硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

脱皮(前

 

自分の組成が目まぐるしく組み変わっている。

外から見たら大した違いはないのだけど、精神世界にとっては認識が現実だから。

 

物理世界での現実でいったら、土曜に洗濯した。もしかしたら、明日には一週間分のYシャツをアイロンかけるかもしれない、っていうくらいの期待がある。なんのこっちゃだけど、これをやらなければならないっていう間の精神エネルギー消費なくできるっていうのはなかなか。

 

別に達成感もご褒美もないけど。

こういう自分の使い方をすると、全てがべきとかしなければならないっていう矯正になって、こじんまりしてしまう。このやり方で合う人はそうすれば良いけど、僕は違ったというだけ。

 

 

さておき。

 

昨日は美味しい鶏料理を食べてきた。鶏肉のすき焼き初めて食べたけど、油の濃厚さがまったくない優しい味だった。おそらく軍鶏っていう鶏業界のアスリートだったからっていうのもあるだろうし、素材の良さは再現できない。素材と言えば、アワビ茸の天ぷらも美味しかった。このきのこスーパーで見たことあったっけ。あの塩は岩塩だったのかのかは気になる。岩塩ってあんなに細かくできるのか。ズッキーニはなんとなく微妙だった。というか、この野菜素材の違いが分からない

 

今夜の料理には鶏肉は参戦できなかった。

 

 

昨日食べたご飯は自分の何処を形成しているのだろう。

という思いつきは今日の日記の本質を突いている。肉体と精神は繋がっているのはだいたいの人は納得できると思う。健全な肉体には健全な精神が宿るっていうマッチョな意味ではなく、もっともっと具体的な話。

 

自分が一日に経口摂取した栄養素とかカロリーとかを細かく把握しようとする人はそうそういない。あるのは、何を摂取したか分からないけど食べて、肉体への加重っていう現実という結果。その間に対する考察はない。

 

肉体だったら分かりやすい。

経口摂取するものを減らして動けば理想的な現実になるだけ。

 

分かりやすいっていうことと、現実化が簡単だっていうことは全然違う。

肉体は他人の目にも触れるっていう所だけが分かりやすい。僕はたまたま太らない体質で、高校時代から体重変わってないし、造形的にも可もなく不可もなくだから特にエネルギーを消費する必要がないっていうだけ。

 

 

では、今の精神が何を摂取した結果の現実なのか。

これを分析できる人はほとんど居ない。なんでかっていうと、これは他人の目に触れないから。日常に障害が出るようなら臨床心理学の出番で、色々分析されている訳だけど、この学問の領域は、日常からはみ出た部分が何処なのかっていう所にしかない。

 

だから、日常での不和っていうのは知恵袋で聞いたところで、答えは答えた人の中の話でしかないし、自分で見るしかない。

 

精神世界っていうのはどこにも載っていない僕だけの概念。概念とはなんぞやっていうと、否定されてもなんともないっていう、他律的なものさし。

 

ユングさんのいう集合的無意識とも違う。集合的無意識の観念も面白いなとは思う。

でも、この概念が説明しているものは、個人の生活がやりやすくなるっていうことではなくて、精神世界の根っこは共通しているっていうことだけ。情報が伝わらない状況で同じような話が伝わっているっていうのはスマホ世代の前の人には分かるはず。それを突き詰めていくと神話とか旧約聖書とかになっていくのだけど、人なのだから共通しているわなっていうくらい。

 

つまり、集合的無意識は日常には活用できない。

シンクロニシティもそうだろうけど。

 

そうして、少し現実に戻ってこよう。

 

僕の組成が変わったのは、自己評価を省略するようにしたところにある。分析もするし考察もするけど、評価はしない。

 

評価とはなんぞやっていうと、自分が把握している限りにおける一般的ものさし。ここは現実で接している限りでは把握できないのだけど、時々感じることはある。んで、ここの感性は、割と瞬間的な直感。ここに特化している人も時々居る。

 

例えば1つの事例。

仕事場で、一番ややこしいなって感じる人が居る。何がややこしいかっていうと、拠り所がすごく浅いところ。結構他人を否定する言辞が多い。既婚者で経済的生活も安定しているはずなのに、他人を否定するのはなんでか。

 

結局は、精神世界において自己肯定感が薄いからだと感じる。

自分に肯定があるならば、普通は他人をそうそうに否定しない。もう一つあるのがすごく筋肉を気にしている。これも、自分のコンプレックスを他に流用した結果と見えなくもない。だから肉体派好きじゃない。これって孔雀が羽を広げて威嚇することと変わらない。

 

で、一般的に言われている自信とは成功体験の学習だっていう観念からすればこの人だって自信満々な人に選別されるはず。文系最高峰の資格を持って働いている。既婚者、筋肉隆々。

 

でも、この人は人間関係を構築できないだろうなって思う。対等じゃない関係って、上の人の自己満足だから。無礼講っていう言葉があるけど、この言葉を遣う人って結局は自分が優位であることを前提としている。

 

素朴な観察眼としては、他人に否定的な言葉投げられる人って結局は自分のことが一番気に入らない世界に生きているだろうなって。この人に焦点をあてると、センスがないとか学歴が云々とか諸々投げるのだけど、結局は自分がそれを持っていないことが気に食わないっていうところにあるのだろう。

 

これに対して、うわーそういう人も居るよなって感じたのならば、違う領域でそういうことになっていう可能性が高い。

 

世界はブーメランっていうのはそういうところ。

個人の認識能力はどうあっても自分が今まで培った世界を上限としている。

 

これは、もっと人がその人らしく生きられるみたいな啓蒙的なものとは全然違う。

僕はそんなことは焦点としていない。

 

精神障害には当たらないけどなんだか生きにくいっていう人には響くかもしれないけど、まともな人は僕に影響されてはいけないような気がする。

人生の選択を気分でやってしまう奴だから。

 

 

脳科学の本で見たから、同じ脳を持っている人間にはだいたい共通しているはず。

人は、自分が何か選択して現実的な行動をしたときに自分の精神世界と辻褄を合わせる傾向にある。

 

自分の過去の行動が正解だった、不正解だった。けども今とは繋がっているみたいな。

もっと言うとその選択をした自分をけなしながら今の自分を保つみたいなところもある。

 

ごめんけど、僕には全くそういう観念はない。

もともとそういうふういう風に生きて来たのだけど、他人のものさしに影響されたことで変なことになった。

 

 

そもそもが一般的な感覚とはズレている。

 

このズレの具体例は共感されないのは分かっているからあまり語れない。

 

だいたいは、自分の内面が他人を否定することになるから社会的な制限で我慢した関係にしているっていう観念だと思う。僕の周りにはそんな人居ないけど。

 

そうして、僕は素朴に人に好かれるっていう性質を納得しないといけない。

という逆の意味での生き辛さ。

 

勝手に好かれてしまう。

まがい物でもこういう観念はあるのだけど、ここには、好かれるために相手に合わせることで、対価を得ているっていう所がある。

 

現実的な人間関係とはなんぞやって言ったら、一言で言えば対価関係。

対価っていうのはなんぞやっていうので一番分かりやすいのが、時間とお金。

 

僕はどちらにも価値をあまり置いていない。自分に余裕があれば平気で全部投げる可能性がある。金銭。

 

時間にはもう少しシビアかなとは思う。

だから、関わる時の時間を気にする。もっと言えばこの文章を読んでいる時間とか。

 

一旦おしまう。