硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

白から無

もっとどうでもよいことを考えたいけれど、無駄なものを見てしまっている。感性じゃなくて惰性が見るもの考えるものを決めているような。惰性はしんどくても楽だ。

 

さておき。

 

午前2時8分に隣人が洗濯をし始めて、思わずマジかよ。と呟いた。普段の喋りでこんな言葉使わないのだけど。でも、ちゃんと寝入っていたら目が覚めることもなかったかもしれず、自業自得。こういう煩わしさは外に発散するより内に留めた方が楽。イヤホンを耳栓代わりにして寝た。帰宅したら賑やかでお母さんと思われる人の声が聞こえてきたから、おそらくおかんが来るのを思い出して急いで洗濯したとか想像。少しほほえましくなる。いや、ならないか。本当に自衛しなきゃならない状況になったら闘うか逃げるだろうけど、そろそろ闘ってみてもいいかもしれない。

 

なんとなく小松菜が食べたくなって、帰りのスーパーで買った。小松菜って食べたくなる野菜でもないような気がするし、どこからも共時性はなかったから純粋な欲望。必需品の醤油は覚えていたけど、納豆は忘れていた。実家からの荷物の中には、おばあちゃんが作ったきゅうりと玉ねぎと紫玉ねぎとジャガイモとお米。ジャガイモは前の分も残っているし、なかなか減らない。明日きゅうりと紫玉ねぎと一緒にポテサラでも作るか。それでも全然減らない。アジカンソラニンは好きだけど、ソラニンに当たったことはない。

 

日本の識字率はかなり高いということだけど、まともな文章に触れていないと思想まで汚染される。まともな文章とは、読んで気持ち良くなるだけで済まないもの。気持ち悪くなるだけと言い換えても良い。感情が配合されている言葉は配合物が自分に重なっていると時を忘れるけれど胃もたれする。こういう胃腸も弱い。坂口さんとか村上さんとか読みたくなる。読みかえし枠作るか。

 

表現することは慰撫にはならず、精神が細分化されるだけっていうフレーズは村上さんの小説だったけど、確かにそうだと思う。表現することは思考とも違うし、精神のコピーにもならない。良くわからない生成物。化合物。表現には当然発話とかも含まれているけれど、これも良くわからん、と今日の自己観察で感じた。先生と話すとき自分は興味津々で自然に話している(タイマンで雑談する機会はない)けど、同期に話しかけている自分はなんだか接客みたいだ。どう接客かというと、聞きたいことはそこそこになんとなく感情を先取りして共感しているように話している。でも、外から見たらこの話し方の違いってほとんど読み取れないだろうなって。話し方で感じられ方が変わる程度の自分像って、どこまで本質が含まれているのだろう。こういう技術が付けばつくほど装飾にならないか。と、「あえいうえおあお」を練習しながら。

 

でも、他人に自分のことを知ってもらいたいとか認められたいとか受け入れられたいってなると、こういう手法は必須なのかもしれない。まず突破口を作っておくという意味で。もっと素朴なところで、なるべく敵を作らないためというのもあるけれど、これが一般化していればもう少し世界は平和。違う観点から考えるなら、外から見える自分を一種の作品として完成度みたいな指標もあるかもしれない。言動とか装いとか全てでここまで磨いてきましたよという美的視点。

 

でも、自分で認識できている範囲の自分も外から見たものでしかないのかもしれない。自己像にはたぶんにバイアスがあるだろうっていう、合わせ鏡的思考になる。本当の自分は自分ではないときなのでは。ここまでくると意味が分からない。直観としては良いところまで行っている気がしているけど。

 

最後。

 

今日はいつも以上に頭の蛇口を開けて垂れ流してみた。あまり息をつかずに書いてみるっていうやり方。タッチミスとか他のことを全く閉じていないってところで貫徹はできていないけど、これは結構いい手法かもしれない。というかこうやって書く方が通常か。30分何も他のことをせずに書くっていう風にした方が筋トレにもいいかもしれない。指のストレッチとかタイピングで準備運動した後に。村上さんから引用するとシャッフリング。

 

明日から実践しようかね。

 

 

おやすみなさい。