硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

コンテクスト

時間が変則的だけど、お風呂に浸かりながら本も読んだ。

そうして書いていこう。

 

美味しいお酒と美味しいご飯と美味しい景色を摂取してきた。

 

ともあれ、自然の景色に関しては、凄いというより懐かしいという気持ちが強い。時系列上の何処なのかわからないけど、空の動きは田舎の山奥でずっと観察していた記憶がある。でも、人工物と織りなすとまた趣が違う。すれ違う人が皆無の2000メートルくらいの橋を歩いて渡りながら見る夕闇。飛行機が離陸するのと着陸するのは、遠目で見るとちょっとおもちゃに見える。実際着陸のところをよく見ていると、両翼がふらふらしていて危なかしい。

 

景色に対する評価がCGみたいに綺麗だっていうのはありうるけど、よくよく考えると変な話。自然のほうが先でそれを再現しようと思ったのが人工物。個人的には綺麗であればどっちでも良いかなっていうざっくり感。景色は誰の所有物でもないからそれに対する対価は要らないのだけど、対価を払った方がより価値があるというのが資本主義のものさし。

 

 

さておき。

全然酔わないなぁ。何故だろう。

 

じゃなくて、料理から見た愛と当たる占いとか黒魔術とかそういう話。後半まで行けるか分からないけど。

 

 

料理と言葉は人の本質に限りなく近いと思っている。

一般的には別の枠でそれぞれ世界があるという感覚だろうけど、僕の中ではかなり近いところにある。

 

料理に愛情を込めると美味しくなるっていう命題がある。

命題っていう概念もよく分かっていないけど、ここでは、思索対象という意味くらいしかない。

 

逆から見て、美味しいご飯とはなんだろうと考えてみる。

味付けとか現実に味覚だけで考えると、チェーン店とかコンビニでも十分美味しい。でも、ここでは味覚にしか摂取する要素が無い。料理をあまり考えていない人はきっとこの領域で過ごしている。

 

でも、その先に誰かと食べるご飯は美味しいとか、この店で食べるのが好きっていう感覚がキーワード。要は、人はご飯を食べるときに、栄養学的ないし化学的な栄養素だけを摂取している訳ではないってこと。

 

これを踏まえると、料理での愛。

先に結論を言うと人はご飯に含まれた愛を摂取することで美味しく感じるということ。

この文脈における愛とはなんぞやっていうと、単に美味しくなーれみたいな気持ちを込めることではなくて、食べて貰う相手を想像しながら作ること。それが無意識に味付けを調整する。味付けなんて塩のミリグラム単位で変わるし、柔らかめと硬めの好みによって火の入れ具合も変わってくる。なんていうと高度に見えるけど、飲み屋のご飯を食べてていても明確に感じる。食材を良いものにしろみたいな話とは別領域。

 

前の職場で料理の話が出てきたときに細々話していると、硯の嫁になった人はいちいち言われて大変そうだって言われたのだけど、この観念自体が僕の感覚とはズレている。味付けが美味しいかどうか別で、僕の為だけを思いながら創ってくれたご飯はだいたい美味しい。

 

味覚的にどうかって思ったら、その改善アドバイスくらいはするけど、そもそも誰かが自分のためにご飯を作っている貴重さを把握していないからこういう観念が出てくる訳で。

例えば、全くご飯を作ったことがない人からすれば味覚が全てで、配偶者に対してもその水準が基準になる。自分の味覚に合わせろやこらみたいな。

 

なんだかがやがやしているから一言で。

ご飯は、相手の為に作ったっていうのと、自分の為に作ってくれたんだっていうのが繋がった時の双方向になった瞬間が美味しい。

 

もちろん、問答無用で美味しいご飯もある。

それは創り手が探求しまくった結果の上澄みを貰う。僕の料理はお金を取るまでは行かないと自分では思っているし、自分用のご飯しかほとんど振る舞ったことないけど、相手の味覚で調整するくらいはできそう。

 

 

誰と食べたら美味しいっていうのは、コミュニケーションの一種でご飯は一つ下の次元に

なっているから、ちと違う。

 

追記としては、自分の対内に入るものって考えるとご飯って一番大事なのに、ざっくりした栄養学でしか把握されていない、っていうのはなんでかっていうと、自分が生きてきた当たり前しかコピペできないから。

