硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

言葉の秘密

まだ書くのかという感じだけど。劇評を書き終えた。終わってみると大筋はこれしかなかったという気がしてくるから不思議。脳には結果を必然だったと理屈付ける機能があるがあると脳科学の本で読んだことがある。自分が何かを選択した結果があったとして、選択しなかった結果より選択した結果の方が正しかったのだって無理やり理屈を構成するらしい。こういう補正作用も当然にあるだろう。けども、言葉という形にできなかったものが人まとまりの重さを持ったものになったという感触も確か。書きながら思いつきで足した部分もあるし、形になる前と後では質的に違う。設計図と完成品との違いくらいに。

 

文字数の上限ぴったり(±10文字くらい)に収まったのも不思議。無意識の処理能力なのか、日記書く時も文字数を観測しているから訓練のたまものなのか、きっと不可分だろう。もともと2400文字程度を想定してイメージしていたとも考えられる。2400文字のまとまった文章って脳内で可視化できる量ではないから、イメージの塊で浮かべておくしかない。

 

イメージの塊を可視化させる訓練になったのは良き。

1つ経験して思ったこと。書き換えられない芯を構成する言葉群と、書き換えても問題ない部分がありそうだということ。キーワードが重要なのはどんなことでも同じか。なんだかんだ、分かりやすさとか読みやすさとかは、どういう文章にも通じる。論文試験の方に応用できそう。要は、自分がこの言葉をどういう意味合いで用いたのかということを自分で説明できるかどうかが、文章に血が通うかどうかを決める。

 

こういう言葉の扱いは面白い。注意深く扱う所作が訓練できる。僕がよく使っていた、○○[っていう]は改めるようにした。どれだけ改善できているかは分からないし、日記ではまだまだフランクだと思う。本当は、思う、みたいなぼやかし表現もなくて良い。一応、あくまで個人の見解だっていうことを示すためにそういう表現を使っているけど、用いなくてもそう読めるようには書けているはず。違いないとまでは言えないのが難しいところ。

 

一通り推敲してもらったけれど、推敲してくれた人も、僕の文章のリズムに慣れている人だから、純粋な第三者にはなりえない。面白く読めたっていう感想も慣れているからそういう感想になったことは否めない。割と疑い深い人。

 

だから、完全に僕を知らない人があれを読んでどう捉えるのかというのは興味がある。劇評で初収入も含んでいるから、この視点での文章に需要がないならしょうがない。視点といえば、この劇評にある自分の視点って素朴なのかどうか。

 

どういう風に世界を見るかが露呈されるけれど、僕は、自分のことも他人事に見ているところがある。だから移入した部分と移入しなかった物語の成り立ちを並行して見られる。ただ、

こんなの良いことは一切ない。ただ視点を変えられるだけで、行動を変えられる訳でないという。

 

視座によって行動を変えたとしたら、それは計算ずくであって、素朴な自分ではないってことにならないか。相手が何を需要しているかは分かる、それを提供できる蓄積がある、って分かったら提供するのがしかるべきだったとて、選ぶ自由くらいはあるだろうって。

 

 

あとは、発話ないし会話と文章の言葉の扱いの違い。

 

発話だと、固有名詞の意味って相談して決められるけど、文章では決められない。発信者も受信者も自分で言葉の意味を決めるしかない。

 

言葉の意味の捉え方って面白い。

 

分かりやすい言葉だけ使っていても分かりにくい人も居るし、分かりにくい概念を語っていても分かりやすく語れる人はいる。言葉の意味を聞かれて広辞苑を持ち出す人には分かりやすい言葉は語れないのかもしれない。

 

知り切れトンボだけど、ここまで。

 

疎通に必要な言語とは。

 

 

おやすみなさい。