信仰対象
なんだか自然成分が足りない。せっかく空いているのだし、梅を見に行って最終面接に備えようかしら。どうせなら、服部緑地とか万博公園とかの見知ったところじゃなくて、他府県の全然知らないところに行ってみたい。京都か兵庫か、ふらりと。
さておき。
考えるということについて考えていた、訳でもないけど、色々考える気分。
だいたい考えないほうが上手く行くけど、考えることで考える範囲は減るかなと。
投資と経営の漫画を読んだ。ドラゴン桜で流行った作者のやつ。結果から逆算するっていうのが共通項。ほんとに結果を出したいのであれば、それしかない。僕がそれをやらなかったのは、結果に対して意味を持っていないから。ということもない。多分考えないようにしていただけ。
高校時代硬式テニス部だったのだけど、家庭訪問の時か何かで、硯君は頭を使って試合しているって評されていて、母親がそれにびっくりしてたの思い出した。僕があまり勝てなかったのは、対戦相手に勝つっていう結果を見ないようにしていたから、ということにしておこう。きっとやり方によってはもっと勝てた。何処に打ってくるだいたい分かったし、何処に打ってくるかが全然分からないっていうのも良く言われていた。
持ち腐れはそろそろやめようかなというだけ。
ともあれ。
意味ってなんだろう。
っていうのを、今日読んでいた社会学命題コレクションが解説していた。おそらくもう一周は全部読んだから2周目。
世界の複雑性については随分前に書いたはず。要は、自分が経験できる現象は世界に
あまねくある物事の中の一部でしかなくて、その一部で自分を構築するのが意味という概念。
考えると、意味っていう観念は、現象を自分が納得できる形に収納することだと思う。
意味が分からないっていうフレーズは、自分の世界にそれを含めないっていう表明。
そう言えば、考えるっていう観念は考えて何かの結果を出すみたいなニュアンスで使われているけど、僕の中では全然違う。結果があることに対しては考えるっていうより工程を組むの方がしっくりくる。結果ありきの理屈って面白くなくない?
考えるは、自分の枠の外に向かうか深みにいくかどっちか。
数学とか法解釈学で言うとプロセスが考えるみたいだけど、近いものがある。周りの誰もが答えてくれない疑問を思うことも良い。
もう一つ言うと、考えることは、現代文明の便利さに逆行する観念。
例えば、ボールペンの構造とか、それにかかるコストとか、介護のその先を考えることもそう。誰だったか、過去の外国の文豪の人生論で、農夫は水車を何の疑問もなく使って農業していたけど、ある時水車の仕組みに疑問を思って、変なことになったっていうエピソードがあったような。
考えることをしなくて良いようにするっていうのは、ソクラテスが処刑されてからずっと国家があくせくしていたところだし、世界を拡げる必要がないことは幸せなこと。
次世代がどうなるかは分からないけど。
おしまい。