硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

なにかしらんけど

なかなか嫌な夢を見た。おじいちゃんとかおばあちゃんとか親戚一同の場で、お前は馴染めていないって有形無形で責められるっていうやつ。こういう夢は定期的に見るのだけど、おそらく昨日妹から連絡があって、父方系列の従妹の結婚式の電報を連名で云々かんぬんっていうのがあって、そのこと聞いてなかったわって言ったら、なぜか妹が母をディスってきたからスルーした。ほんとに我が一族、仲が良くない。

 

親族がどうなっているかっていう情報を知っていさえすれば親密ななのか。そんなの要らない。

 

親族は自然的な繋がりって思うだろうけど、その共同体は法人に近いものなのだから、良い大人が感情的に言動するなよって思う。会社みたいな純粋な法人と違うのは、扶けあうことが当たり前っていうに決められた人の塊という部分だけど。

 

こういう視点で見ると、昔おじいちゃんが自分にだけは優しかったことも、何かしらの跡目観念みたいなのがあったのかもしれない、なんて思い出すと、親族関係に純粋な好意も善意もないほとんどないだろうっていうことになる。親でもなくても子供でもなくてもそれをするのか。

 

こういうことを考えるのは、多分ある意味そうやって繋がれることを羨ましく思っているんだろうなと思う。別に僕はなんの害もなく過ごしたけど、家族の一般的な観念って虐待とかネグレクトされきた子供には地獄のようなものだし、自分の家族観の中で一生過ごせるといのは幸せだろうし。



やれやれ。

今日のアカウントはなかなか深いところのような気がする。

 

アカウントが色々あるっていうことに対して、自由だから色々考えるのだって言われたけど、それは当たり前の話。人が物事をどう捉えるかっていうのは一定していないから、一定した環境に居れば、それが自分の表のアカウントになる。



ともあれ、現実的なアカウントは放っておくと8時まで寝れなくなる。一瞬これってうつ病の入口だろうなって思うくらい無気力になった。ここで思ったのはうつ病って他から来るものさしの強制力からくることもあるんだろうなって。



ところで、友人は製薬業界の営業をやっているのだけど、この前会ったときの薬品の専門

的な話は面白かった。どんな薬でも副作用があるっていうのが本質。痛みっていうのは体から発される危険信号であって、それを和らげる作用を求めるなら、他に対価があってもしょうがない。簡単なところだと鎮痛剤を飲むと胃が荒れる、みたいな。そうやって副作用があっても、どうしても主作用が必要な人が居るっていうのも分かる。まぁ人の生態系をいじくっているのには変わりないし。



薬の主作用副作用のことわりは、物理法則の作用反作用と一緒だし、これは精神的な法則でも等しいと思う。



幸せの副作用でもいいし、好きだからってかけたコストが返ってきて欲しいっていう反作用でもいい。僕はあんまりこういう世界では生きられないなっていう感じがしてきている。



別に幸せになりたい訳でもないし、本当に一人だったらもっとしっちゃかめっちゃかやってるだろうし、生活の定義って、きっと過去とか色んなものを放っておけなくなることだろうなって。



放っておけないの中身も面白くて、ここには当然不文律も含まれる。自我が生まれる前にどういう風に育ててこられてかっていうのも入っているし、自我が芽生えた後も、親から搭載されたものさしは反発しようがしまいが、当人の芯に残る。こういうところから考えると、人は自分から逃れらないってことになる。けど、本当にそうだろうか。

 

人の価値観は本筋では連鎖する訳で、親のことを嫌いだから切ったっていう層が僕の周りではやたらと多い。ってことは、自分が切られても良いんだなっていう覚悟がある親は友人しかいない。

 

じゃあ、そういう考え方がなくなった次世代の家族はどうなるんだろう。

現代でも家族に対しては縁だって思ってなくて、合わない家族に対しては家族だからって接している訳だけど、おそらく家族制度も20年後には純粋な契約制度になっている可能性はある。死ぬ前に財産移動させなきゃ全部国庫になりますよって。

