硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

ネタバレ

 

今日は交信日かしら。

前に書いていたところでコメントがあったところから、ここで書き進められなかったかったけど、ちょっとは落ち着いたか。

 

仮想空間で人と関わるのは楽しい。

自分に都合の良い人と関わるのではなくて、もっと混沌した意味で。

自分も混沌とするし。

 

現実での人の関わりは、肉体的な年功序列があるから、条件として隔たってしまえばもう対等はないから公平にはならない。仮想空間は精神世界の話で、精神世界には年功はないから、タメ口で良いだろうって思っている。目上とか目下とかないし。

 

敬語もややこしいやつ。

僕は言葉を大事にするが故に、自分に遣われている言葉が一般との兼用の言葉なのか、自分用に遣われているのかがなんとなく分かってきた。

 

敬意とか心遣いは敬語っていう言葉で現実化するっていう標準みたいだけど、僕は全くそんなこと思わない。敬語って要は、相手に敬意を払っていますよっていう定型文で、肉体的年功序列に依存している。本当の敬意ってタメ口にしていても相手に感じられるもの。

 

 

さておき。

 

 

今日は圧倒的に惰眠を貪るという選択肢もあった。

帰ってご飯を食べずにひたすら寝るという世界線

 

アプリで、ちょうどよく起こしてくれるっていうのを採り入れているのだけど、割と凄い。

強制的に起こされる不快感がない。何を測られているのかは恐ろしいけど、目覚ましの時間から30分前の範囲でちょうど睡眠が浅くなった時間に起こしてくれるし、睡眠のパーセンテージも毎日やってくれる。

 

昨日は最高値の80%。

 

 

そうして、一気に本題。

 

僕が思う睡眠の意義って、意識と肉体の調整にある。意識が途切れる時間が長すぎると意識が肉体に引っ張られて何も思考できない。逆に意識が途切れる時間が短すぎると、肉体から乖離する。

 

これはきっとあまり分からない。

 

何故なら、。

 

 

たまたま仏教的なところが繋がったのだけど、生活上の痛み苦しみは、人間であれば当たり前なこと。仏教は苦しみを語っているって捉えられている。っていうのもある程度知っている用の説明。そうしてキリスト教も別に来世は語っていないという。

 

要は、釈迦さんが語っているのは、人間で居る以上苦しさとは離れられないけど、人間じゃなくなる覚悟があるなら修行しましょうかっていうこと。

(もちろん独解だから本家の人に怒られるやつ)。

 

個人的には日本で味わえる饑餓とか凍死前ぎりぎりなことは味わっているからあんまり分らないけど。

 

 

でもなくて、なんだっけ。

 

 

忘れたからまた明日。

 

 

おしまい

縛り

 

ささみのチーズフライが食べたくなったから大葉入りで作ってみたけど、パン粉がなかったからか、思っていたのとは全然違うものになった。美味しいものしか使っていないから美味しいのは当たり前だけど、料理には見栄えも含まれているから。

 

まぁ美味しいのは良いけど、このままでは頭打ちかなっていう気もした。

もっと緻密に現実化しないと。自分だけが食べるものだからって適当にすると緩む。

 

別に現状に不自由しているわけでもないのだけど、それでは機械と変わらない。

毎日このタイミングで作る物。それも習慣と呼べば良いことなのかもしれないけど。

 

 

さて、おかない。

 

このままを是としながら生きると、向上しないなっていうところから。

自分が気に入らないなら、気にいるように変えていくしかなくて、それは単に時系列のレールに乗っているだけでは難しい。このレールにはもちろん努力も含まれる。

 

努力は良いことできっと自信に繋がるのだろうけど、そのレールはかなり局所的な気がする。努力の概念自体が目的に向かう労力だろうし。これを全事象に対応できる自信とできるなら悪くない。

 

というのは無理だから、僕は汎化できるように積むしかない。

それでも終結がないから生きていられる。

この話つまらないな。

 

 

さておき。

 

思っていたのと違うっていう結果は僕にとっては凄く大事。

期待っていう観念がある。感情なのか価値観なのか分からないけど、僕の中では死語。

 

他人に期待していないって公に言ってしまうと、頗る感じが悪いのは知っているから言わない。期待って、要は、他人の未来を規定する言葉で、そこを外れてしまったら大幅な低評価になるし、それ通りだったとしても観測している主体からすれば当たり前で評価は上がるかもしれないけど、観測圏内のことだから、主体としてはきっと思ったとおりだったってインデックスされる。

