硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

よすが

 

 

なんとなく普通の卵焼きに飽きたから、カレー粉とマヨネーズとはちみつで味付けしてみた。味はあまり感じないけど、美味しい。あとはブロッコリーをレンチンしてわさびと白だしとマヨネーズで和えたのと、豚肉と人参と玉葱を塩コショウで炒めて、醤油とゆかりで味付け。もっとしその風味出るかと思ったけど、あまり分からない。これ以上入れるときっと塩辛くなるから、大葉をみじん切りしたほうが良いのか。

 

 

さておき。

 

仕事はなんとなくの空白日、なのかペースが掴めたのかどうかは不明。

色んな非言語情報が見えるようになってきた。あぁ、この人は自分の為にこの仕事振ってくれているのだろうなってこととか、あとは、皆が分業しているから、それぞれの忙しさは不均一だということ。それに、年功の序列がやや不満に思っている節もあるのだろうなとか。

 

なかなか歪で良く回っていたものだと思うけど、絶妙なバランスで均衡が成り立っていたのかなと。仲良くしているのを見るにつけ、なんて白々しいのだって感じている。だからどうとも思わないけど。

 

まぁ良いや。

 

 

ぐるぐる思考を回っているものは、だからどうなるのだっていうことになっている。

言語化できる領域なのかどうかも心もとない。

 

時間の区切りをなくして自分がひと繋がりと捉えると、感覚が追いつかない。

過去と現在と未来の区切りを無くすと、4次元立方体の展開図を頭の中で組み立てるくらいの変なことになる。けども、なんだか面白いような気もする。

 

過去を創って区切りをつけたがるのは、きっと自分が過去の自分に付属している諸々が嫌で、自分は変わったのだって捉えたいから。未来を創って好き勝手物語を紡ぐのも、未来とされている自分は今の自分とは変わっているだろうって丸投げするから。

 

僕は時間の観念に囚われる前には自分の未来に丸投げしているって思っていたけど、むしろ一般の感覚の方が丸投げしているような。

ところで、単なる思考実験だけど、タイムマシンができない訳は色々説がある。

親殺しのパラドックスとか、時間に干渉するのが禁忌だから、未来ではタイムマシンは完成しているけど、公には出てこられないとか。ここで、一つ出てくる仮説。時間なんて存在しないから、そもそも時間を移動するなんてことはできないという説。

 

人は時系列で変わるっていうけど、本当に変わっているのだろうか。

人はって一般化して言っているけど、人がまっさらに観測できるものは自分以外に居ないから、自分標準でしか書けないのだけど、本質は何も変化していないような気がする。経験としてあるのは現実化という学習なのだろうけど、学習っていう観念も時間が前提だし。

 

結局、経験値っていうのは肉体の変化を時間で区切っているから捉えられる。

肉体の変化っていうのは老化だけじゃなくて発話とか人と接して得られたものも含む。

 

肉体っていうのは外と接する窓口で、肉体っていうのは、ここでキーボードを打って現実化させた言葉も勿論然り。

 

もう一個,ところでだけど、あなたはこういう人だっていう形容詞は、かなり強い力を持った言葉だなと思う。その人の現実化を規定する。肯定的な意味でも否定的な意味でもありうるけど、要は、観測者の中での被観測者を決める言葉。そうなると、被観測者はその枠を壊しにくくなるし、複数人に共通項があれば余計に。

 

でも、一番力を持っているのは、自分はこういう人物だって決めてしまう自己規定。

僕は自他にこういう言葉を遣うことは辞めた。自分がこういう人物だと規定しているって見えたら誘導には遣っているかもしれないけど。

 

で、なんだっけ。

時間の観念を省いても、現実化できることは物理的には決まっている。

考えたことが直接現実化する技術はきっと実用化しないと思っている、じゃなくて、現実化と意識はきっと繋がっているものとしているのがほとんどの人なのだろうけど、意識と時間の観念はきっと無関係だろうなという話が最後。

 

他人は自分と等しいものだって観測するのが普通だけど、他人の人格の背景は気にしないと思う。ってことは自分の背景も気にしない、時間の観念で人格を見る捉え方。

 

意識を時間から切り離すと、時系列とされている所の何処でも移動できる。

例えば、何か言動が悪くて縁が切れた人って居ると思うけど、そんなものは、そこを回避したって結局起こる。

 

ここで文章を現実化している訳だけど、これは指が追いつくものを拾い上げているだけ

思考は言語と非言語の間で行われるし、まるっきり言語化することはどれだけ語彙があっても不可能だし。

 

対人の共観測の話は次の機会にして。

 

 

肉体と意識の関係はなんとなく恋っぽい。

 

 

おしまい。