記号の話
そういえば、愛の反対は無関心だっけ。いや、恋の反対だったっけかな。僕は恋愛っていう熟語は類義語ではなくて対義語の組み合わせだと思っている。無関心は全然関係ない観念。関心が歓心ならあれかもだけど。
ところで、外国を学ぶためにはまず自国語が必要だっていうのがなんとなく分かった。状態とか動作とか、現在完了形とか、自国語では無意識に遣っているけど、国語はそういう無意識を意識化する作業で、意識化できると他国語との異動が分かるという仕組み。あえて全然繋がっていない多国語のほうが習得しやすいかもしれない。
戻して。
恋と愛は地続きのものとされているけど、執着と無私は果たして繋がるだろうか。主に人を対象としているみたいだけど、本当にそうなのかなというのも疑問。対人に限定して考えると、両方共人にしかできない高度なもの、つまり、人の条件に入れるにはかなり怪しい動物的な情動だと思われる。
だからなんだっていうと、別にどうでも良いのだけど、恋は主に欲求と繋がっていて、愛は生活と繋がっているというだけで、言葉の中身に特に意味はないと思う。僕の中ではほぼ死語になりつつある。対象を広げれば使えるけど。
関心とは興味で、行動の源泉みたいなところがあるけれど、現実世界において、関心が行動に直結するとは限らない。無関心は当人の世界の外っていうイメージなのかもしれないけど、それを言ったら、他の言葉にも対義語になるような。なんだか説得力が薄いけど、セットではなかろう。関心を現実化するためにあくせくしようとする感情を恋というなら、人以外にそうなっている。
ただ、恋愛の観念は独占欲とか所有欲ともセットだと思うのだけど、そういう観念は全然なくなった。あった時もあったけど、その人に自分のその部分ごと持っていかれた感。人は自分から離れていくものだっていうのが根っこになった。
だからなのか分からないけど、人に対する見方が変わった。
この人は自分にだけしか出さない部分を出してくれているのかっていう所を見る。この人はこういう人だっていう曖昧な統計論もどこかへ消えた。その辺りは直感の範疇。
僕も普通の欲求と生活をしているのだけど、世界がズレている。
天才でもないけど、素朴を突き詰めたらそうなった。
さておき。
数学の話。というか記号の話。
数学自体は面白いのだけど、本質を掴むっていう所で思考がややこしくなった。
文字にして一般化するっていうのがあった。
数学覚えてない人でも公式とかいっぱい覚えさせられたことは覚えていると思う。
Xとかabとか一個の文字式で表すことで、どんな数字を入れても成り立つという考え方って、まさに完成した人格を示していないかって。
何か考えたけど忘れた。
ついででストック消化しとこう。
占いの話。
なんとなく臨床心理学と似ているかなっていう感覚。
技術でご飯を食べている人も居るだろうなっていう意味。
本当に当たる占い師っていうのも存在するだろうなっていうの分かる。
既存の言葉で言ったら共感覚に近い。人から電磁波が出ているし、悩みとかストレスは余計に出ていると思う。んで、それを脳内にイメージ化できる人が居ても不思議ではない。運勢っていう意味でいっても、知識を前提とした直感はきっとある。
黒魔術になると、まだ世界の外かなっていう気はするけど、暗示の拡大かなって思っている。
暗示。マインドコントロールは悪いことだってされているけど、教育こそがこれ。
だから、自己暗示は悪いことではない。というか、極論、自分が自分であること自体が自己暗示だし。
暗示が意識できない人は、もう暗示が昔に終わっている人で、それは自分をコントールするために必須なこと。暗示ができなかった人は、息苦しく生きる訳だけど、その先に世界を暗示するっていう方法がある。
そういう側面で、僕は結構自分を餌にして釣り針を垂らしてみるところはある。
自分の利益になるためっていうのも確かだけど、俗っぽいものではなくて、この人の根っこを観察したいなっていうだけ。
かなり質悪い。
最後。
僕は普通とか当たり前みたいな言葉を多用するけど、自分とは対岸として遣っている。これを自分の意見を後ろ盾に遣う人は全く関心が生じない。厳密には無関心とは違うだろうけど。
あと、突き詰めていくと、言葉はXでもYでも△でも良いのだろうなっていう発想がある。
中身が共通認識になっていれば、どの記号を遣うかは問題ではない。
外用の言葉なんて要らん。
おしまい。