硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

理不尽への考え方

朝起きたら外がやたらと騒がしい。ベランダに出て洗濯機の上から空を眺めてみると、ヘリコプターが2台飛んでいた。どうやら事件とのこと。調べてみたら警官が刺されて拳銃が奪われたとか。まだ捕まっていない。今日の外出時間は10分程度という最大限の自衛。でも、コンビニへの行きと帰り、普通に人を見かけた。子供が見えなかったのは良い。一応現場から徒歩圏内だけど結構安穏とした雰囲気。自分だけは大丈夫と認識しているのだろうか。でも、拳銃社会だったら普通な日常だと思うとなかなか。

 

少し考えると、犯人は捕まらないとは思っていなさそう。捕まらないと思って軽率に行動していればとっくに捕まっているだろうし、かなり計画しているのだろうなと。明日大阪市で休校にするのは適切な措置。計画性からすると、監視カメラに映っているのも計画の一部なのではと思わなくもない。今の季節一晩屋外で過ごすくらいなんともないし、なんなら警戒線が引かれる前に何処かの民家に押し入って家主をどうかして潜伏していたりしたら操作は難しい。引かれる前に電車で移動も考えられるけど、タイムラグという不確定要素を計画に組み込むのかなと。

 

で、目的と手段の話だけど、手段として拳銃を手に入れたのであれば、無差別を目的としているような気がする。かなり合理的に動いているように感じるし、目的が殺人だったらナイフでも構わない。明日捕まってなかったら休校にするっていう措置は賢明だと思う。でもふと思ったのが、無差別だったら車でも良いのではというところ。とはいえ、次点で何が危険か。数打てば当たる論理で言えば、密集地帯が一番合理的。とすれば、一番現場から近い密集地帯は大学。その次の密集地帯が僕の仕事場がある駅。でも、何か社会にアピールするには衝撃が少ないような。

 

別に犯罪者に共感するつもりはないけど個人的に凄く胸騒ぎがするから考えてみている。

ナイフで刺された警官も、当初は重傷だったのに今は重体になっているし、なんだかきな臭い。まぁ1つの胸騒ぎは解消されたけど、この胸騒ぎは自分への危険性なのかもしれない。

 

自分は死なないとは思ってない。

結局のところ、人を一番殺し得るのは人であるのは確か。これは肉体というより精神に係っているけど。

 

とはいえ、可能性の収束のどの時点で警戒するのかという話。

危なさなんて想像すればほぼ無限にあるわけで、警戒するかどうかを決めるのは当人しかない。警戒ってなんぞやっていうのと、結果を回避するっていうよりは、単なる心構えに近い。実際拳銃を装備した犯人に遭遇したり、震災に見舞われたりしたときに、回避するっていう選択肢はないし。

一応、明日病欠してみるっていう回避策はあるけど。もっというと、満月近くなると人の精神は不安定になって犯罪率が増すから、満月近くには外出を控えるとか。そんなの理不尽だっていう見解もあるだろうけど、犯罪とはこんなものだという気もする。刑法は人の行動の自由を尊重しつつ、ある行為だけ罰するものであって、誰か個人を救うものではない。ギリギリの秩序を保つ機能しかない。しかっていうと仕事をしてないって見られるかもしれないけど、その機能しかない方が良いっていうのが今の暫定的正解。

 

この流れで、Twitterでよく見ている界隈の痴漢問題。被害者に自衛を強いるのは被害者に対するセカンドレイプだっていう主張。周りの人が助けろよっていうのも分からないではない。けど、その周りの人って別に何の義務もない第三者であって、第三者に助ける義務があるのが当たり前だっていう感覚はかなり他責的なものさしだと思う。そもそも、犯罪の被害にあう可能性が高いところを回避するっていう自発的な行動はないのだろうか。多くの人は学生時代の経験を前提として語っているように見える。確かに他の行動を選ぶことはできない。満員電車を回避する選択肢がないし。

 

この事件に引き直すと、吹田市の危険度が増しているから警戒してくださいっていうのと、満員電車の危険度が高いのはあまり変わらないような。一駅歩くとかでも変わってくるのでは。となると、自分が他の人より労力をかけなきゃいけないことに対してそもそも不満があるのではというところに至る。昨日のヒール・パンプス問題も、男性に比べて女性は労力がかかるみたいなところに根があるような。これ自体は大したことではない自然な考え方。人は自分の指標でしか物事を判断できないだけ。

 

まぁ、社会通念の違いっていうのも分かるけど、社会通念もマジックワードだからなぁ。

男は料理ができないって通念がある人はやってない人にしか接していない訳で。

 

個人的には、なんで匿名的でフェイク情報も不可避なところで真実を語ろうとするのかっていうのが疑問だったりする。誇張されているって思われても仕方ないと思うのだけど。

 

これで社会は変わるのかいな。だいたい都合の良いことだけ採り入れることになってより隔たりができるだけなような。

 

僕はそもそもこういう意味の言葉にあんまり重きを置いていない人なので。

公開できるトラウマは消化できた後のものだという説。

 

さておき。

 

 

劇評が公開されました。一緒くたに貼られていると読む人大変ではなかろうかと思わなくもない。誰が読めるのかって。合計何文字読み切らなきゃならないのか。

 

僕も読みにくさであんまり読めていない。けど、最初の人だけは残っている。

 

主人公のセックス依存症がしれっと治ったことに整合性がない、みたいな言説があったのだけど、僕の中ではこの人はそれではなかったから、なんの転換期がなくてもそうではなくなって問題ないという説。セックス依存症って自己肯定感をまぐわいに求めることであって、まぐあいの快感自体に依存している訳ではない。自己肯定感自体はまともにあって、単に関係性の希薄を問題にしていただけであって、関係が濃いものを知れば、そっちの方が良くなるのは自然かと。

 

集合的関係はどうあっても薄くなる。

 

 

つまり、自分が関係している人に対して、集合的に見ているかどうか。

僕はそういう風に見られたきっと存在していない。

 

これが最後の日記になるかどうかは分からないけど、いつもそんな感覚だから問題はないか。

 

ではでは。

 

おやすみなさい。

 

良い現実を。