 

ご飯とはなんぞやって伝わっただろうか。

僕の場合は自愛じゃないからここまで来れた。基本的には技術でしかない。ということは、試行錯誤できる人なら習得できる。ちゃんと分量量る道具も在るし。

 

今日の語彙はきっと誰が読んでも分かる。

語彙に関してはパット見で把握できない言葉は使っていないつもり。

 

 

ご飯と言葉の相似性。

 

言葉はファーストフードと似ている。

要は、判を押したコピペでだいたい通じるってこと。

 

ここも愛の概念なのだけど、僕が対人で響く言葉は、自分用に加工してくれたんだろうなっていう言葉。尊敬の言葉とか言葉って、書式があるから内心でどう思っていても言葉尻しか世界がない人には通じるだろうとは思う。

 

コピペが増殖されていく世界。

 

 

でも、少なくとも僕は対人でコピペできるような言葉は使わない。いやいや自分だってそうしているって反論が出そうだけど、ここは共通認識の外だから。

 

共通認識っていう観点で見ると、一番近いのが数学ぽい。

 

指が反応しなくなったからおしまい。

 

欠陥論

 

潜っているという表現は、何か深淵に至っているっていうという意味ではなくて、誰にも通じなくなっているなっていうだけ。別に構わないし、だいたいそういうことしかかいてないけど、自覚できたら自重しようかなと思う。

 

日本語だったら通じるだろうという観念があると思うけど、これってある程度の共通認識があればっていう注釈付きのもの。共通認識の中でしか生きていない人も信じたくはないけど居る。そうして、この観念で言葉を遣うと、だいたい通じるのにこの人には通じない。ということは、この人は理解力がない人だっていう結論になる。何が繋がっているのか分からない。

 

 

仕事場であまり言葉が噛み合わない人が居る。そうしてこの人のことを分析すると、初っ端言語量がやたらと少なくて、補足説明ではやたらと多い。電話スキルとかうまいと思うのだけど、ちょっと認識がズレているのかって思う。だから、相手が何処まで分かって居るかって察するよりも言葉をいっぱい投げて、何処が響くかというやり方。

 

とはいえ、この人の方が普通に交流出来ているのだから、僕の方がズレているのは確か。

 

この職場なかなか癖が強い人が多い。

おそらく癖とは認識されないレベルのものだけど。

 

 

ところで、第六感という言葉があるけど、読んでいる人はこの言葉にどういう認識があるだろうか。霊感とか超能力とかなのかな。

 

僕の中では第六感は五官の延長にある。

違和感とかに近い。要は、自分が今まで蓄積してきたものが瞬時に結果を出すこと。これは対人でいうと第一印象に近い。第一印象の判断要素が外面でしかないのは普通だけど、経験値が増えると、判断要素は無意識的に増えるはず。それでも、割と画一した第一印象論があるということは、一般人は対人において経験をあまり積んでいない。っていうのは言い過ぎか。

 

僕は物事に対しては直感で捉えるけど、対人の第一印象は信じていなくて、第二印象を基準としている。僕の観念では、第一印象も正解だけどこれはその人と直に交わる前の話。第二印象は関係性が構築された後の第一印象と言っても良い。

こういうのが、同じ日本語を使っているけど通じるかどうか分からない領域。

変な話、古文のあはれとかに似ている。関西弁で言うけったいにも近いか。

 

 

共通認識っていうのは共通の価値を前提としている。

価値は価値観のことではなくて、もっともっと生々しいもの。

 

一番分かりやすいのが金銭だと思う。

貨幣の価値っていうのはなんでもできる何か今の社会で生きるための必須要素とされている。んで、これは勿論確かで揺るがない。

 

けど、この価値を前提として生きるかどうかは別の話。

この辺が僕のズレの中核にあると思っているのだけど、価値に対する執着がない。

価値ってなんぞやって手っ取り早く言うと、何かと交換できるっていう所にある。

 

交換の観念も広げていくとややこしいけど、要は、自分に利があるから動くという観念。

利っていうのは金銭が主だとしても、別に非金銭でも同じ。

何か自分に返ってくるものが価値。自己評価っていうのもここに引っ張られている。

 

脳内文字情報が氾濫していて困る。

 

