エクストラ追加舞台
やっぱり延長戦。
交信したくなってしまう予防線。
これってこういうことを話せる相手がいないっていうことに等しいかしら、みたいなことを思いつつ、人って他人のまとまった話を聞けるほどに可処分時間はなかろうなって。別に
誰かに聞いて欲しいみたいなことでもない。この辺りは微妙なところだけど。一方的に相手が自分の話を聞いてくれることって、何か講義をしているとか講演とか、相手に聞く義務ないし権利がある時だけだと思う。
僕個人としては、まるっと語られる個人的な表現は好物だから促しながら聞くし、それによってその人への評価が変わることはない。だから静岡に居る友人も誰にも語れないことを語ったのだと思っている。他の人だと属性評価が入るから。ちょっと今その後を聞いてみるか。舌の根も乾かぬうちに。
ともあれ。
ゆっくりしようと思って、新海誠さんの秒速5センチメートルを見ようと思ったのだけど、これは悲しくなるからいかんと、言の葉にしてみたら思いの外響く。登場人物への移入ではなくて、演出の細やかさに対して。
これってなんだろうなって思うと、経験した演劇について感じていたこと。最初に観た作品の時に、この動きはどれだけ計算されているのだろうって魅入ってしまったところ。別に人となりは知らないし、演劇がどういうものだとかどういう風に見るべきみたいな作法も知らずに見に行ったわけで、ここに出てくるのは素朴な視点でしかないという。
演劇とアニメ映画の共通点みたいなものは分からないけど、僕の目では、どこまでがこの人の範疇なのだろうっていうとこを見る。言の葉の庭だと、99%以上は新海さんの世界。例えば雨粒の落ち具合とか(一個一個冠になっている)、人の冷たさとか、かなり自由に創れると思う。不可抗力みたいなランダムはほとんどないし。
んで、演劇は一回性のランダムが拭えない表現方式だとして、どこまでが本質なのかっていうことになる。他の回の画像を見たけれど、服装が違う。けど、固定された服装もある。ということは、固定された服装になんらかのメッセージがある訳で。蛍光なのかなとか。個人的には、ローションを拭う所作が演劇の内側なのか外側なのかが気になっていた。
下手したら黄色と黒のあり触れた縄でも意味を持たせているのではって勝手に捉える。危険とか。
ということで、明日書ききる劇評は、観てない人とか観た人への自分なりの解説みたいなことではなく、単に制作陣へのラブレターみたいな形式にしたら筆が進むに違いない。そんなこと全く意図していなかったと思われたら仕方ないに極まりないし先はないけど、作法に捉われて書いたらもっともっと先がない。この先がない、は、自分にとってというだけ。
ここでさっき書いていた、役割の話が返ってくる。
君の声が聞きたくてー風の声にー耳すませー。
役割で自分を捉えるなっていう主張は、自分が相手を役割で捉えていることと合わせ鏡。
だいたいの関係が矛盾している。
自分の中で矛盾はないって大っぴらに主張できる人は、ほんとにやばい。でもこのやばさを感じなくさせてくれるのが、役割とかラベル。
何か他人のことを考えるとき、この人の年代はとか、男女の区別とか、思想の区別とか、属性でアンド検索してないだろうかっていう話。
そうして、ごくごく個人関係で考えてみて、親しくしている人が反対の性別でも成立するかっていうのが本当の友人関係かなと思う。僕はそもそもほとんど友人居ないからこういう思考実験が成り立たない。
変な話なのかどうかは分からないけど、例えば、保証人になってくれって言われた時に、なれるのが友人の定義なのでは。そうじゃなくて暇をつぶせるなんのダメージも関係を友人とするのであればいっぱいできると思う。金が切れても縁が切れないのが本物では。
何が本物かどうかも知らないけど。
そう、ここでの主眼は本物かどうかではない。
当人の視点から見て、何が本物かという話。
本物なんてない。
この要素って自分の感情の根っこだと思う。社会性だとすれば粗すぎる。
この粗さっていちいち指摘しようとは思わないけれど、云々。
あぁ、どきどき。
おしまい。