 

僕はどうかっていうと、期待の観念にあるような、他人の向上なんて知ったこっちゃない。

他人の向上は当人の功績であって、自分が観測しているからではないだろうと。

この人はこういう人だろうなってなんとなく当たりをつけることはあるけど、別にそれは当たっても外れてもどっちでも良いくらいでしか見ていない。

 

こういう観念は期待じゃなくて希望で括られるものじゃないかな。

 

 

最後。

 

今日は思考をあまり言語で捉えられなかった。

これも別にどっちでも良い。そうして、睡眠の意義。肉体を休ませるとか脳内を整理させるみたいなのが一般的だけど、一番は、意識を途切れさせなきゃならないってところかと。

 

 

よし、おやすみ。

 

 

 

 

 

よすが

 

 

なんとなく普通の卵焼きに飽きたから、カレー粉とマヨネーズとはちみつで味付けしてみた。味はあまり感じないけど、美味しい。あとはブロッコリーをレンチンしてわさびと白だしとマヨネーズで和えたのと、豚肉と人参と玉葱を塩コショウで炒めて、醤油とゆかりで味付け。もっとしその風味出るかと思ったけど、あまり分からない。これ以上入れるときっと塩辛くなるから、大葉をみじん切りしたほうが良いのか。

 

 

さておき。

 

仕事はなんとなくの空白日、なのかペースが掴めたのかどうかは不明。

色んな非言語情報が見えるようになってきた。あぁ、この人は自分の為にこの仕事振ってくれているのだろうなってこととか、あとは、皆が分業しているから、それぞれの忙しさは不均一だということ。それに、年功の序列がやや不満に思っている節もあるのだろうなとか。

 

なかなか歪で良く回っていたものだと思うけど、絶妙なバランスで均衡が成り立っていたのかなと。仲良くしているのを見るにつけ、なんて白々しいのだって感じている。だからどうとも思わないけど。

 

まぁ良いや。

 

 

ぐるぐる思考を回っているものは、だからどうなるのだっていうことになっている。

言語化できる領域なのかどうかも心もとない。

 

時間の区切りをなくして自分がひと繋がりと捉えると、感覚が追いつかない。

過去と現在と未来の区切りを無くすと、4次元立方体の展開図を頭の中で組み立てるくらいの変なことになる。けども、なんだか面白いような気もする。

 

過去を創って区切りをつけたがるのは、きっと自分が過去の自分に付属している諸々が嫌で、自分は変わったのだって捉えたいから。未来を創って好き勝手物語を紡ぐのも、未来とされている自分は今の自分とは変わっているだろうって丸投げするから。

 

僕は時間の観念に囚われる前には自分の未来に丸投げしているって思っていたけど、むしろ一般の感覚の方が丸投げしているような。

ところで、単なる思考実験だけど、タイムマシンができない訳は色々説がある。

親殺しのパラドックスとか、時間に干渉するのが禁忌だから、未来ではタイムマシンは完成しているけど、公には出てこられないとか。ここで、一つ出てくる仮説。時間なんて存在しないから、そもそも時間を移動するなんてことはできないという説。

 

人は時系列で変わるっていうけど、本当に変わっているのだろうか。

人はって一般化して言っているけど、人がまっさらに観測できるものは自分以外に居ないから、自分標準でしか書けないのだけど、本質は何も変化していないような気がする。経験としてあるのは現実化という学習なのだろうけど、学習っていう観念も時間が前提だし。

 

結局、経験値っていうのは肉体の変化を時間で区切っているから捉えられる。

肉体の変化っていうのは老化だけじゃなくて発話とか人と接して得られたものも含む。

 

肉体っていうのは外と接する窓口で、肉体っていうのは、ここでキーボードを打って現実化させた言葉も勿論然り。

 

もう一個,ところでだけど、あなたはこういう人だっていう形容詞は、かなり強い力を持った言葉だなと思う。その人の現実化を規定する。肯定的な意味でも否定的な意味でもありうるけど、要は、観測者の中での被観測者を決める言葉。そうなると、被観測者はその枠を壊しにくくなるし、複数人に共通項があれば余計に。

 

でも、一番力を持っているのは、自分はこういう人物だって決めてしまう自己規定。

僕は自他にこういう言葉を遣うことは辞めた。自分がこういう人物だと規定しているって見えたら誘導には遣っているかもしれないけど。

 

