硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

人の精神性に関する諸々

阪急オアシスで父の日おつまみセットを発見して買ったのだけどなかなか完成度が高い。蒸し鶏ときゅうりときくらげの中華だしっぽい和え物と、カモっぽいハム(たぶん豚)の下にスライスオニオンのマリネ風と、ビビンバ。これで300円って居酒屋の突き出しでもなかなかないような。奮発して作ってくれたのかな。僕の中では料理の凄さとは再現するのがどれだけ難しいか、が基準になる。

 

父の日か。父親については定期的に思い出す。行動原理の軸が読めない人だった。思い出すと、だいたい悲しくなる。系譜は受け継がれているのだろうなぁ。僕がもっと早く自分に成っていればあるいはと思うとどうしようもなく悲しい。理解者になりえた唯一の家族だったのにという意味で。取り返せないものはしょうがないけど、記憶から排除することだけはしないようにしよう。それだけしかできない。

 

さておき。

 

昨日は時間配分を間違えてここには書けなかった。別に気分が落ちているとかそんなことではないのでご心配なく。配分を間違えたことに後悔はない。

 

ということで、昨日書こうと思っていたネタ。

 

自分を変えれば世界は変わるというけれど、自分を変えたところで変えたかったものは変わらないっていうフレーズを見かけて、これは真だろうかっていう思考の流れ。

 

順を追うか結論から語るかっていうのは、ニーズによって変わるけどここではどうなのだろう。とりあえず僕の直感ではこれはおかしいだった。

 

整理してみる。そもそも自分を変えるっていう意味。たぶんだけど、このフレーズを発した人が自分を変えたことがないっていう想像になる。自分を変えるって、単に認識を改めるみたいなすぐ終わる作業ではなくて、自分で意識して修正する作業を年単位でやる必要がある。啓発本読んで変わるくらいならもっと世界は平和になっている。

 

んで、変えたかったものとはなんだろう。例えば世界そのものとかいう大きなものでも、人は世界の採り入れ方を無意識で選別しているものだから、自分を変えてみたら変えたいと思っていたものが取るに足らないものだったっていう結果は起こりうる。じゃあ、自分が接せざるを得ない他人の意識とかだったらどうだろう。これも変えようと思えば変えられなくはない。けど、費用対効果としてかなり割に合わない。逃げたら良いに変わるっていうのはあるかもしれないけど。

 

ところで、変えるとは別のところで変わっていくのが人間。時系列上のライフステージの中での変えたいものだったとしたら、時系列が動けば取るに足らない欲求だったということになる。これは、自分の器としての時系列と精神性を連動させているかどうかだと思うけど。

 

あと、ここが一番重要だけど、世界に対する不都合性って当人の自我と直結しているから、自分を変えることは自我を崩壊させることも孕んでいるような気がする。幸せスイッチの話ではないけど、不都合性とか弱者であることにアイデンティティを見出している場合、これを取り除いても自分であれるのか。

 

僕は自分の汚点とか後悔とかいっぱいあるけれど、これをなくそうとは思わない。自分が自分である証拠みたいなものだし。けど、未来に対しては過去とは別だろうなと思っている。

 

 

結論としては、世界が変わるのにアイデンティティが変わっていないことがおかしいということ。自我をそのままに世界だけが変わるのはご都合主義に見える。

 

変えたくない自我の部分は誰にしもあるのだけど、その自我のデメリットを他責にして呪詛を言霊に載せるのは違うかなって。これは自分が選んだ自分だから、デメリットも当然受け入れなきゃならない。

 

次。

 

仕事の話。

 

ある顧客への応対の後に、硯さんの顧客の違いはどこにあると思いますかって上司に聞かれて、答えに窮していたら、寄り添いがあるかないかですって言われた。めんどくさいことをやってもらうのだから、残念そうな声色にしなきゃいけないって。同期はそれができているとも。

 

念のため言っておくけどこの上司は先生とは別の人で、先生とは別の意味で好きだったりする。あだ名は何にしよう。

 

んで、これを言われて思ったのが、僕が声で寄り添わないのは日常がそれだからだろうなと。むしろ、声色だけで寄り添えていると思うのが茶番だっていう物差しまである。たぶん声に感情を乗せなくした経緯っていうのがどこか時系列にあったはず。1つ思い当たる中学時代のエピソードがあるけど、なんだかモテエピソードみたいなことになるからやめよう。