僕の話をすれば良いのか。

価値の観念がやたらと薄い。そもそも自分に価値があると思っていないから、まともな人間関係が構築できない。他人に期待はしてないけど、期待値を越えた反応は楽しい。

期待と価値はきっとセット。

 

そうして飲み物がホットミルクになった。

 

そもそもの対価っていうのは、利益じゃなくて時間だろう。

分かりやすいから金銭っていうのが置かれているだけで、本来は天秤にならないもの。

 

っていう観念で、僕が時間を使っているのものはきっと一般的に言う好意として良い。

 

恋と愛の違いみたいなことも語りたい。

結婚は別にどっちでもない説とか。

 

眠い。寝よう。

 

おしまい。

 

 

 

 

 

 

毎日がセーブポイント

こんばんは。

 

毎日毎日書いていることがぶつ切りになるのだけど、昨日の世にある世界観を自分用に加工しないと自分には通用しないっていうニュアンスのことを書いたけれど、日本の世界観自体がそういうものではなかろうか。世界的に見れば東洋思想ってきっと中国を中心とした世界観だろうし、今読んでいる東洋医学の本も、もともとは中国から来ているけど、日本で独自に発展したものだっていう話だし、もとから日本にある思想ってそんなにないはず。八百万信仰は独自だろうなという気はするけど、集合的無意識的な思想って考えると、それほどでもない。

 

現在はなんとなくだけけど、自分の価値観と評してどこからかパッケージごとコピペした世界観を時々に合わせて選択するのが主流な気がする。別に悪いことではないけど、こういうことをしている根っこの自分は何処に在るのだろうか。

 

今日は前置きなしでこのままだらだら書こう。

 

日本とはなんぞやの話。

憲法の専門書から。憲法とは何かっていうと、国における統治組織と統治の在り方に関する基本的な法規範とのこと。法規範は専門用語だけど、要は物理的な強制力のあるルールで良いのかな。ともあれ、ということは統治できる範囲である国家というのがなんぞやっていうことになる。普通の人は意識しないだろうけど。

 

んで、国家とは何かっていう定義は色んな学問からの視点があるし学問の中でも一致していないから、なんとなく社会学的国家観と法学的国家観を把握して置けばいい、と専門の学者が言う。のは良いとして、社会学的国家観は、物理的な領域と、構成員である人間と、権力が不可欠だという風に紹介されていた。ただ、社会学の本からすると、この考え方は古典的な社会学の国家観だと思った。法学は基本的に腰が重いって考えると分からなくもない。

とかいう今の日本の法律も基本的には何処かからのコピペからの加工が多いという。

 

なんだっけ、思考が分散している。

あぁそうだ、じゃあ素朴な国民の視点から見た日本とはなんぞやという話。

ごくごく単純に法律的に考えると、国籍離脱の自由があるから、現在では自分が生活する一つのパッケージにしか過ぎない。別に日本に住むことを強制されている訳でもないし。ということまで視点がある人はそうそう居ないと思う。外国のことなんて世界の外だろうし、一番は人間関係が日本にあるから選択肢として出てこないってことなのかな。

 

個人的な視界で言うと、日本自体は好きでも嫌いでもないなと思った。安全だっていう面でも、この安全さだからそう動いているだけで、安全レベルが下がれば備えれば良いだけの話。清潔さも、もっと清潔な国はあるかもしれない。でも日本語は好きだと感じる。

 

僕がここで言っている日本語は、誰かと疎通するっていう意味ではない。疎通する言語形態はどの国だって持っているし、日本語でも敬語とかのよそよそしく人と繋がるのは含まれない。

 

非言語的な言語。

 

 

だいぶ潜っているなぁ。

 

ちょっと浮上しておこう。

 

直感なのだけど、仕事場での邪気というのがなんとなく把握できた。

自分が居なかった時の方が不協和音になりつつあったのではなかろうかと。仕事上では恙無いのだろうけど、観察していると皆が皆相手に対してよそよそしい。それが仕事上での距離感だって評する考え方もあるけれど、何年も一緒に仕事していてこの距離感はなんなのだろうって。プライベートで何か交流がある気配もないし、ということは、それぞれが別にそれぞれの人に対して興味がないっていう歪さ。

 