で、なんだっけ。

時間の観念を省いても、現実化できることは物理的には決まっている。

考えたことが直接現実化する技術はきっと実用化しないと思っている、じゃなくて、現実化と意識はきっと繋がっているものとしているのがほとんどの人なのだろうけど、意識と時間の観念はきっと無関係だろうなという話が最後。

 

他人は自分と等しいものだって観測するのが普通だけど、他人の人格の背景は気にしないと思う。ってことは自分の背景も気にしない、時間の観念で人格を見る捉え方。

 

意識を時間から切り離すと、時系列とされている所の何処でも移動できる。

例えば、何か言動が悪くて縁が切れた人って居ると思うけど、そんなものは、そこを回避したって結局起こる。

 

ここで文章を現実化している訳だけど、これは指が追いつくものを拾い上げているだけ

思考は言語と非言語の間で行われるし、まるっきり言語化することはどれだけ語彙があっても不可能だし。

 

対人の共観測の話は次の機会にして。

 

 

肉体と意識の関係はなんとなく恋っぽい。

 

 

おしまい。

時間とは

帰りに歩道橋の上で5,6人がスマホで動画か画像を撮っていたからなんぞやと見たら、どうやらイルミネーションが変わったらしい。まだ銀杏の木は自前で綺麗な葉を付けているからあまり季節感はなかったけれど。

 

ご飯はなんとも薄味。砂糖が切れていたというのもあるけど。白だしだけの味付の二品と、鮭の水煮缶とキャベツと玉ねぎのホイルトースター焼き。味付けは味噌マヨ。

そうして中華一番を見ながら中華料理の収集をしている。

 

仕事はなんだかどうでも良くなってきた。

どうでも良いの対象は自分。というか、自分の観念。自分のものさしは役に立たないし、適度に手を抜くところを学んでいる。手を抜くっていうのは聞こえが悪いけど、時間を公正に配分するっていう感じ。聞いたらだいたい応えてくれるっていうのは、その分あくせくしていないっていうことなのだろうなって。余裕ができれば知識とか技術の練度も高められるという意味では、すごく良い職場。

 

さておき。

 

今日はずっと時間について考えていた。

というのも、時間は人間の主観でしかないっていう記事を見たから。

時間は流れていないかもしれないっていう趣旨。

 

発見ではなくて、僕の主観ではそういうことだろうのと感じていたことを他の人も考えていたのだっていう所で、もうちょっと突き詰めて考えてみようかなって。意図というより、思考の蓋が開いた。こういう時はもともとの記事を引用したほうが良いのだろうか。ほとんど離れているけど。

 

時間は人間の発明品。

起源は言葉と同じくらいだと思う。集団生活をする上では次元が立体では足りない。どのタイミングかっていうのを表す記号として時間が生まれた。と思う。概念の起源でいうと、音楽の方がもっと前なはず。

 

というところで、人は物事の変化を時間というもので細分化することを会得した。

考えると、既に4次元の世界で生きているなって思うのだけど、なんで三次元のされているのだろうって考えると、時間の観念は科学者でさえも考慮に値しないくらい自明なことだからだろうか。自然科学は全然収集していないからあまり分からないのだけど、日常で座標を設定する時って、場所(三次元)と時間がセットなのだけど、それはいかがか。

 

ここで物理学の話になるのだけど、ニュートンさんが物理学の法則を創ったときも、時間の概念は考慮の外だったような。素朴な感覚で考えるとその無意識下の時間の観念がエネルギーとセットだったのじゃなかろうかって。で、その試験管的な世界に疑義を呈したのがアインシュタインさんの時間は相対的なものだっていう考え方。そうして量子論になって時間は本当に存在するのかってなっている。

 

専門家じゃないって素晴らしい。

好き勝手考えられる。

 

 

そうして、学問ではない素朴な捉え方に戻る。

時間の観念は記憶と想像とセットになっているように思う。昨日はこうした、明日はこうするつもりみたいな風に脳を制限しているって言ったら言い過ぎかもしれないけど、少なくとも私的な捉え方に関しては、時間の観念は省いても大丈夫だろうなって思った。

 

プライベートの中でさらに分化させて捉えるっていうのは難しいかもしれない。

例えば、寿命っていう捉え方も公的なもの。自分の時間制限があるというのは自明なものと考えて、不可逆的に意識するけど、単に肉体の劣化とセットにしているだけ。肉体の劣化は時間の観念を省いてもそういうものだって捉えられる、いや、無理か。

 