 

人に寄りそう時、言葉みたいな簡単な手段は取らない。 言葉だけの同調が欲しいなら他の人で賄ってくれっていうことになる。これは僕が寄り添ってもらっているなって感じるのが非言語でそうなっているときっていうのがあるのかも。

 

言葉に対する不信感が根っこにある。いつできたかは悲しいエピソードだからやめる。

これは自分の言葉に対しても言えること。世界は一方的なものではありえないので。

 

現実世界にまつわることなら、自分はこう行動するみたいな記述は要らないように思う。その発言をする前にそれをすれば良いだけ。しましたなら問題ないけど、細かく書くと切りがないからやめとこう。

 

僕がこの上司を好ましいと思うのは、寄り添いの声色を純粋に技術的に捉えているところ。同期ができているっていうのは、自分が拙いっていう状況と日常で、自分が寄り添われたいから寄り添っているっていう天然なのもきっと把握している。他責するところが全然好きじゃないのだけど。焦っていたからこうしてしまいましたって表明するのって結構ずるい。同期のこれって、自分が慣れて強者になったときには転換するような気がする。知らんけど。

 

 

上司は声質的には僕と近いところがあって、きっと10年の試行錯誤で内的にはどうでも良いって思っているスキルを積んで来たのだろうなと。不器用さが好ましい。だから細かく指摘してくれているのだと思っている。難しいと思いますけどってちゃんとフォローもあるし。

 

飲んでみたい人第2号。

多分プライベートと仕事は峻別しているからそんな場はない。作ろうとしなければ。

 

もう1つ。

 

つぶやき場界隈で見かけた、靴運動について。

 

女性のヒール強制が差別だっていう主張だけど、目的と手段が混同されている風。

 

個人的に電車で通勤していたとき、ヒールの人ってあんまり見かけなかったような。歩き方が綺麗な人とは魅入るし、歩き方大変そうだなっていうのは眺めていたような気はする。かなり意識して歩かなきゃいけないのだろうなと。

 

ではなくて、目的と手段の話。

 

例えば、目的をヒール付きの靴の健康被害を回避するって設定するなら、手段を女性差別だって訴えるのは悪手。差別だって言ってしまうと、他の事例とかとも比較しなきゃならないからややこしくなる。

                           

でも、主張している人はどうしても差別だとしたいらしい。ということは、目的は女性差別があるっていうことを公に示したいということで、女性個々人の健康被害は手段なのかって思う。どちらが大事なのだろう。目的が健康被害の解消であるならば、手段は単に健康被害を強いる労働環境は非合理だ、で済むはずだし、これだったらすんなり世間も納得するような気がするけど。

 

差別論って難しいのだけど、基本的には法的取り扱いの不平等で収めておいた方が良いような。ヒール論も、就業規則で明示されていたら法的取り扱いの俎上に乗るけれど、そっから先の、社会通念としての素朴な区別を差別としてしまうと、自分が差別者になることにかなり敏感に過ごさないといけない。被差別者という立ち位置を保てるなら良いのだろうけど、世界はそんなにご都合主義にはできてない。

 

そもそもだけど、区別することって人間の根幹にあるもの。区別と差別は違うって言うけれど、差別は社会的な意味が色づけられているだけで、個人レベルでは同値なもの。誰と接することに時間を配分するかって当たり前の話だけど、これの主語を大きくすると差別になるみたい。

 

ということは、差別意識って人である以上、デフォルトで搭載されたものなのでは。下がいる方が安心できるっていうのがそれだし、上に対してもそうだし。つまり、私的な領域の区別までにもってくると人はすべからく差別の主体になりうるということ。ここまできたらそりゃそうだってことになる。私的時間も労力も自分が好ましい人に使うのは当たり前なことが、差別になったりする。

 

ヘーゲルさん曰く、区別が人間の精神の本質だとのこと。自分と自分以外のものを分けないと自分の精神は確立しない。

 

差別されているっていう感覚よりも、差別しているっていう自覚の方が大事な気がする。

 

おしまい。