こういう不調和でそれぞれが誰かに言えなかった檻みたいなものが流れてきている気がする。別に良いのだけど。

 

 

やっぱりこの話書いているとなんだか閉塞感。

 

 

さておき。

 

料理は化学であり愛であるって話のパッケージもストックされているし、他にもいっぱいストックがある。数学と法学の類似性みたいなものもぐつぐつしている。今の僕の頭の中って、色んな概念をいくつもの鍋で煮詰めているというイメージ。

 

分かりやすく直感の話を選択。

 

直感って霊的というか超能力みたいな節があるけど、割と経験則みたいなところが強い。

例えば、美味しい店みたいな現実的なものでも、僕が見ているのは外観の何処に気を使っているかみたいなところ。別に意識的に見ている訳ではない。意識的に見ようとすれば情報量が多すぎて処理しきれない。

 

要は、直感というのは、自分が何を意識してきたかっていうののショートカット。

 

対人で考えると、色々学問が確立されている。

人相学の範疇なのだろうけど、その人がどう生きてきたかっていうのは顔に出てくる訳で。

なんだか占いみたいな話だけど、占いこそこの領域の蓄積率が高い。顔っていうのは別に造形的に美的だとかそういう話ではない。

 

そろそろ時間切れか。

 

顔にケアがいっぱい必要なのは、外的内的負荷が一番かかるのがここだからかなっていう発想。顔こそが自他の自己像の象徴というか広告塔というか。

 

ってなった時に、言葉しか存在しないこの場の顔とは何だろう。

 

ちなみに、どうでも良いことだけど、僕の存在意義は時系列で変化し続けること。

 

 

おしまい。

独自論

 

また凡ミスをしてしまった。凡ミスの割に印象を悪くするものでちょくちょくやっているものだから、なかなか質が悪いやつ。ただ、あまり落ち込んではいない。このミスには色々と要因があって、いくつかは潰してきている。そうして、今日の要因も自己分析できたから、その要因を除けば良い。問題は、どこまで職場が待ってくれるかというところだけど、まだ最低三ヶ月半はある。三ヶ月半というと、自分がその時点でどうなっているか分からないくらい途方もない時間。

 

あとは、なんとなくだけど、この話書いているとなんとなく邪気を感じる。

もしかしたら淀みがあるのかもなぁ。まぁどんな仕事場でも多少の邪気はあるか。

それに対抗できる元気が必要。

 

さておき。

 

髪を乾かしながら読む枠には、小説の読み返しを入れている。今は白石一文さんの「どれだけの愛情」っていう本。中身はともかく、「女性には辛いときや悲しいときに独りで泣くという特技がある。それと同じように一人で料理をする特技もあると思っている。」みたいなフレーズがでてきた。その後出てくる料理はほうれん草のチャーハンと冷凍餃子のスープだった。調理時間は15分。は、ともかく。

 

これは男性作家が表現する女性性で、読んだ人のだいたいが共感を覚えるものなのだろうなと想像した。これを固定観念だと評価するのは行き過ぎか。という観念では、僕は一般的に思われている女性性を結構採り入れている。料理は女性がやるものだっていう観念は歴史をどこまで遡るのが起源になるのだろう。ただ、職業としての料理人は男性が起源な気がしないでもない。

 

起源というか、何処で見たかは忘れるくらいの刷り込みレベルで、原始時代では狩りは男がやって、女が家を守っていたっていう歴史みたいなものがあるけど、これは証拠として残っている訳ではなく、それを歴史として記述したときの価値観がそうだったというだけだと思う。僕の価値観で想像するに、原始時代は男女関係なく身体能力が高い人に狩りが割りあてられて、強い個体が生殖的に優位だったではなかろうか。

 

まぁ、良いや。

今日はカブと生姜の三倍酢っぽい浅漬を作って、今度はガリ常備菜にしようと思っている個体は単なる突然変異で。

 

それとは別に、男性観と女性観はなんだか相対化しているなぁという感覚。

おそらく個人主義が浸透してきているのだろうけど、動画見ていると広告で、セーラームーンは女性だけのものじゃないみたいなのも聞くし。僕の子供時代ではありえない商業戦略。

これが良いことなのか悪いことなのか分からない。フェミニストとしてはいい傾向なのかもしれないけど。

 

