硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

あんまり決めない

 

どうしようもない痛さは足の痺れが切れたときと似ている。他のことが考えられなくなる。というところからすると、鎮痛剤は凄い。違和感がなくなるわけではないけど、他の活動ができるくらいになる。鎮痛剤は胃で生成される痛みの酵素をブロックするものらしく、胃で作用すると直接胃が荒れるみたい。それが従来のもので、ロキソニンが画期的だったのは、作用は同じだけど、腸で吸収された後に作用するから、胃腸へのダメージが軽減されるということらしい。バファリンもそうなのかな。ただ、鎮痛作用自体が胃を抑制するものだから、全く副作用がないことはないのは当たり前。

 

胃を抑制するのになんで食後に採らなきゃならないのだろうって、製薬業界の営業をやっている友人に聞いたのだけど、食べた後に飲まないと、ご飯が消化されなくなるとのこと。なんとなく、これって、ちゃんと規則的にご飯を食べる習慣がある抽象的な人を対象としているのだろうなと。規則的に食べるのであれば食べたあとに飲んでおかないと次のタイムテーブルが詰まっているから消化不良になる。

 

副作用が問題になっているっていう情報も見たけど、副作用がない薬なんてないし、薬は人の諸々の循環を崩してピンポイントに作用させるものだから、的がズレているような。予防接種での副作用も然り。副作用が不可避だということと、その副作用に対してどういう補償をすべきかっていうは別問題。

 

そんで、じゃあ空腹で飲んだとしてもしばらく食べなかったら大丈夫なのかって聞いたら、理論的にはそうかもなって。実践する人も居なかろうってことだろう。

 

 

 

さておき。

夜は長い。なぜなら、歯が痛くて眠れないから。

 

 

大掃除して我が家にある本達を満遍なく触ったから検索性が凄い。トータルどれだろうって換算すると、専門書踏めて1000冊ちょいくらいかなって思う。タイトルを忘れることが多いのだけど、全部読んでいない本はそんなにない。棚がないから全部背表紙が礼儀正しくこっちに向いていることはないのだけど、なんとなく分かる。このインデックスは自分の歴史の話であって、誰かと共有できるようなものでもない。

 

恋愛小説が多いっていうっていう評価も受けた。確かに恋愛小説を読んでいた時期もある。この辺りは大学時代が主かな。江國さんの東京タワーとか、コーヒーの淹れ方シリーズは高校時代か。世界の中心で愛を叫ぶとか、今会いにいきますの原作も読んでいたなぁ。野ブタをプロデュースは恋愛小説ではないか。恋愛小説を貪っていたのは、なんとなくそういう

ことができるかなと思っていた節もある。恋愛が人間的に深いかというと微妙なところで、動物的な欲求と不可分なところがあるからなぁ。

 

友人がもう一回出てくるけど、この人は女性が書いた小説は読めないって言っていた。これも相対的なものだろうなとは思うけど、女性が書いた恋愛小説と男性が書いたのでは生々しさが違うらしい。性描写の表現の違いなら、性描写がなくても性的なことを匂わす、のはやっぱり男性作家の方が多いのか。夏目さんの行人って全くそういうのないけど、なんだか匂う。性的というと微妙だけど、どうしようもなく相性が合っているというか。世が世なら、兄嫁と主人公がくっついても良かったろうな。こころで言ったら、もしかしたら主人公とKがくっついても良かったかもしれない。

 

大学時代からはほんといろいろ読んだなって主観的な評価があるけど、今から思うと範囲が狭すぎるだろうなって。たまたま同じような本を読んできた範疇の人と接しただけだったろうって。本は読まなくても生きていけるけど、僕は少なくともいくつかは本を読んだ人と接したい

 

これは別に本じゃなくても、絵画とか音楽でも構わない。要は、人間関係とは別に自分を揺るがす何かに接している人。自分っていう基準が揺らがないなら、何に接してもあまり変わらないような。友人が楽しいなぁって思うのは、基準が緩いでないのになんとなく影響してくれているのだろうなと感じるところ。

 

こんなの、自分の基準がちゃんと決まっていれば、自分を主観として外界を捉えることができるのだろうけど、僕はそういうことではなさそう。

 

そうしてなんだっけ。

 

基準の話。

人が決めていない基準なんてないっていうところが出発点。法律の勉強をしているときも然り、現象学の話も含まれているのだろけど。

 

世界は客観的だっていう説も分からなくはない。自分の認識がどうあろうが保険もあるし一日は24時間だし。でも、この認識論って、おそらくバークリさんの時代くらいの感覚だと思う。この時代がいつかは定かではないけど、要は、天動説の時代とも変わらないし、今の正しそうな情報信仰とも近そう。

 

正しそうな何かっていう基準と、当人が決めた基準は重なるところもあるだろうけど、ちゃんと決めたっぽいっ基準の方がきっと相手に響く。

 

 

基準がなんのためにあるかって言ったら、もちろん仕分けのため。年代とか偏差値とか体重とか、肌の色とか、分けようとしたら無限に近いくらいあるだろう。究極の基準は自分を基準としてその他の世界と分けることか。そんなことできないだろうけど、できる人も居る。

 

 

そうして、基準としての観念の話。

ちょっと買い出しに行ってこよう。ワイン。

 

買いにいきつつ立ち読みしつつ、好きな人が読んでいる日記なんかを読んでいた。確かに心理的距離が近くならない女性は安全だけど、これは書き手としても等価な気がする。等価じゃなかったら表現しないだろうし。だからといって危険性としては自覚的な方が低そう。いや、しかし。たまたま見た日記だけど、この最後のフレーズで好感持てた。

 

 

ともあれ、基準を突き詰めていくと、言葉っていうのも一種の基準だろうなって。

 

 

言葉で括るっていうのは、その言葉で括られないことを度外視することと等しい、っていうのは言い過ぎだけど、一種の基準であることは確か。

 

喜怒哀楽の現象が典型的なもので(商業的書き物で典型的って書いたら言い回しとして不適切って言われた、なぜ。)、言葉で表現できるものと、減少には齟齬があるでしょう。ないって言われたそれまで。

 

 

そうそう、現象学じゃななくて、素朴な現象論。

 

喜怒哀楽って、一応表現する言葉あるけど、この言葉って、別にその言葉でなくても良い。言葉で括ることなんてどうでも良い。でも、ちゃんと喜怒哀楽があると自覚している人に聞きたいのだけど、ちゃんとした喜怒哀楽って言葉で表現して良いのですか?

 

感情は色合いでしかないっていう説なのだけど、単色でしか塗れない人は、だいぶ人間として遅れているような。違うか、単色でしか観察されない世界自体がおかしい説。

 

これって、色んな世界と等しい。

自分の存在意義を外界からの客観値とするのか主観値とするか。

難問過ぎる。

 

 

 

でも、言葉遣いっていう範疇で考えると、人は自分の言葉遣いの範疇でしか相手を観測できない。言葉って客観的って、んなわけない。ay

 

 

言葉は、あくまで相手に意味を伝える手段でしかない。

のが、原則。現実的オでいうとどれだけ客観時間を接しても主観的な時間は充足しない。

 

 

自分が接した相手が充足したかって、素朴に考えるとかなり大変だと思う。

この意味が分かる人も分からない人もいい。めっちゃアルコール飲んで歯痛から離れられたはずだったのだけど、やたらと痛くなってきた。アルコールとロキソプロフェンは近い。

 

 

痛い痛い。

 

 

本当できない

 

おしまい。