硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

どうしようもなさ

弁当箱を買い替え。5年くらい酷使していて、手入れも適当だからもう限界だった。体積が1.5倍くらいになったか詰める枠が広がった。ついでに想像力も。良い感じ。ご飯を詰めるのと具材を詰めるタイミングがずれるから二段は譲れないのだけど、おそらく積む場所を間違えている。プラスチックの蓋がある方がご飯のポジションだとおもったのだけど、蓋はレンチン対応じゃないから、むしろ生ものを入れるポジションなのかもしれない。こんなのどっちでも良いと言えばそうなのだけど。下の方が体積は大きいからいっぱい淡水化物が欲しいならこっちに入れたら良いだけ。たまには麺類とか。

 

ともあれ、枠が広がったので、もう少し見栄えとか栄養バランスとか考えていこうと思う。突き詰めると、インスタ映えみたいな。インスタはやってないしやるつもりもないけども。

 

自分の視点とか自分の料理とか、公に晒すようなものではないと思っているから。というか、僕はそもそも自分を表現者としてみなしていないのだろな。文章は表現していると思っていないから、なんとか書いているという。これが後ろ向きなのかと言われると微妙なところだけど、万能感と無力感が並行して共存している。どっちが強いかってそりゃあ後者。何故かと言えば、、。

 

 

 

ところで。日記が空いた日にアラジンを見てきた。ちゃんとアニメ版の復習をしたあとに。もともとが原作からそうとうの改変があるような気がするのだけど、ともかく、面白いのは確か。勢いとかテンポとか音楽とか。

 

ただ、ディズニー界隈は結構苦手。自然と馴染ませるような思想の裏が見えるところがなんとなく。これはハリウッドとか洋画一般に言えることだけど、洋画が泣けるとすればそういう理由。僕もアラジンで泣きそうになったのだけど。

 

共通項として、王女は王子しか結婚できないっていう法律を最後に王様が覆すのだけど、方法が違った。アニメ版では王様が法律を変えたのだけど、映画版ではお姫様が王様になって法律を変えた。これって結論から見ればどっちでも良いし、原作の千夜一夜物語だったらもっとスルーされていたところなず。でも、現代社会で見れば意味合いはかなり違う。

 

誰がルールを決めるかという話。

アラジンのアグラバーって社会制度として君主制みたい。王様が法律を変えるって現代社会ではありえない制度なのだけど、それが成り立つのはファンタジーだからではない。最終的にルールに縛られていたお姫様がルールを作る強者になったから、今の物語として成り立つ。

 

ただ、いちゃもんじゃないけど、いやいちゃもんだけど、この王女様って全然縛られてない。映画版だとやたらと女性っていう属性だからなんもしなくて良いみたいなジャファーからの圧力がやたらと描かれたあとに、女性が自立していくみたいなことがやたらと見えてげんなり。そもそも姫様は全然弱者ではないだろうって。環境が整っていれば、自分で道が決められるっていうメッセージだったら分かるけど。

 

まぁそれがエンターテイメントっていうなら分かりみ。

でも、楽しむならジブリの方が良いかなと思っている。ちゃんとエゴだから。新海さんとかもまさに。

 

そう、僕はおそらくジブリと一緒にディズニーアニメも金曜ロードSHOWでやってる範囲では等しく見ているはずなのだけど、ディズニーが記憶に残っていないということはそうそういうこと。豪華さが全然残らない。チャーリーとチョコレート工場は残っているけど界隈が違うか。僕がこの辺りで一番好きなのはシザーハンズなのだけど、これはジョニーさんだからだろうなと。でもカリビアンは全然覚えてない。

 

まぁ映画って、見ている瞬間の感動が本質であって、振り返られるかどうかは別物なのかね。

 

やれやれ。

 

仕事の話だけど、やっぱり同期のほうがコミュ力高いしまともだ。僕は疎通に無駄な言葉を遣おうとは思わないけど、発話を費やすことが疎通にとって必須だっていう観念があるところ。

 

僕はそういう観念はまったくない。関係に大事なのって行動であり今でしかないような。

 

でも、人が他人を人と見る定義って、ぶっちゃけると過去の蓄積だと思う。

これは自分を自分として把握することにも等しい。

 

こういう意味でもポンコツなのだろうなと。

 

おしまい。