ただ、1つ思うところが、こういう個人主義化は少子化の要因の少なくない領域を占めているという気がしないでもない。子供を作って育てるっていう観念が男性性と女性性の起源であって、種じゃなくて個で捉えたら、そこに縛られる必要はないから。これって個人レベルで考えると解放だけど、国家レベルでみたら破綻に向かうしかない。

 

旧来の観念で子供を作ることが通じないなら、選択肢として利益があるということをしめさなきゃならない。まだ僕の年代まではぎりぎり旧来でなんとかなるかなと思うけど、ここから先のことは分からない。

 

こういうことを考えたのは、よく読んでいるブログで、人の対立が2極化しているのではないかっていう話が出ていたから。政治的なニュースはあまり知らないけど、今は次の段階の冷戦状態にあるとかなんとか。

 

この話はあまり知らないけど、僕は国連とか国際機関をあまり信じていない。

なぜかって、どの国も世界全体みたいな視界はなくて自国の利益しか見ていないから。自国民までもいかない。

 

規模が大きいから見えにくいけど、要は生徒会の会合みたいなものと変わらないのでは、という認識。ゲーム理論の話っぽいけど、これは何回も読み返すという前提の一回目だから表現できる話ではない。今思いついたのはお互いに自分の主張しか通そうとしない中での最大限の利益を探るもの。なんとも建設的でない理論だけど現実的ではある。

 

 

最後。

 

こういうことを踏まえた、なんの後ろ盾もない独自説。

 

対立っていう概念について。

確かに一番てっとり早い自分を確立する手段は、自分より悪い人が居るとか自分はこうはならないっていう敵を作って相対的に把握すること。これは歴史的に国家が使ってきた

手段であって、自己の歴史とか現代を振り返ってもきっと当てはまる。現実的。

これで生きられるなら時代的に正常で何の問題もない。

 

でも、これで納得できない種類の人も居る。

考える人達。

 

こうなってくると、色んな観念を吸収して、自分独自の考え方を確立するしか生きていく術がない。世の中で通用している考え方って、だいたいは通じるけど、個人のためにあるものではないから、自分用に加工する必要がある。個人主義を語るなら後ろ盾ない個人で語る所まで突き詰めて欲しいと思うけど、そういう人って、書籍の中がほとんど。

 

数学の本をかってうきうきとか、概念の話とかは今日は無理だな。

 

 

おしまい。

 

 

下限解放

 

胃が大きくなってきたから弁当箱を新調しようかと思っている。

できれば二段でついでに汁物も持っていければ言うことない。ポタージュ系が捗るはず。弁当作り出した頃は母親のありがたみを感じたけど、母親も冷食をローテしていたし、そこまで凄いことでもないのかなと思わなくもない。仕事しながら三人分って考えると大変かなと思わなくもないけど、量を増やすことはあまり時間かからない。食費はかかるけど。もちろん、義務としてやっていたのであれば凄いと思う。別の意味で。

 

ともあれ、早速薬膳を採り入れた。

紫蘇の葉は好きだけど残った分を悪くしてしまう傾向にあったからあまり買っていなかったけど、常備菜にすれば良いやと醤油漬けにしてみた。薬効が高い食材は常備菜にしてストックしておこう。常備菜の概念を習得した。テッテレー。

 

食材を大量に買って切って準備しておくっていう意味では無理だけど。保存はできるのだろうけど、食材って加工した段階でどんどん栄養価落ちている気がするし、なんとなく好かない。まぁ先のことは分からない。

 

さておき。

 

仕事の進捗状況はあまり自覚できていない。無難に過ごしているのか発展しているのかは有事にならないと分からないし、有事が予測できないのが新人ということだから。師匠(と評そう)は相変わらず情報をいっぱい教えてくれる。他の人も情報量はいっぱいなのだけど、個別事項のことが多い。個別事項っていうのは、その状況でしか正解にならないこと。何が違うかというと、教える側の中で根っこが体系的に整理されているのか、それとも不文律なのか。答えは同じように出せるのだろうけど、前者の方が自覚的に考えた時間は長いと思われ。なんにせよ、現時点ではどんな人にも収集事項が無限くらいある。

 