なんだろうな、言葉で説明できない領域の話になってきている。

 

そういえば、一秒の単位が何を指標にしているか知っている人はどれくらい居るだろう。

なんとかっていう物質の原子が何万回くらい往復するのを単位にしているくらいしか知らない。ってなるとやっぱり恣意的じゃんって。

 

もう少し考えていくと、意識が一繋ぎにできる単位を区切らないと世界を観察できなかったから一日が生まれたっていうのはあると思う。寝ているときには時間は感覚できないけど、起きたときに何処に居るか分からなかったら困るし。ってことは、やっぱり時間は恣意的だってことになる。

 

命題が壮大過ぎてまとめきれない。

 

 

発想したのは、記憶力が時間を分断した概念だとしたらそこだけ一繋ぎにして今とすればいいとか(割とやっているような気がする)、占い師とか預言者が未来を見ることができるのは今の観念が広くて、それを時間に直したらここくらいって言っているのかとか、天才とされている人は時間の観念に縛られてない人かもなとか。マーフィーの法則もそう。

 

最後。

 

人と人の縁って、惑星の公転周期くらいの光速レベルでの変化の中での邂逅くらいに捉えていた。それくらい奇跡的なものだって思っていたけど、ここには時間の観念が前提とされているから、取っ払った後での捉え方は違ってくるだろうなぁという想像。運命論に近くなってきそうな。

 

しばらく時間に対しての思考は留まるだろうな。

 

おしまい。

 

 

 

 

細分化

 

 

炊飯器煮物デビューした。大根と豚肉とひらたけと生姜。

すごく柔らかくなる。そりゃあ40分位煮込むことになるから当然。でも味付けが難しい。もう少し保温時間が必要だった。帰ってすぐ作ればきっとちょうど良くなる。優しい味で十分美味しいし、冷めればちょうど良くなるけど、意図した味とはちょっと違ったというだけ。

 

あとは、なんとなく香の物が食べたくなったから白菜と人参の浅漬。

塩もみして、本当は糸昆布とかが欲しかったけど代用で花かつお。唐辛子の代用は豆板醤

。初日は人参がちょっと固いけど、明日か明後日くらいには馴染むはず。

 

美味しいご飯屋さんは香の物が美味しいというのを再現するのが最終的な意図。

 

料理で言ったら、ヤムイモタロイモでポテトサラダを作ってみるっていう空想があったけど、少し調べてみたら今や通販で手に入るらしい。確かインダス文明の主食だった気がするけど(記憶あやふや)、普通に食べられるみたいでちょっと意気消沈。そうして里芋にも近いらしい。ポテトサラダに仕上げるのは大変そう。

 

さておき。

 

昨日の話だけど、意味っていう表現は若干語弊があるかなと思った。

意味っていう言葉には色んな観念が一緒くたにされている。僕が言っていた意味は、意義っていう意味。ややこしいな。意味には、大義名分っていう文脈の外からくるものと、意図っていう文脈の内側からのものがある。他にはそもそものその言葉の意味を見ようとするときの意味とか。これは解釈の範疇だけど。

 

生きる意義はなくても良いけど、生きる意図はあっても良いだろうという話。

まぁ、意義と意図を分けられる人はそうそういないと思う。

 

僕は人間を観測する所では人の意図を見ている。

ここでは意図でしか生きていない。

 

ともあれ。

 

すごく嫌だなぁと思いながら三連休明けで出勤したら、思いの外上手く行った。

分析しきれていないから、再現性は全くない。ただ出勤中に嫌なことはやっとくほうが良いんだって言い聞かせていた向きはある。割と寝不足だったのだけど、何故か滞りなかった。

 

この現実を、自分が慣れたからだって結論付けるのが因果的な考え方。

個人的には全然慣れたと思っていない。というか、慣れてしまわないように意識している。何故なら、慣性の観念はもう自動制御になってしまって新しいことが吸収できないから。

 

1つびっくりしたのが、筋肉の人に三連休遊びましたか、何処行きました?

