後編
さて後編。
自分自身の評価って、高すぎてもいけないし、低すぎてもいけない。
評価自体が自分以外の指標を前提としているから難しいけど。
同期は能力が伴っていないのに自己評価がやたらと高い例。というか、個人的にはそういう範疇じゃなくて、日本語圏内だけど、違う世界を生きている一種の異星人っていう認識。全然一緒に働きたくない。こういうのはきっと知識水準とは関係ない。
僕はずっと自己評価をめちゃくちゃ低くしていた。これも単なる記憶っていう歴史学だけど。歴史学とか考古学って、フィールドワークで動き回って既存の歴史とは違う真実を探るものだと理解しているのだけど、これって、自分の精神性を掘り返す作業とやや等しい。
哲学も宗教も、個人は抽象化されているから、それに倣って習得すれば自分とは離れたことになるけど、信仰は自分の中にしかない。
っていう話を踏まえて、自分語り。
なんで低くしないといけなかったっていうと、防御しないといけなかったから。それでも闘ったらしいのが先生みたいだけど、僕は誰かに自分を説明することを放棄していた。ここら辺を掘り返すと粘っこくなってくる。
自分よりできる人に嫉妬する感覚。
競争原理がなかったらもっといっぱいできそうだったのに。(過大評価)。
真面目な話、上から目線で話しているときに、自分の誤りを指摘されて、そうなのだって思える人はほとんどいないだろうっていう経験則。この辺り先生は凄いけど、先生の凄さは、内と外を分けているところ。例えばだけど、先生のフケを指摘したらどうなるか分からない。
上から目線で語るって、かなりのハードルが高い。これを回避する方法論は、皆やっている論。ってすると、自分の価値観には矛盾がないって表現できる。あら不思議。
もっと素朴に考えると、その程度で崩されそうになる自分論って、ほんとの自分論じゃないんだろうなって思う。
ほんとの自分ってなんぞやっていうと、良くわからないけど、いろいろ他己評価で揺らぐよりもっと根っこのところ。それで捉えると、自分なんて本当に矮小、これは僕の主観。
ねむねむ。