一番の変化は、自分が穏やかになっているなというところ。

発言量はあまり変わらないけど、なんとなく気安く接している。一回指摘したことは違わないっていう評価が定着させよう。あとは、新人はこれをやらなければいけないっていう所から脱している所か。ちゃんと仕事をしているのであれば頼って良い。ここのスキルはもっと上げていかないと。

 

やれやれ。

 

先が永いのは楽しい。

何かをしたいと思う衝動は欲求と呼ばれるみたいだけど、僕の衝動が欲求に分類されるのかっていうのは気になるところ。欲の分類はとりあえず省略。

 

現時点でやっとなのだけど、そもそもを知らないとこの先見聞広がらないなっていう意味で、中学数学の復習をするつもり。多分明日辺り買ってくるだろうなと思っている。高校以降の数学の本は持っているのだけど、全然分からないのは、もっと遡って分かっていない部分があるからだろうなと。グーグル先生に聞いてみたら、大人が中学数学復習するには三年かかるっていう話があった。特定の人のブログだったけど、確かに1日30分として、1年では1000何時間か、ってざっくり三年で3000時間と考えると分からなくもない。

 

けど、この書いていた人はなんとなく自分の領域を自慢している感が見えたから、水増ししている気がしないでもない。

 

こういう風に、自分が時間を費やして習得したものって自負になる。で、自負を目的としたらそれは努力だけど、この対価的関係ってどうも刹那的というか動物的に見える。時間の観念が長くとれるだけで。

 

そうじゃない方向性というか、僕はこういう方向性しか採れないなって思ったベクトル。

 

ところで、世界観が拡がるのは衝撃的な体験だっていう観念がある。

で、後付けで世界観を拡げる行動ができるようになるっていう話。

 

これも真理だけど、もっともっと狭めていく領域にもこういう次元はあるのじゃないかっていう発想。厳密には発想じゃなくてもともとの行動原理だけど。

 

要は、精神世界を拡げることで相手の深みがより読み取れるようになること。

ここに、読み取って利用しようとかっていう観念はなくて、ただ拡がっていくだけ。宇宙かよって感じだけど、それくらいの意味で起源を探りたい衝動で動いている。

 

人間関係なんて量子論そのもので、量子論を創ったのも人間だから当たり前。

観察者が観察相手に影響を与えるって当たり前の経験則なように思っているのだけど、一般的にはどう評価しているのだろう。自分の主観も客観もないまぜで分類されていないだけなのだろうか。

 

人の観念が世界を読み取るっていうのが適用できないのが数学。

数学は本当に不可思議。人の観念の外に在るものかなってとりあえず認識している。だから神様としてのめり込む数学者が居るのだろうって。興味対象。

 

 

ただの動物

 

なかなか頭が重たい。

風邪はともかくとして、歯を治療しろと身体が言ってくる。徒歩5分くらいのところに熊のような歯科医師さんが居て、昔一回通っていたのだけど、あまりもう一回通う気にはならない。直感は大事。ともあれ、来月から何処かには通わないとなぁ。歯を綺麗にしとけば風邪を引かない説もなんとなく分かるし。

 

頭も当社比で鈍い気がするけど、東洋医学的に考えると、変化するのが人間で、自分の基準より低いところを自分としないこともおかしい。風邪だろうが歯痛だろうがうつだろうが、そのときの自分は自分そのもので良い。僕はもともとこういう考え方を持っていたのだろうなぁと思わなくない。あまり賛同がなかったから潜んでいたけど、最初にネット上に文章を書いていたときのブログタイトルが偏らない。主観としては思想的に偏らないっていう意味だったけど、もともとバランスで考えるところはあった。ただ、この思想だと、日々を生活する時に自分は要らなくなる。中庸だって評されたこともあったけど、中庸の起源もたしか中国だったはず。

 

平衡っていうのは平等とは違う。

 

平等はあくまで何か絶対的な基準があって、何かと何かを比べてフラットにする考え方。公平だど主観が入ってきても良い。平等は正義かっていうのも最近良く考えている。憲法学的には形式的平等と実質的平等とかの話が出てくるけど、おそらく起源は哲学なはず。正義論は哲学の範疇。

 

正義の概念の話も気になるところだけど、あまり収集できていないから語る段階ではない。

とりあえずマイケル・サンデル読んでから。正義っていう言葉もマジックワード

 

