硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

kotowari

概念を食べていると食欲がわかない。この傾向は個人的によろしいけど、器的というか人間的営み的にはよろしくないのだろう。器的に無理矢理回すためには、、、色々あるけどまぁいいや。

 

しっかり栄養補給しとかねばと思って弁当生活も復活させて、加えてレタスとみょうがとミニトマトとシラスのサラダにしてみている。

 

 

ともあれ。

 

今日の話は言語化するのがかなり大変。

 

概念を食べるとはなんぞやって分からないと思う。僕も説明できる気がしない。知識の収集とか何かに活用するためにとかではなくて、純粋に食べるもの。例えば、読書時間で5年ぶりくらいに江國香織さんの「号泣する準備はできていた」を一章読み返してみた。江國さんの文章久々だけど、なんだか空々しいけど生々しい、いや、生々しいのに空々しいか。

 

最初読んだときと随分読んだ感じが違うけど、なんだろうな、これって経験としての自分の器が変わったからではない。多分初見でも号泣はしていなかっただろうなとは思うけど、何か、言葉に付着したナニカを食べている気がする。あまり面白いとは思わなかったのだけど。

 

ところで、僕の友人は学生時代かなり本を読んでいた人なのだけど、女性作家は空々しくて駄目だから読めないって言っていたことを思い出した。例えば性描写がリアルでないから萎えるという話で、あぁそうなのかなと思って聞いていたけど、別に村上春樹さんだってそんなに細かく描写していないだろうから、要は何らかのニュアンスっていうことなのだろう。そう思った作品も聞いていない。

 

割とナチュラルに女性蔑視の感覚を持っている人だったけど、当時と変わっているかどうかは分からない。でもこういう人はある界隈にはモテるらしい。まぁこの蔑視って分析してみると母親へのコンプレックスの反動なのかなと思っている。別にほじくり返して何らかの改善がある訳でもないからやらないけど。要は、この人の女性蔑視は甘えの反動に近いような気がする。こういうことを感じるたびに自分が痛いんだろうなと思うけどしょうがない。自己観と直結しているだろうし。

 

 

ところでの上乗せだけど、某政党が性行為を原則違法にするっていうマニュフェストを掲げているらしい。要は、強制性交罪等罪の暴行脅迫要件をとっぱらうという話。最初見た時、何を血迷っているのだと思ったけど、今思うと結構アリかもなと思う。性的なリスク配分という意味で。

 

まぁ原則犯罪として、同意が違法阻却になるってすると、捜査機関である警察官とか司法機関の検察官とか弁護士がいくらあっても足りないから刑法上は無理。これを大っぴらに掲げる政党は政治がきっと分かってないから投票はしない方が良い。

 

でも、民事だったらアリだと思う。当事者どちらでも訴えられるけど、訴えるためには自分で調査しなきゃならないし手続きも踏まなきゃならない。要は自発性が必要だっていうこと。自分が嫌だったのならそう自分で訴えなさい、訴えたものはちゃんと判断しますよって。

 

現実化したらきっと出生率はもっと下がるだろうけど、社会の総意がそうならそれでも問題ないと思う。性交渉のたびに違法を自覚しながらしなきゃならないし、訴えられることも危険性として把握しながらする行為は楽しいのかどうか。原始キリスト教みたいだけど。

 

個人的には、リスクが完全になくなれば楽しいだろうなとは思う。でもそうなったときこの行為に意味があるっていう共通認識があるのかどうか。

 

 

だいぶ脱線してきたけど、戻って、来られるかな。

 

とりあえず仕事の話。

 

2か月ちょい足らずだけど、この職場の構造みたいなものが分かってきた。個人的には会話楽しいし頭も沸騰するはでうはうはなのだけど。

 

先生としては、1回自分から聞いたことは覚えておけよみたいな内心が、忙しいと出てくる。当たり前だけど、ベテランっぽい人も平気でいっぱい投げている状況はなんなのだろうと思うと、一回は自分たちに投げろっていう環境を作ってきたんじゃなかろうかって。それに慣れると、下はもう一定以上の吸収はしなくて良いやって閉じるのではと見えた。聞けて答えを出してくれる人が居るっていう環境では、その外まではいけない。枠を創ったのは自部たちではとか。

 

僕にはあまり関係ない話だけど。

 

 

やっと戻ってきて。

 

今日の読書時間に、戯れに、むかーしの知り合いから借りっぱなしの「できる人の話し方」っていう本を読んで見たのだけど。なかなか受け付けない。まぁ啓発本だから、自分ができる人になるためにはっていうことだったのだけど、僕は別にできる人と見られたい訳ではない。まぁ結果から考えるっていうのは採り入れようとは思った。相手の安心と納得。

 

この本のできる人って、自尊心の話で、相手は人でなくて、自分を確立するために相手をどう使うかっていう話だった。まぁ大事だとは思う。けど、この文脈でプライベートも良好になるって言ってしまうとなんとも空々しい。人格じゃなくて技術なのかと。

 

 

ということで、概念の話だけど。

 

概念的な交信には、自分がどう在ったかは関係ない。瞬間的な今の自分しか意味を持たない。自分の経験則は基準にできないし、この瞬間の自分がどういう答えを出すかっていうだけ。

 

この何も拠り所にできないところにあるのが概念を食べるという感覚。まぁ、こんな感覚芽生えない方が良い。自分を絶対的に捉えるって宇宙空間に投げ出されることに等しいし、ここで自分を保てるのは、よほどの変態でしかない。

 

 

まぁおしまい。