硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

ティラノサウルス(前)

 

あれ、本当に行って来たっけ。日常に戻って来ると夢だったのかと錯覚する。ちゃんと物質として当日パンフレットの美味しい文章とチケットがあるし、道中の電車の中とか、当日券でと言ったら、なにかぼそぼそ相談してくれて前売り価格してもらったり、職員さんはみんなこのイベントに愛着があるのだろうなぁって感じた記憶もある。これらを総合すると、ちゃんと現実として観に行ったのだろうなって結論付ける。

 

現実っていう観念に対して思い出すのは、脳科学者さんの本。何についての本だったか忘れたけど、人間が現実と認識する条件は、五感の複数が同じように反応すること。目で見たものが触れるとか、耳で聞いたところに音源が見えるとか、そんなの。

 

現実ってなかなか危ういところにあるのだなって。もう少し穿つと、現実だと認識した記憶としての過去だって現実を補強しているような。

 

 

現実と生は同じことだろうか。

現実の積み重ねが生だろうけど、非現実を現実に持ち帰るっていうこともあるから、イコールではないか。

 

 

ともあれ、現実感自体も危うい以上、「生」っていう言葉はマジックワードマジックワードっていうのは、中に入れるものが固有だから、相手が自動で変換してくれて疎通できているよう感じられる魔法の言葉。よくよく考えると、自分っていう言葉も割とマジックワード。器に何が入っているかは分からないのに、なんとなく疎通できる。

 

疎通。

 

当日パンフレットの美味しい文章の中に障害者の施設を襲撃した事件のことがあった。当時の情報では、犯人は選民思想の人だなって思ってたけど、新情報で、疎通ができるかどうかっていうのを基準としていたみたい。

 

疎通っていうのも難しい観念。自分が発したことが返ってくるっていうのが中核なのかな。会話のキャッチボールっていうより卓球のラリーみたいな。反応じゃなくて反射か。壁打ちのように返ってくれば疎通。

 

で、この犯人の基準で言うと、おそらく自分も死すべき対象だったんじゃなかろうか。自分のコミュニケーションに対する劣等感の発露、みたいな。ちゃんと誰かと疎通できている人なら、そっちに人生を使って疎通ができないから人間じゃないって思想はきっと生まれない。

 

 

 

僕が演劇を見て想った死は、やっぱり父親。脳梗塞だったか脳出血だとか名前は知らないけど、倒れた直後のシーンが思い出される。脳を揺らしてはないと思うけど、1番最初に触れて、頬をペシペシしたとか、頭の重量感とか、雪がチラチラしていたとか。その後の記憶は

ぶつ切れで、今となってはほんとうに現実なのかは分からない。よくもまぁ今こうやって文章書いているなってくらいは感じるけど。

 

先に感想。

 

初演劇がここで良かった。惜しむべくは、先にインタビュー記事とか原案読まずにまっさらで観たら違ったかもなっていう世界線。これはインタビュー記事のフレーズのあの人のところだっていう情報ない状態で観たかった。

 

演じている人と交信したことはないけど、おそらく接したことがあってもあぁこれは作品だって思っただろうなっていうのは変わらない。

 

芸術にはまだ入りきれていないけど、小説は良く読んでいるから流用はできる。本人の人間性の外にあるもの。回転具合とかも計算のうちなのかなぁとか、あの音は秒針のチクタクなのかなぁとか、これは当人にとって成功になるのだろうかとか。疎通じゃないけど、どう伝えたいかと、どう伝わるかにはすごく深い溝があって、その溝を越えてしまったら表現ってもう自分のものではなくなるだろうし。

 

ありがとうございました。

鳥肌が立った非日常でした。

 

 

さて。

 

これを踏まえて、本当の生死ってなんだろう。

 

生の本質は、脳が出力できるところに重きが置かれていると思う。でも、基本的に脳だってポンコツだから、脳が統合する肉体に縛られる必要はない。錯覚しかり、幻肢しかり。

 

 

僕はあんまり生死とか現実非現実を区分けしていない。こういうマジックワードの中核は非言語にあると思っているし。こういう話を人がしないのは、きっとこういうことを語り合うのは疎通の範疇を越えるからだろう。

 

でも一応自己主張はしとかないといけないので。

生の中核は、「縁」かなって。運とも違う。生きていることがデフォルトっていう説は生きていることしか観察できない状態ではそうだけど、彼岸の向こう側の方がデフォルトって考え方もある。こちらからしたら死は落とし穴に見えるけど、向こう側からしたら、おー、やっと帰ってこれたかーってなっているかもしれないし。

 

縁って、この肉体とこの精神っていうのもあるけど、人は常に人に観測されて自我を形成するから、相手との縁っていうのももちろん。

 

で、縁っていう言葉だけだと拡がりすぎるから、下位観念。

縁を感じる時ってどういう時だろうって一般論で考えると、自分の中身が伝達されたことを実感する時。どんな人格であろうが他の人から繋げてインストールされたものなのだし、デフォルトと言えばデフォルトだけど。そうして物理的な時空だと住んでいる場の隔離とかもろもろってややこしくなるけど。

 

続きは後で。