平等論はどうあっても平等にならないのは、それを測る人の価値観が入ってくるから。

こういうことが語られるとき、観測者の地位を上げる方向性か、何かのやっかみがだいたい入る。でも、そういう素朴なものさし論も大事だとは思う。法律にはルールが先かものさしが先かっていうのが微妙な領域がいっぱいあるし。

 

正義っていうのは正しいことで、そもそも正しいとはどういう局面の正しさかっていうのがややこしんだろうなって想像している。僕は自分の選択に正しさみたいな迂回的概念を仲介させないから余計に。正しくなんてなくていい。

 

平衡とはなんぞやっていうと、ものさしはあんまり関係ない。

単にフラットを保つだけ。これを壊すところに意志があるんだろうなって最近は思っているけど。

 

こういうのは結局考え方の話でしかない。

けども、考え方っていうのは外界の捉え方と直結していて、最終的にはその人が過ごす現実そのものになる。

 

ところで、個人的に小中高で習った科目の復習キャンペーンをやっている。

まずは英語から。中高の六年分を10日で復習するっていう本を買って、二日目まで読んだ。この本が面白いのは、他言語を学ぶっていうのは外の文化を学ぶっていうのが意識されているところ。言語の扱いってその言語圏でのものさしに直結している。日本語は名詞を大事にするけど、英語は動詞を大事にするとか。

 

素朴に思うところ。

義務教育と高校までで勉強したものをちゃんと残している大人はどれくらい居るのだろうって。おそらくは習ったことなんてほとんど覚えてない、むしろ全然活用していない無駄なものだったっていう評価の方が多いはず。でも、9年ないし12年を無駄にしたって、なんだかもったいなくなかろうか。

 

人生の何分の一だろう。

 

公民とか社会科以外は全部有用だったと思っている。この分野はリアルタイムで変動して情報がどんどん古くなるから。

 

科目の細々した知識を強制的に覚えさせらるトラウマは僕にも在るけど、これをそれぞれの科目からみた世界観の話って考えると、復習にも精が出る。

 

例えば、僕は歴史系の科目全く好きじゃなかったのだけど、これを、人の倫理観なんて流動的なものだって視点で見ると全然変わってくる。歴史ってだいたいは残虐な倫理観しか残っていないけど、それは現時点の倫理観で見ればって話だけで、未来の倫理観から見れば、今の倫理観が非道極まりないって評されるかもしれないっていうこと。

 

中学理科から復習しなきゃなと思っているのは、電気エネルギーとはなんぞやっていう素朴なところから考えたいから。

 

最後。

 

義務教育の時点で世界観は流動的なものでしかないっていうことを学ぶことはできたはずだけど、知識が世界観に繋がらない理由。

 

それを教育として教えていたら国家が成り立たなくなる。突き詰めていけば、教えられている知識自体が意味がないものだって結論付けられる危険性を孕んでいるし。親子間の教育論を想像すると分かる。権威的に押し付けなきゃいけない領域はどうしようもなくある。

要は、教える側も有用性があまり把握されていないってことなのだろうか。

 

世界史の先生の言い振りを思い出すと、十字軍の虐殺とかチンギスハーンの侵攻とかファンタジー的にしか語っていなかった。お気に入りはバージニア

 

 

何か対価がないと動けないっていうのは、なんとも生物として動物的だと思うのだけど、本当に人間って高度なのだろうか。

 

 

おしまい。

 

 

 

ただの動物

 

なかなか頭が重たい。

風邪はともかくとして、歯を治療しろと身体が言ってくる。徒歩5分くらいのところに熊のような歯科医師さんが居て、昔一回通っていたのだけど、あまりもう一回通う気にはならない。直感は大事。ともあれ、来月から何処かには通わないとなぁ。歯を綺麗にしとけば風邪を引かない説もなんとなく分かるし。

 

頭も当社比で鈍い気がするけど、東洋医学的に考えると、変化するのが人間で、自分の基準より低いところを自分としないこともおかしい。風邪だろうが歯痛だろうがうつだろうが、そのときの自分は自分そのもので良い。僕はもともとこういう考え方を持っていたのだろうなぁと思わなくない。あまり賛同がなかったから潜んでいたけど、最初にネット上に文章を書いていたときのブログタイトルが偏らない。主観としては思想的に偏らないっていう意味だったけど、もともとバランスで考えるところはあった。ただ、この思想だと、日々を生活する時に自分は要らなくなる。中庸だって評されたこともあったけど、中庸の起源もたしか中国だったはず。

