硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

どこになにが

昨日はノンアルコールで何もしていなかったのに、日記も書かずに明るくなるまで起きていた。変な食欲で炭水化物をやたらと食べたけど、全然満たされず変な精神状態だった。まぁインスタント麺も白米も何か依存性があるような気がするし、あまり食べてはいけないのだろう。炭水化物がエネルギーになるって何かの陰謀なような。



そうして、起きた時の自分の顔はゾンビみたいだった。隈が紫に見えたりなんだり。それでも、ちゃんとまともに活動しようと経済的書き物をやってた。しかしまぁ時間がかかってしょうがない。承認されるか定かではないけど、分かりやすい文章っていうのは、想像の余地をなるべくなくすることにあるのだろうなって。

 

これはこれで習得しとくべきスキルかなと思う。

ただ、なんだろうな、日本人の読解力を減退させる要因になっている気がしなくもない。1つの産業だし、他の産業と比べてもあまり変わらないけど、読書離れの前に本当の情報はネットでも一握りっていうネットリテラシーは学んだ方が良いかも。

 

とはいえ、そういう記事を読んでいる人は、あまり本を読む習慣がないのは確か。これは別に見下しているとか本を読まないからこうなるんだぁみたいな話ではない。要は、いまどき読解力に時間をかけてもあまり返ってこないということ。それに時間をかけることはコストがかかりすぎるしと情報をほんとうに得たいんだったらお金を使うわけで。




そういう話とはまた別で、自分が何かを読む時に誤字とか誤用をそんなに気にするかっていういうとそんなことは全然ない。違和感を感じるとしたら、この人自分で書いていないんだろうなって直感するとこだけ。自分で書いていないっていうのも良くわからないものさしなのだろうけど、自分の目を信用しているだけ。好きな人の好きな人までは好きにならんけど、これは面白いと思ったのがあった。ただ、気になってフリックしたら文章量が増えるっていうのはビジュアル的には面白いけど、書き手はそれを考えずに書いてほしいところ。

 

いまどきだと漫画アプリとかコメントで読者と作家の距離が近いけど、読者の意見が作家を洗練させるっていう見解も良くわからない。何か凄そうな人に自分の意見が採用されたら嬉しいのは分かる。けど、期待通りにコントロールすることって楽しいんだろうか。

 

この話面白いのかな。



あーあー。



やれやれ、そうして日記の話。

 

日記と記事の違いって情報を本体としているかと、言い回しを自由にできること。なんだかまだ記事文章脳が残っているから句読点とかやたらと気になる。句読点の区切りって、読み手として積んでいる人にとっては、大した問題ではない。没頭できる文章だったら、何処がどう区切られているかも分からないだろうし。これはどういう観察対象でも同じ。

凄いっていう単語は、AB型が良く使うとされているけど、僕が凄いって言うときは尊敬じゃなくて他人事の文脈の方が多い。たぶん、酔っぱらっているとき程こんなおべっかは使わない。

 

文章の句読点のタイミングもこういう感じで、どれだけ稼いでいるかとかどれだけ評価されているか、みたいなところは、個人的に面白いかどうかの基準には勝てない。これは原因と結果のどっちが先かって考えるとスクランブルして面白い。

 

こんなにつらつら書いているけど、素朴な自分はかなり落ち込んでいるし、これはリハビリだって行っても通じる人と通じない人がいる。

 

もはや読んでいる人の面白さを気にしていないから、世界線ないしバタフライエフェクトの話。僕は今関西圏に住んでいて、関東圏に内定が決まったのだけど、なかなかの反対意見があった。僕一人だったらさっさと行ってたし、行けたら良かったかって、何もないなら勝手に行ってたわなって。

 

全然通じないといえば通じないのだけど、これも縁だし、そういう縁を切って良いことないだろうなって。この世は巧妙に縁が切られないように構築されているし。だからといって、純粋に相手のことを考えられる人ってほとんどいない。

 

ここを観察するに、人って他人との縁を自分に都合よく解釈するよなぁって。

縁だから離れても徒然なのか、縁だからこそこの人を守りたいのか。この視点で言ったら共依存傾向の方がまだまとも。

 

面白いことに、現世の人ってキリスト教じゃないけれど色んな魂があるような気がする。どの魂が本当ですかって聞かれて即決でき人って居るのだろうか。社会的に生活するためには、本当の魂なんて追求する必要がないっていうことも分かる。基本的に本当の魂なんて自分で見つけるものじゃない。



そうして、読んでいる人に聞くのだけど、人の本質とは何や。

心遣いとか気遣いの言葉かいな。それとも自分にどれだけお金を使ってくれたっていうこと?、そんなことない、総合っていう説もある。



では、逆に考えると、自分の本質とはなんぞや。先に言うと僕の本質は文章なのだけど、日常の振る舞いで自分と見られてるところはほとんど自分ではない。ような気がする。だから文章で接したことも発したことも本質と思っているのだけど、チャットはまた違う。



ん、だからなんだっけ。



僕は基本的に現実的なところでは甘い。言葉とか行動とか。ここで終わるの嫌なのだけど。そろそろ時間切れで。

 

