ネタバレ
今日は交信日かしら。
前に書いていたところでコメントがあったところから、ここで書き進められなかったかったけど、ちょっとは落ち着いたか。
仮想空間で人と関わるのは楽しい。
自分に都合の良い人と関わるのではなくて、もっと混沌した意味で。
自分も混沌とするし。
現実での人の関わりは、肉体的な年功序列があるから、条件として隔たってしまえばもう対等はないから公平にはならない。仮想空間は精神世界の話で、精神世界には年功はないから、タメ口で良いだろうって思っている。目上とか目下とかないし。
敬語もややこしいやつ。
僕は言葉を大事にするが故に、自分に遣われている言葉が一般との兼用の言葉なのか、自分用に遣われているのかがなんとなく分かってきた。
敬意とか心遣いは敬語っていう言葉で現実化するっていう標準みたいだけど、僕は全くそんなこと思わない。敬語って要は、相手に敬意を払っていますよっていう定型文で、肉体的年功序列に依存している。本当の敬意ってタメ口にしていても相手に感じられるもの。
さておき。
今日は圧倒的に惰眠を貪るという選択肢もあった。
帰ってご飯を食べずにひたすら寝るという世界線。
アプリで、ちょうどよく起こしてくれるっていうのを採り入れているのだけど、割と凄い。
強制的に起こされる不快感がない。何を測られているのかは恐ろしいけど、目覚ましの時間から30分前の範囲でちょうど睡眠が浅くなった時間に起こしてくれるし、睡眠のパーセンテージも毎日やってくれる。
昨日は最高値の80%。
そうして、一気に本題。
僕が思う睡眠の意義って、意識と肉体の調整にある。意識が途切れる時間が長すぎると意識が肉体に引っ張られて何も思考できない。逆に意識が途切れる時間が短すぎると、肉体から乖離する。
これはきっとあまり分からない。
何故なら、。
たまたま仏教的なところが繋がったのだけど、生活上の痛み苦しみは、人間であれば当たり前なこと。仏教は苦しみを語っているって捉えられている。っていうのもある程度知っている用の説明。そうしてキリスト教も別に来世は語っていないという。
要は、釈迦さんが語っているのは、人間で居る以上苦しさとは離れられないけど、人間じゃなくなる覚悟があるなら修行しましょうかっていうこと。
(もちろん独解だから本家の人に怒られるやつ)。
個人的には日本で味わえる饑餓とか凍死前ぎりぎりなことは味わっているからあんまり分らないけど。
でもなくて、なんだっけ。
忘れたからまた明日。
おしまい