みたいなことを聞かれて、とっさに答えられなかったこと。一瞬記憶障害かなと思って、アルコール性と虫歯性で検索してみて、そうして思い返すと空港に行きました、その前に昼ごはんで鯱を分解した名前の店に行って丼頼んで、夜ご飯は沖縄料理で泡盛の古酒を飲みました、先週はジンギスカンパレスで焼き肉食べ放題を頂きましたくらいのことは思い出せたから、今の所大丈夫かなと思いつ。

 

個人的な自己省察(多分造語)として、バイオリズムでも場でも自分の思考とかものさしが変わるっていうのは知っている。日記書いている自分は誰と接していても絶対出てこないだろうし。

 

っていう文脈で言うと、とっさに出てこなかったのは、職場ではこの脳領域は必要ないだろうっていう設定で出勤しているから。ある意味では制限しているって言えなくもないけど、それを解放するとほんとに脳領域がキャパオーバーになるのじゃなかろうか。って思うけど、脳だけは上限知らず。

 

20冊弱を並行で読み進めてもちゃんと分けて処理してくれるし、共通項に響くし。

 

最後かな。

別に凄いと思われることを意図して何かをしていない。

だから、凄いと思われないように自分に制限をかけている節はある。現実化した結果っていう指標がないから、客観的にはなんの意味もないっていうのが良い。

 

何重の縛りをかけているのだっていう感じだけど。

 

 

最後の最後。

 

小説のものさしも結構時代遅れだなっていう発想。

だいたいは文庫本で読むのだけど、最新の文庫本でも2年越しとかになっているし、ハードカバーで読んでも、作家の着想からはブランクがある。

 

要は、どんな情報でもブランクと更新があるっていうことなのだけど通じるかしら。

 

最後の最後の最後。

 

自分が書いたっていう記憶は残っていないのだけど、昨日の日記の最後の自分は絵を描くように日記を描いているっていう表現は我ながらなるほどなって思った。絵だったら解釈は見た人それぞれだし、そういう文脈でしか描いてないなって。

 

 

おしまい。

 

 

ユートピアなんてどこにもない

 

 

万博の開催地が大阪に決まったらしいね。PR映像をたまたま金曜日のランチに行った元町の居酒屋で見たけど、日本人の贔屓目で見ても他の開催地より魅力があるとは思わなかった。ロビー活動がうまくなったということなのか、良いことだ。

 

ともあれ、科学技術に対する価値観の転換というのはありそう。今の技術でまっさらな土地に何を創れるか。開発って既存の建築物が前提になるから、なかなか完全に新しいことはできないはず。愛知万博で何か変わったかって言ったら微妙なところだけど、技術も違うし、その前にオリンピックもあるからどうなるか分からない。車が空を飛ぶというのはさすがにまだ無理かもしれないけど、自動運転自動車というのはありうる。

 

素朴に考えて、技術転換は外からやってくる。

時系列で考えても、僕はちょうど通信技術の発達とともに育ってきた。公衆電話しか使えなかった小中時代、携帯が導入された高校時代、スマホは大学卒業後だったかな。無料通話ができるアプリ自体が考えるとおかしい。

 

ということで、今の時系列、どんな新しいことが出てきてもそんなに不思議なことではない。

この辺りをありえないと思うっていうのは、経験の不可思議。どれだけ新しくても当たり前になってしまえば、仕組みはわからなくても道具になる。

 

 

こういうところから、人は本当に進化しているのかっていう命題。

時間の方向性を逆にしても同じく人は進歩しているって考えることもできるという話。

中身は個別的に考えてくれるといい。

 

 

そうして。

 

 

色々突き詰めて考えていくと、生きる意味はなかろうってことになるだろうなと。

何処の宗教家の結論だってことになるけど、意味がないと生きられないっていうのは重すぎる。

 

意味とはそもそも何かっていうと、その人が生きている世界の中での外から肯定されるもの。分かりにくいな。

 

僕の場合の意味付けは、文系最高峰の試験を落ちまくっているけど、信念があるからやっているんだろうっていうところ。甘んじて受けているけど、個人的には全然そんなことはない。全然は言い過ぎだけど。

 

本当の所だと、僕がやっていることに意味は全く無い。

意味があるっていう評価をする時点で対価があるっていう天秤思考。僕は別に帰ってくるために動いている訳ではない。

 

 

つまり、意味で考える観念で捉えられると窮屈になる。

けども、人が人を見る視点ってきっとここが前提だし、ほとんど本質で構わないだろう。

 

僕は自分を意味で縛らないし、他人を見るときにそう、というだけ。

 

 

この観念は孤独に繋がるのだけど、対人関係の暖かさは意味の外にあるから。

 

文字数少ないけどここまで。

僕は自分の日記を一種の絵みたいに描いている。

 

おやすみ。

 

 

 

 

記号の話

 