おしまい。











昨日はノンアルコールで何もしていなかったのに、日記も書かずに明るくなるまで起きていた。変な食欲で炭水化物をやたらと食べたけど、全然満たされず変な精神状態だった。まぁインスタント麺も白米も何か依存性があるような気がするし、あまり食べてはいけないのだろう。炭水化物がエネルギーになるって何かの陰謀なような。



そうして、起きた時の自分の顔はゾンビみたいだった。隈が紫に見えたりなんだり。それでも、ちゃんとまともに活動しようと経済的書き物をやってた。しかしまぁ時間がかかってしょうがない。承認されるか定かではないけど、分かりやすい文章っていうのは、想像の余地をなるべくなくすることにあるのだろうなって。

 

これはこれで習得しとくべきスキルかなと思う。

ただ、なんだろうな、日本人の読解力を減退させる要因になっている気がしなくもない。1つの産業だし、他の産業と比べてもあまり変わらないけど、読書離れの前に本当の情報はネットでも一握りっていうネットリテラシーは学んだ方が良いかも。

 

とはいえ、そういう記事を読んでいる人は、あまり本を読む習慣がないのは確か。これは別に見下しているとか本を読まないからこうなるんだぁみたいな話ではない。要は、いまどき読解力に時間をかけてもあまり返ってこないということ。それに時間をかけることはコストがかかりすぎるしと情報をほんとうに得たいんだったらお金を使うわけで。




そういう話とはまた別で、自分が何かを読む時に誤字とか誤用をそんなに気にするかっていういうとそんなことは全然ない。違和感を感じるとしたら、この人自分で書いていないんだろうなって直感するとこだけ。自分で書いていないっていうのも良くわからないものさしなのだろうけど、自分の目を信用しているだけ。好きな人の好きな人までは好きにならんけど、これは面白いと思ったのがあった。ただ、気になってフリックしたら文章量が増えるっていうのはビジュアル的には面白いけど、書き手はそれを考えずに書いてほしいところ。

 

いまどきだと漫画アプリとかコメントで読者と作家の距離が近いけど、読者の意見が作家を洗練させるっていう見解も良くわからない。何か凄そうな人に自分の意見が採用されたら嬉しいのは分かる。けど、期待通りにコントロールすることって楽しいんだろうか。

 

この話面白いのかな。



あーあー。



やれやれ、そうして日記の話。

 

日記と記事の違いって情報を本体としているかと、言い回しを自由にできること。なんだかまだ記事文章脳が残っているから句読点とかやたらと気になる。句読点の区切りって、読み手として積んでいる人にとっては、大した問題ではない。没頭できる文章だったら、何処がどう区切られているかも分からないだろうし。これはどういう観察対象でも同じ。

凄いっていう単語は、AB型が良く使うとされているけど、僕が凄いって言うときは尊敬じゃなくて他人事の文脈の方が多い。たぶん、酔っぱらっているとき程こんなおべっかは使わない。

 

文章の句読点のタイミングもこういう感じで、どれだけ稼いでいるかとかどれだけ評価されているか、みたいなところは、個人的に面白いかどうかの基準には勝てない。これは原因と結果のどっちが先かって考えるとスクランブルして面白い。

 

こんなにつらつら書いているけど、素朴な自分はかなり落ち込んでいるし、これはリハビリだって行っても通じる人と通じない人がいる。

 

もはや読んでいる人の面白さを気にしていないから、世界線ないしバタフライエフェクトの話。僕は今関西圏に住んでいて、関東圏に内定が決まったのだけど、なかなかの反対意見があった。僕一人だったらさっさと行ってたし、行けたら良かったかって、何もないなら勝手に行ってたわなって。

 

全然通じないといえば通じないのだけど、これも縁だし、そういう縁を切って良いことないだろうなって。この世は巧妙に縁が切られないように構築されているし。だからといって、純粋に相手のことを考えられる人ってほとんどいない。

 

ここを観察するに、人って他人との縁を自分に都合よく解釈するよなぁって。

縁だから離れても徒然なのか、縁だからこそこの人を守りたいのか。この視点で言ったら共依存傾向の方がまだまとも。

 

面白いことに、現世の人ってキリスト教じゃないけれど色んな魂があるような気がする。どの魂が本当ですかって聞かれて即決でき人って居るのだろうか。社会的に生活するためには、本当の魂なんて追求する必要がないっていうことも分かる。基本的に本当の魂なんて自分で見つけるものじゃない。



そうして、読んでいる人に聞くのだけど、人の本質とは何や。

心遣いとか気遣いの言葉かいな。それとも自分にどれだけお金を使ってくれたっていうこと?、そんなことない、総合っていう説もある。



では、逆に考えると、自分の本質とはなんぞや。先に言うと僕の本質は文章なのだけど、日常の振る舞いで自分と見られてるところはほとんど自分ではない。ような気がする。だから文章で接したことも発したことも本質と思っているのだけど、チャットはまた違う。



ん、だからなんだっけ。



僕は基本的に現実的なところでは甘い。言葉とか行動とか。ここで終わるの嫌なのだけど。そろそろ時間切れで。

 

おしまい。