硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

透明

本日は雨天なり。昼休みと帰りはちょうど止んでいたからラッキーだった。帰りの不運は、カラスに威嚇されたこと。歩き道に不機嫌に鳴いているカラスが何羽か見えたけど、まぁいいかと思ってそのまま進んだら、明らかに僕を見ながら攻撃的に鳴いていたし、通り過ぎても、もう少しで頭を突かれる距離まで飛んできた。個人的にカラスには畏怖があるし嫌いではなかったから、少々ショック。猫にも近づく前にいつも逃げられるか呆れ顔をされる。悲しや。

 

雨が降ると紫陽花が元気そうでなにより。ガクアジサイは真ん中に丸く細かい花弁があって、その周りを4、5枚の花びらの花が囲んでいるもの。どちからといえば、細かい花が一色で球状というか半球状に固まっている種類の方が有名かもしれないけど、どちらも好き。

 

 

さておき。

 

1週間お疲れ様でした。スーツをクリーニングに出してきた。昨日決めたことに倣うのと、週末のひと休みを考え合わせると、お風呂とご飯の前にまず筋トレ的日記を書いてしまうことになった。ひとまず目途としては30分で2000文字くらいを目指そうかなと。不器用だからとりあえず出口を拡げて、そのあとに中身ということになる。一息で書ける量を増やしたい。これが対人とか、外に出せる思考に繋がるだろうという狙い。

 

BGMは、雨の歌メドレー。誰のカバーか分からないけど、「日の当たるー坂道をー自転車でかけのぼるー」って聞こえてきた。オリジナルの人好きだけど名前忘れた。眼鏡の人だったような。で、ご飯食べながらゆっくりしようと思っている。ほんとは映画でも見たかったけど、思い付きだったからツタヤカード持ってきてなかったし(どこにあるかも分からない

)、近場にTUTAYAもない。何か考えよう。もしかしたら二部を書くかもしれないけど、その場合は筋トレじゃない。

 

昨日、今晩はポテサラを作ると言っていたけど、おそらくそうはならない。きゅうりと紫玉ねぎはそのままサラダになる。こうしてジャガイモの在庫が減らないことになる。あとは鯖缶買ってきたから豆腐ときのことブロッコリーの芯と炒め煮でもして、昨日の残りの豚肉小松菜えのきの炒め物と、ピーマンニンジンえのきのレンチンきんぴら。なかなかヘルシー。

 

出口規制が緩和されてきたからか、同期とか先生に積極的に発話していた。来週から着台するみたいだから、隙あれば先生とはもっと話そうと思う。応対に関してはあまり心配していない。この職場の方針が数をこなして成長していけば良いってものだし、応対相手とは契約相手で多少サポートセンターが粗相したところで契約が切れるような関係性ではないから。存分に疎通訓練に使わせてもらおう。

 

同期に関しては、情報量が増えてきているから印象も更新されている。人を知るためには第一印象で固定しないっていうのが良いのかも。意識しているわけではないけど。で、同期は愛想が良くて人付き合い苦にならなさそうで、電話応対とかもそつなくできそうで良いなって思っていたけど、そうじゃなくて、飲食店の職業スキルなだけであって、人に興味もないし、むしろ人があまり好きではなさそうっていう印象が今。会話していても、何か相手に話題を振るっていうのがない。もちろん「僕が」興味を持たれていないっていう可能性も大いにあるけれど、人付き合いが苦にならない人であれば自然にそうやって情報収集できるのではっていうこと。

 

直観として何か通じるところがありそうだって感じた要因の方が強いけど。むしろ僕の方が人好きみたいな感じになっている。高知県民だと知ったから「のれそれ」知っているだろうなっていうところに興味があって、そういう方向で会話していた。あと30秒あればそこまで至っていたけど、休憩時間切れで日本酒が好きだっていう情報までしかいけなかった。

 

僕はグループでの関係は全然好きではないけど、個人対個人の関係であれば人間好きだと思う。あまりに手綱を緩めすぎると興味だけで色々深みまで聞いてしまいそうになるから、そこまで開いてはない、つもり。

 

そろそろお仕舞。

 

時事というか、時代の流れについて思うところ。

何処まで一般的なのか分からないけど。

 

女性のヒール強制について大臣がコメントしたのってニュースになっているのかな。これって確かに良いことだとは思う。余計なことに気を遣わず仕事に集中できて生産性が増すかもしれないし、楽に働けるっていう面もある。これって差別を解消していく動きの一種。属性で法的扱いが区別されていたことの解消が一番強い。例えば、ハンセン病だったり、非嫡出子の相続分が一番強い。

 

で、ヒールは女性差別かというと、性的役割についての扱いも差別で解消するべきだっていうのが主流だと思う。ただ、個人的には微妙なところだと感じている。それを全体的に無くしても大丈夫なのかって。というのは、何かの役割に対するラベルって、馴染めない人にはもちろん不都合だったり生きづらかったりコストがかかったりとデメリット部分もある訳だけど、当然、反面に他の役割では許されないメリットも割り当てられている。

 

ヒールは女性が不文律で強制されているデメリットだとすれば、女性だから男性だったら許されないことも許されることが全くないとは言えないはずで。享受できているメリットって、当たり前だから、デメリットの方がよく目に入るのも当たり前。役割のラベル区分を排すれば必然的にこういったメリットもなくなる訳で、そこまで見えているのだろうか。

 

役割をなくした個人個人で見ようっていう標語には、自分がそういうふうに見られることも含まれるけど、属性をなくした個人として自我が保てる人ってそうとうの変人か強い人だと思う。ショートカットして他人を括ることもできないし、括られることもできないってなったとき、どこを拠り所にするのだろう。集団で括った属性の不都合な部分ばかりしか見てない人がそれをできるとは思えない。

 

個人主義って、個人個人がかなり強力な精神性を確立していないと成立しないと思われる。

 

 

やっぱり、倍くらいかかるな。

お風呂入ってこよう。

 

おしまい。