硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

ただの動物

 

なかなか頭が重たい。

風邪はともかくとして、歯を治療しろと身体が言ってくる。徒歩5分くらいのところに熊のような歯科医師さんが居て、昔一回通っていたのだけど、あまりもう一回通う気にはならない。直感は大事。ともあれ、来月から何処かには通わないとなぁ。歯を綺麗にしとけば風邪を引かない説もなんとなく分かるし。

 

頭も当社比で鈍い気がするけど、東洋医学的に考えると、変化するのが人間で、自分の基準より低いところを自分としないこともおかしい。風邪だろうが歯痛だろうがうつだろうが、そのときの自分は自分そのもので良い。僕はもともとこういう考え方を持っていたのだろうなぁと思わなくない。あまり賛同がなかったから潜んでいたけど、最初にネット上に文章を書いていたときのブログタイトルが偏らない。主観としては思想的に偏らないっていう意味だったけど、もともとバランスで考えるところはあった。ただ、この思想だと、日々を生活する時に自分は要らなくなる。中庸だって評されたこともあったけど、中庸の起源もたしか中国だったはず。

 

平衡っていうのは平等とは違う。

 

平等はあくまで何か絶対的な基準があって、何かと何かを比べてフラットにする考え方。公平だど主観が入ってきても良い。平等は正義かっていうのも最近良く考えている。憲法学的には形式的平等と実質的平等とかの話が出てくるけど、おそらく起源は哲学なはず。正義論は哲学の範疇。

 

正義の概念の話も気になるところだけど、あまり収集できていないから語る段階ではない。

とりあえずマイケル・サンデル読んでから。正義っていう言葉もマジックワード

 

平等論はどうあっても平等にならないのは、それを測る人の価値観が入ってくるから。

こういうことが語られるとき、観測者の地位を上げる方向性か、何かのやっかみがだいたい入る。でも、そういう素朴なものさし論も大事だとは思う。法律にはルールが先かものさしが先かっていうのが微妙な領域がいっぱいあるし。

 

正義っていうのは正しいことで、そもそも正しいとはどういう局面の正しさかっていうのがややこしんだろうなって想像している。僕は自分の選択に正しさみたいな迂回的概念を仲介させないから余計に。正しくなんてなくていい。

 

平衡とはなんぞやっていうと、ものさしはあんまり関係ない。

単にフラットを保つだけ。これを壊すところに意志があるんだろうなって最近は思っているけど。

 

こういうのは結局考え方の話でしかない。

けども、考え方っていうのは外界の捉え方と直結していて、最終的にはその人が過ごす現実そのものになる。

 

ところで、個人的に小中高で習った科目の復習キャンペーンをやっている。

まずは英語から。中高の六年分を10日で復習するっていう本を買って、二日目まで読んだ。この本が面白いのは、他言語を学ぶっていうのは外の文化を学ぶっていうのが意識されているところ。言語の扱いってその言語圏でのものさしに直結している。日本語は名詞を大事にするけど、英語は動詞を大事にするとか。

 

素朴に思うところ。

義務教育と高校までで勉強したものをちゃんと残している大人はどれくらい居るのだろうって。おそらくは習ったことなんてほとんど覚えてない、むしろ全然活用していない無駄なものだったっていう評価の方が多いはず。でも、9年ないし12年を無駄にしたって、なんだかもったいなくなかろうか。

 

人生の何分の一だろう。

 

公民とか社会科以外は全部有用だったと思っている。この分野はリアルタイムで変動して情報がどんどん古くなるから。

 

科目の細々した知識を強制的に覚えさせらるトラウマは僕にも在るけど、これをそれぞれの科目からみた世界観の話って考えると、復習にも精が出る。

 

例えば、僕は歴史系の科目全く好きじゃなかったのだけど、これを、人の倫理観なんて流動的なものだって視点で見ると全然変わってくる。歴史ってだいたいは残虐な倫理観しか残っていないけど、それは現時点の倫理観で見ればって話だけで、未来の倫理観から見れば、今の倫理観が非道極まりないって評されるかもしれないっていうこと。

 

中学理科から復習しなきゃなと思っているのは、電気エネルギーとはなんぞやっていう素朴なところから考えたいから。

 

最後。

 

義務教育の時点で世界観は流動的なものでしかないっていうことを学ぶことはできたはずだけど、知識が世界観に繋がらない理由。

 

それを教育として教えていたら国家が成り立たなくなる。突き詰めていけば、教えられている知識自体が意味がないものだって結論付けられる危険性を孕んでいるし。親子間の教育論を想像すると分かる。権威的に押し付けなきゃいけない領域はどうしようもなくある。

要は、教える側も有用性があまり把握されていないってことなのだろうか。

 

世界史の先生の言い振りを思い出すと、十字軍の虐殺とかチンギスハーンの侵攻とかファンタジー的にしか語っていなかった。お気に入りはバージニア

 

 

何か対価がないと動けないっていうのは、なんとも生物として動物的だと思うのだけど、本当に人間って高度なのだろうか。

 

 

おしまい。