 

平衡っていうのは平等とは違う。

 

平等はあくまで何か絶対的な基準があって、何かと何かを比べてフラットにする考え方。公平だど主観が入ってきても良い。平等は正義かっていうのも最近良く考えている。憲法学的には形式的平等と実質的平等とかの話が出てくるけど、おそらく起源は哲学なはず。正義論は哲学の範疇。

 

正義の概念の話も気になるところだけど、あまり収集できていないから語る段階ではない。

とりあえずマイケル・サンデル読んでから。正義っていう言葉もマジックワード

 

平等論はどうあっても平等にならないのは、それを測る人の価値観が入ってくるから。

こういうことが語られるとき、観測者の地位を上げる方向性か、何かのやっかみがだいたい入る。でも、そういう素朴なものさし論も大事だとは思う。法律にはルールが先かものさしが先かっていうのが微妙な領域がいっぱいあるし。

 

正義っていうのは正しいことで、そもそも正しいとはどういう局面の正しさかっていうのがややこしんだろうなって想像している。僕は自分の選択に正しさみたいな迂回的概念を仲介させないから余計に。正しくなんてなくていい。

 

平衡とはなんぞやっていうと、ものさしはあんまり関係ない。

単にフラットを保つだけ。これを壊すところに意志があるんだろうなって最近は思っているけど。

 

こういうのは結局考え方の話でしかない。

けども、考え方っていうのは外界の捉え方と直結していて、最終的にはその人が過ごす現実そのものになる。

 

ところで、個人的に小中高で習った科目の復習キャンペーンをやっている。

まずは英語から。中高の六年分を10日で復習するっていう本を買って、二日目まで読んだ。この本が面白いのは、他言語を学ぶっていうのは外の文化を学ぶっていうのが意識されているところ。言語の扱いってその言語圏でのものさしに直結している。日本語は名詞を大事にするけど、英語は動詞を大事にするとか。

 

素朴に思うところ。

義務教育と高校までで勉強したものをちゃんと残している大人はどれくらい居るのだろうって。おそらくは習ったことなんてほとんど覚えてない、むしろ全然活用していない無駄なものだったっていう評価の方が多いはず。でも、9年ないし12年を無駄にしたって、なんだかもったいなくなかろうか。

 

人生の何分の一だろう。

 

公民とか社会科以外は全部有用だったと思っている。この分野はリアルタイムで変動して情報がどんどん古くなるから。

 

科目の細々した知識を強制的に覚えさせらるトラウマは僕にも在るけど、これをそれぞれの科目からみた世界観の話って考えると、復習にも精が出る。

 

例えば、僕は歴史系の科目全く好きじゃなかったのだけど、これを、人の倫理観なんて流動的なものだって視点で見ると全然変わってくる。歴史ってだいたいは残虐な倫理観しか残っていないけど、それは現時点の倫理観で見ればって話だけで、未来の倫理観から見れば、今の倫理観が非道極まりないって評されるかもしれないっていうこと。

 

中学理科から復習しなきゃなと思っているのは、電気エネルギーとはなんぞやっていう素朴なところから考えたいから。

 

最後。

 

義務教育の時点で世界観は流動的なものでしかないっていうことを学ぶことはできたはずだけど、知識が世界観に繋がらない理由。

 

それを教育として教えていたら国家が成り立たなくなる。突き詰めていけば、教えられている知識自体が意味がないものだって結論付けられる危険性を孕んでいるし。親子間の教育論を想像すると分かる。権威的に押し付けなきゃいけない領域はどうしようもなくある。

要は、教える側も有用性があまり把握されていないってことなのだろうか。

 

世界史の先生の言い振りを思い出すと、十字軍の虐殺とかチンギスハーンの侵攻とかファンタジー的にしか語っていなかった。お気に入りはバージニア

 

 

何か対価がないと動けないっていうのは、なんとも生物として動物的だと思うのだけど、本当に人間って高度なのだろうか。

 

 

おしまい。