そういえば、愛の反対は無関心だっけ。いや、恋の反対だったっけかな。僕は恋愛っていう熟語は類義語ではなくて対義語の組み合わせだと思っている。無関心は全然関係ない観念。関心が歓心ならあれかもだけど。

 

ところで、外国を学ぶためにはまず自国語が必要だっていうのがなんとなく分かった。状態とか動作とか、現在完了形とか、自国語では無意識に遣っているけど、国語はそういう無意識を意識化する作業で、意識化できると他国語との異動が分かるという仕組み。あえて全然繋がっていない多国語のほうが習得しやすいかもしれない。

 

戻して。

 

恋と愛は地続きのものとされているけど、執着と無私は果たして繋がるだろうか。主に人を対象としているみたいだけど、本当にそうなのかなというのも疑問。対人に限定して考えると、両方共人にしかできない高度なもの、つまり、人の条件に入れるにはかなり怪しい動物的な情動だと思われる。

 

だからなんだっていうと、別にどうでも良いのだけど、恋は主に欲求と繋がっていて、愛は生活と繋がっているというだけで、言葉の中身に特に意味はないと思う。僕の中ではほぼ死語になりつつある。対象を広げれば使えるけど。

 

関心とは興味で、行動の源泉みたいなところがあるけれど、現実世界において、関心が行動に直結するとは限らない。無関心は当人の世界の外っていうイメージなのかもしれないけど、それを言ったら、他の言葉にも対義語になるような。なんだか説得力が薄いけど、セットではなかろう。関心を現実化するためにあくせくしようとする感情を恋というなら、人以外にそうなっている。

 

ただ、恋愛の観念は独占欲とか所有欲ともセットだと思うのだけど、そういう観念は全然なくなった。あった時もあったけど、その人に自分のその部分ごと持っていかれた感。人は自分から離れていくものだっていうのが根っこになった。

 

だからなのか分からないけど、人に対する見方が変わった。

この人は自分にだけしか出さない部分を出してくれているのかっていう所を見る。この人はこういう人だっていう曖昧な統計論もどこかへ消えた。その辺りは直感の範疇。

 

僕も普通の欲求と生活をしているのだけど、世界がズレている。

天才でもないけど、素朴を突き詰めたらそうなった。

 

さておき。

 

数学の話。というか記号の話。

数学自体は面白いのだけど、本質を掴むっていう所で思考がややこしくなった。

 

文字にして一般化するっていうのがあった。

数学覚えてない人でも公式とかいっぱい覚えさせられたことは覚えていると思う。

Xとかabとか一個の文字式で表すことで、どんな数字を入れても成り立つという考え方って、まさに完成した人格を示していないかって。

 

何か考えたけど忘れた。

 

ついででストック消化しとこう。

 

占いの話。

なんとなく臨床心理学と似ているかなっていう感覚。

技術でご飯を食べている人も居るだろうなっていう意味。

 

本当に当たる占い師っていうのも存在するだろうなっていうの分かる。

既存の言葉で言ったら共感覚に近い。人から電磁波が出ているし、悩みとかストレスは余計に出ていると思う。んで、それを脳内にイメージ化できる人が居ても不思議ではない。運勢っていう意味でいっても、知識を前提とした直感はきっとある。

 

黒魔術になると、まだ世界の外かなっていう気はするけど、暗示の拡大かなって思っている。

 

 

暗示。マインドコントロールは悪いことだってされているけど、教育こそがこれ。

だから、自己暗示は悪いことではない。というか、極論、自分が自分であること自体が自己暗示だし。

 

暗示が意識できない人は、もう暗示が昔に終わっている人で、それは自分をコントールするために必須なこと。暗示ができなかった人は、息苦しく生きる訳だけど、その先に世界を暗示するっていう方法がある。

そういう側面で、僕は結構自分を餌にして釣り針を垂らしてみるところはある。

自分の利益になるためっていうのも確かだけど、俗っぽいものではなくて、この人の根っこを観察したいなっていうだけ。

 

かなり質悪い。

 

 

最後。

 

僕は普通とか当たり前みたいな言葉を多用するけど、自分とは対岸として遣っている。これを自分の意見を後ろ盾に遣う人は全く関心が生じない。厳密には無関心とは違うだろうけど。

 

あと、突き詰めていくと、言葉はXでもYでも△でも良いのだろうなっていう発想がある。

中身が共通認識になっていれば、どの記号を遣うかは問題ではない。

 

外用の言葉なんて要らん。

 

 

おしまい。