硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

変化という代謝

なかなか細々と料理している。読み方はこまごまでもほそぼそでも可。

 

今朝はもやしとサラダほうれん草と温玉うどん。うちのレンジでは50秒くらいがちょうど良いみたい。昼は火を使いたくなかったから、豆腐丼。すりごま、しょうゆ、顆粒だし、味噌でタレを作って、サラほう豆苗をのっけて、最後にオリーブオイルとマヨネーズ。夜は、ぜんまいきんぴらともやししめじ椎茸のゆかり和え、納豆に塩コショウとオリーブオイル、豚こま塩コショウ炒めを豆苗にのせたものに市販の柚子胡椒ドレッシング。ぼくの夏休みっていうゲーム実況を見ている影響なのか、品目が増えている。昭和中期から後期の田舎の家庭に都会の小学生がホームステイするみたいな話なのだけど、食卓がやたらと毎日豪華。

 

和食と中華の味付けはだいたいできるようになったけど、イタリアンも入れたいなと思って少し調べた。オリーブオイルは常備しているけど、あとはにんにくとハーブとか胡椒とかみたい。バジルも育ててみたいなぁ。にんにくは栄養的にも凄いけど、国民皆が毎日食べていることを前提としないとなかなか毎日食べるのはキツイ。

 

ともあれ、平成初期の田舎の家庭でも、品目は多かった。

これは別に時間的に余裕があったということではないと思っている。忙しさの定義がきっと違う。今でいう兼業主婦の母親は母親の先代が専業主婦でやっていたようなことをやっていた。家計的には大黒柱くらいだったけど、要は家庭の為に自分の可処分時間をほとんど全て費やしてくれていたということだから、団塊世代というか昭和中期のものさしのスタンダードだったのかもしれない。父親のものさしはなんとなく坂口安吾さんとか夏目さんくらいな感じだったから、そこにズレがあったのかも。

 

最近リバイバルがやたらと多い。漫画だったら中華一番とかるろうに剣心とか、幽遊白書もあるのだっけ、ドラマだったら結婚できない男の続編とか。コンビニの24時間が廃止されそうっていう話もあるし、令和では料理スキルが男女問わず必要になるっていうことになるのかもしれない。手っ取り早く買えるっていうものがなくなれば必要に迫られてやるしかないから、農業も盛り返してくるかも。まぁその分カップラーメンとかの即席ご飯がもっと増えるっていう向きもあるけど、栄養の偏りをなくすことは一応自分の残り時間を増やすっていう意味もある訳で。僕は単に趣味みたいなものだけど。

 

 

ということで、平成最後の日の話。

リアルタイムで天皇陛下の最後のおことばを聞けた。僕はあんまりただただ万歳みたいな感覚はないから、見て最初思ったのは、お疲れ様でしたという言葉。あとは結構あっさりだなと思ったけど、年齢を考えたらあんなによどみなく話すって凄いこと。

 

ただ期間が長いだけで短いものを下に見るっていう精神は好きじゃないけど、ここの歴史の重みに関しては平服せざるを得ない。思想的な意味ではなくて生きる芸術みたいな感覚。

 

 

人間宣言があって象徴になったけど、天皇とか皇族には普通の人権がない上に、日本の顔として生きなきゃならない。生まれの身分で人生が決まらないようにするっていうのが近代憲法のコンセプトなのに逆行してまで何かを残そうとしている。天皇制なんて無くしてしまえっていう考え方があるのも分かる。予算が流れているかは知らないけど、国庫レベルで枠にするなら、それを分配しろなのか、天皇制自体が気に食わないのかは知らないけど。それをどう捉えるかも個人レベルで構わないっていうのが今の日本だし。

 

ちょっと面白いなと思った考え方は、天皇家が時代を先取りしているっていう説。

なんの実権も持ってないのにこれだけ影響力があるっていうのはそれだけで価値がありそうな。平成生まれの人の中にも尊敬している人はいっぱい居るだろうし(分からないけど)、これでものさしを学んだとしてもデメリットはないと思う。対価がないところで気持ちを相手に与えられるところ。

 

と、持ち上げているけど、道徳的ないし思想的な意味で天皇陛下に対して何か信仰心がある訳ではない。ただ凄いと思うだけ。残っているということは残そうとした人の意志がある訳で、それを背負っていることに対しての敬意。と、纏う空気のよどみのなさ。

 

 

 

そうして年号が変わりました。

色々変わるだろうなぁ。

 

これで3つの元号を生きたことになるのだけど、正味昭和に対して実感は全くない。記録としては3歳か4歳くらいでどこかから落ちて骨折したらしいけど、それがギリギリ昭和と平成の間。だから自意識は平成が最初なのだろうけど、ものさしの収集は昭和だったのだろうなと思う。ちょうど時代の変わり目だけど、大人は皆昭和生まれだし。田舎だからゆったりとしていたっていうのはきっとあるけど、余計に昭和だった。

昭和以前の世代のものさしって高度経済成長もあいまってやっただけ返ってくるみたいなことだったのかな。高学歴が大事って。ただ、今年の東大の祝辞が何かにぎわっていて全文ちらっと読んだけど、社会に出たらもっと差別があるっていう発言は良いとして、学べるのは環境のおかげだって自覚しろみたいな発言はどうなのだろう。恵まれているって思うなら良いけど、日本の最高学府に卑屈を芽生えさせる可能性もなきしも。卑屈精神って相対的に劣っている人を見下すことになるような気もしないでもない。自分の力でやったっていう自負を壊すっていう意味もあるのか。なんにせよ完璧にまるっきり受け入れるような話ではない。

 

そうして、平成の価値観ってなんだろうっていうと、自由になったって言われているけどめちゃくちゃ閉塞感があるからちゃらんぽらんで良いやっていう感じな気が。平成初期と中期後期は全然違うだろうけど、これって何が違うかって考えると、教育の違い。義務教育は平成だけど初期だったから、まだゆとりといわれているより前。ただ、ゆとり世代が何か劣っているとするとしても、それは当人の責任ではない訳で。あと昭和世代が凄いかっていうと別にそうでもないし、なんというか、何かレッテル貼って自分を保っているとしか。

 

学ぶ人は勝手に学ぶし、それは高等教育機関がどうのでもない。

大学の科目で面白かったものがあったとしても、卒業した後にそれをやり続けるかっていうのは当人の資質の話で、対価とか強制されてやっていたことを自由になってまで続けるなんて普通はやらない。

 

でも、令和の時代はそういう主体性が重視されるのかなと想像したり。

固定観念がどんどんぶっ壊れる時代になると良い。昭和と平成の変わり目もきっとそうだったろうから、そうなるはず。

 

 

最後。

 

こうやって変わり目の話を書いているけど、ほんとうに素朴な自分は世の中の変化なんて全然どうでも良かったりする。それより自分の変化の方が大事、じゃないな、世界の変化として重要、くらいな意味。なんなら主観的に見れば自分の変化に合わせて元号が変わったくらいの曲解みたいな感覚もあるくらい。

 

要は他人を害さないところではかなり強気の価値観があるということ。

関係になるとどんどん自尊心を殺していくけど、もともと関係ってそんなものではという気もしないでもない。関係によって自分が開拓されるっていう面も等価だけど、関係で開拓されるのは、、。はて。

 

 

何を大事するのかって、本当に固有な意味で表現できる人は居るのだろうか。

 

 

ってな感じで、平成最後の日は、令和のための準備をして過ごしました。

 

 

おしまい。