一寸先
仮詰めを取ってしまった歯はロキソニン飲まなくても生活できる程度には痛くなくなった。歯茎にかかっていた圧力がなくなったからだろうけど、炎症がそっちに至っているということはなかなかトータルで長引きそう。ぱっと見腫れてはいない。調べたところによると、根の先のところに膿ができてそう。しかし、労力の割に儲けがないっていうのも分からんでもない。奥歯の神経の先をほじくるのって見えにくいし、職人芸みたいなところがあるだろう。さらに完璧にやっても効果があるかどうかが定かではなさそうだし。まぁどんな医療でもそういう面はあるか。
さておき。
インプットして文章読んでお風呂に入ってスッキリ。
もう少し日中よりに生活軸を移行したいところだけど。
学問の話というかなんというか、いろいろと思うところ。
死について! は、女優さんの話が終わった。芸術が神だっていう捉え方は分かる。要は人智を超えた存在、というか現象。精神を承継することが人の価値だっていうのも1つの筋で。女優さんと言えば、恋人さんから借りて読んでいる樹木希林さんの全てはなりゆきっていう新書も面白い。断捨離の先駆けみたいな人だなという印象。これを読んで救われる人が居るのかはわからないけど、だいたいの人は精神世界と現実世界に隔たりがあるから、これを読んで何か倣おうみたいなことにはならないはず。面白いで終わる。まぁ趣味としての読書ならそれでも。
あと、音楽家だっけかの節で、自分は管だっていう話があった。管説はなんとなく実感として分かる。何かが通っていくことによって自分が変わるっていう感覚。管と言えばパイロットフィッシュっていう小説でも出てきたような。風俗で働いている自分は管で、摩擦で相手を温めるのだって。もう少し進めていくと、空洞は音響効果があるから波としての観念もあるのかも。
音の波、色の波、文体の波。世界は波でできている、としても良い。
音波、色の波長はあるけど、言葉の響きの波っていうのはきっと言語化されていない。美学の分野の中にはありそうだけど。記号とも意味とも違うところで。
数学の関数が函数の当て字だっていうのはなかなか興味深い。
函は箱で、箱の中には何を入れてもいいっていう法則。函が当用漢字じゃなくなったから関で当てたとか。これでも意味が通じるのが日本語の妙味というか。そういえば、虚数もemptyじゃなくてimaginaryらしいから、本来の意味からはズレているなと。まぁ本来なんていうのも、日本語圏の範疇からの話。だから、本当の日本語圏を知るためには、外国の学者が外国語学としてやった日本語を見る必要があるのかも。
ところで、樹木希林の本を読みながら思ったのだけど、本を読む妙味は感想を誰かに再現することではなくて、読んでる今のその人がどう感じているかっていうところなのだろうなって。だから僕は人の経験値としての読書遍歴を気にしない。感想って結局は本の世界から持ち帰ってきた日常生活の共通言語で引き直された言葉でしかなくて。
文学的な考察を別の次元で話せるほどの人格が分離している人は楽しいけど。
そうして。
何かを本当に習得しようと思ったら、きっと自分の過去との対峙になる。対峙っていうと対立的な感じだけど、そうじゃなくて、自分の汚点とか美点を良く思い出すっていうこと。拙かった自分とか、できるようになった自分とか。別に習得しなくても良いっていうことなら、過去の自分を封印してしまうという手もある。できなかった自分と誰かを重ねて誰かを攻撃するとか。
本当に習得するっていうっていうのも語感として修業みたいなところはあるけど、人生自体でもこれはありそうだと思う。分かるところにいないから共感はできないけど。
小学校からの同級生で凄く賢い人が居た。といっても、所詮田舎だから偏差値としても上位の中で下位だろうし、高校で一位になった訳ではないから客観的には大したことはないのだろうけど、主観的にはかなり影響を受けている。
十代で人生の半分終わるって言っていた。18歳くらいの時に。なかなか先見性があるというか、達観していた。この発言にもいろいろ分析の仕方があって、農家で家を継ぐからここまでだっていう銀の匙っていう意味か、自分の器がそこまでかっていうのと。何かを突き詰めていくのはまともな道徳感だと厳しい。
この前正月に帰省した時に見かけたけど、声かけようと思わなかったのはそういうところ。
近況報告なんて詰まらん。
なんで、友人に対して静岡くんだりまで行けるかっていうと、そこに更新可能性があるから。
固定的に自分を捉えている人には会いたくない。
そうして、習得論。
僕は家族からは結構期待されていたのだけど、客観的世界においてはただの遊び人みたいに捉えられていた。宿題は全然やらないし。院入ってから中学の同窓会があって、国語の先生が硯君ってそんなに賢かったのだってびっくりしていたし。教育者からは基本的に見放されている。
でも、人生ここからだと思う。
視角が全然違う。例えばで民法の話を書こうと思っていたけど、なかなかつまらないので。
視角の違いっていうのは、自分の死角だったことが意識化されること。
人が持っている波長も10代の自分には意識化できなかっただろうけど、もともと感じていたという意味では半分説は正しい。ってことは、自分の存在がどういう波長をもたらすかっていうところもきっと意識的に計算できるようになる。
自分が変わることは既知だから、今度は他人を変えるっていうことになるのか。
最後。
学問の本来って、そこにある知識を再現する過去じゃなくて、その領域で新しい問題が出てきたときに正しく判断できるっていう未来にある。語学だってそうなはず。
ということは、個人を学問としてみたら、経験則で動いている段階ではあんまり人っぽくないだろうな。
おしまい。