ぶつ切り
広告の品具合と食べたくなったもので適当に作っていたら、晩御飯が無駄に豪勢になった。タコとワカメときゅうりの酢の物、肉豆腐、昨日と同じサラダ。入りきる気がしない。肉豆腐は湯豆腐に少し味をつけたくらいのもので、えのきと舞茸と椎茸とかつお顆粒出汁の味がほぼほぼ。優しく美味しい。酢の物。疲れた時に甘い物っていう繋がりは断ち切っているけど、時々クエン酸は欲しくなる。精製砂糖も依存症の一種。
まぁ、トータル、異物感は拭えない。
味はちゃんとあるし、美味しく感じるけど、義務感がなんとも。義務感が不純物なのかと言われると微妙なのところ。健康の手段として食べているって、意思はどこにあるのかとか。まぁ、意思なんて要らない、ルーティーンで空腹感を感じるから食べているだけとした方が健全で健康。
ヴィーガンだっけが、畜産業を攻撃していて、動物の方が植物より価値があるっていう説を主張していたりするのだけど、これを突き進めていくと、結局人間至上主義だよなぁと。植物だって生命が失われるときはなんらかのメッセージは伝達していると思う。ただ植物は奉仕というか循環の精神があるというだけ。人間如きが把握できる理で生きていない。知らんけど。まぁ人は自分の範疇に含まれるものしか心を割けない。
睡眠は義務感に含まれそうだけど、未来の出発点からハンデを背負わせることになると思うと、未来の自分に対してやや申し訳ない気分になる。申し訳ないと思った自分も厳密にはもう居ないのだけど。
さておき。
昨日の寝る前に考えていたこと。前置きとも繋がっているけど。
幸せとは考えなくて良い状態という命題。
これって多分真なのだろうと思うとなかなか。
筆が重くなる次第。けどもここが本質。
ヘーゲルさんは、意識は自他を区分するところから始まって真理に辿りつけると言いたそうだし、美学の中山さんも自分を突き詰めると本当の自分に辿りつけるっていうけど、そんなことは世の中の99、9パーセントの人がきっと求めていない。
おそらく、そういう人物が言う、考えるとか試行錯誤は、考えなくて良くなるための手段としての思考っていう捉え方であって、考えるために考えるっていうっていう枠組みではない。
だから、基本的な齟齬が起こる。
いったん話題を変えて。
帰りにやや大型本屋に寄ってきた。結局何も買わなかったのだけど。法学界隈を立ち読みするのも面白かったけど、結局は自分で辿りつくものだと思えば、情報量増やしてもしょうがないなって。中古本もスルーした。今となっては岩波文庫の古事記は買った方が良かったなって思うけど、それはそれ。
本で言うと、女性の作者だとよしもとばななさんがどうしようもなく好き。ハゴロモ読みかえしていたのだけど、空々しさも生々しさもない。結局は人間性が近いのかどうかっていうことなのかしら。
そうして、幸せの概念に戻ってくる。
僕はこういう思考停止できるという意味の幸せは1回だけ経験済みだったりする。けど、思考停止って、関係している人を蔑ろにすることに等しい。まぁ相互に幸せっていう状況もあるのかもしれないけど。
はぁ、ここではこれ以上書けない感じか。
僕は幸せが考えなくていいっていう状態だとすれば、幸せなんてものはちっとも求めてないなというだけ。
おしまい。