている層がアメリカの方が多いってことか。僕も別に精子くらい提供しても良いけど。自分の遺伝子を継承させることが嫌だって思っていたけど、遺伝子が系譜したって同じようになるかどうかは環境要因の方が強いだろうなって思ってきた。

 

閉じた縁が良いのか開いた縁が良いのか。

 

 

 

おしまい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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