 

そもそも相続制度って血族を人の集団と国が認めていたからであって、個人主義がつきつめられ将来は分からん。



20年後に生きているかどうかは知らないけど。




そうそう、生きていることの副作用の話。



僕が関わりたいなって思う人って、基本的に自分のことしか考えていない。これは村社会の閉塞感が根っこにあるのだろうけど。そりゃあ皆自分のことしか考えていないのは1+1が2みたいなものだけど、僕が思うところは、有形無形で対価を考えない人。

 

これを最初に教えてくれた人が元恋人さんだったから、一生忘れない。特に何かをしてくれたってことじゃなくて、人間関係って対価関係じゃなくても良いんだってこと。こんな理想郷みたいな関係は周りから潰されて結局ぼろぼろのどろどろで、別れた3年後に再開したら、普通の対価関係にシフトされてて、どうしようもなかった。

 

僕は本当に貧乏者だけど、これがお金があったら解決したと思えない。この元恋人さんは絶対幸せになっていて欲しいなぁ。対価関係ではないっていうのも難しいところだけど、心配の定義も良かった。関東圏から弱っているのを察してやってきたときはほんとにびっくり。連絡が途切れたときも、あと3日返ってこなかったら行ってたわって。

少なくともここは言葉遊びの恋愛関係ではなかった。

年代が今よりちょっと若かったっていうのもあったけど。人が人を想うことの原型がここにあるから、普通の好きって他人事の好きなのだろうなって思う。もちろん健全で優良な考え方だからそれでいい。





他人事っていうと冷たいけど、まっとうな人格がある人はそれでいい。相手が幸せであって欲しいっていうのもエゴだし、相手のために自分が幸せであることもエゴだし。



僕が心配が嫌なのは、母親から心配しているんだから定期的に連絡しろって言われていることが原型だから、普通の心配はもっと優しかったら良いかなとは思うけど、心配っていう言葉にはいちいち引っかかる。

 

心は配っても肉は配ってくれないだろうって。

そんなエゴだったら、連絡くれて嬉しいじゃないのか、とか。そもそも僕の中では心配って相手に表現する言葉ではないもの。心を配るのは勝手だから、返ってくるかどうかは別の話。



友人の悩みは二人に話してみたのだけど、どっちも否定的印象だった。僕も結論としては当事者も他人事的な恋愛しかやってないなって。浮気された時の傷も顕在化しなかjanakute恋愛関係は一般論にできないし。でも、それなりに本気だったのだろうなって思ったのは、その時の恋人さんが好きな歌を歌えるようになっていたこと。ちゃんと友人の中には相手が残っている。タイトルの言葉だけじゃなくてあいつはこの歌が好きだったとかじゃなくて、ちゃんと現実として残しているところ。その人のために覚えようとするっていうのは合理主義の友人としては不合理だし。






まとめ。





人間関係の副作用って、相手のものさしを放っておけなくなることだと思う。

主作用が幸せかっていうとトータルではそんなこともない。なんだか固有の考えたっぽく皆振る舞うけど、結局は誰かのものさしを流用している。これでもなんだか誰かと括りたい人とか、落ち込んでいるって表するアカウントがあるけど、そういういうが鬱に向かう外側の考え方。



まぁ、本当に相手を見るって、めちゃくちゃコストがかかることで、そのコストを度外視するために恋愛感情があるっていうのはしっくりする。




一応言うけど、この考え方が自分の中の総意とは言わない。



こうやってものさしが引っ張られていることが幸せなのか、縛りなのかは今は分からん




最後の最後。

 

人間関係において、相手から影響を受けないなら共同生活する必要はなかろうなって。タイムリープできたら改変できるだろうけど、今のところそんな科学はないし。




この話を読んだ人がどう捉えるかは気になるところ。



おしまい。