剥き出し
昨日どんなこと書いたかなって確認しに行ったら、いつもより遥かにアクセス数が増えていた。タイトルなのかなんなのか。こういうときって、大人数がアクセスしたのではなく、誰か個人が読んでくれたのだと思っている。こっちの方がなんとなく分かる。
さておき。
今日は面接に行ってきた。なかなか遠かったけど良いところだった。田舎の長閑な光景は落ち着く。面接は、どんな感じだろうと思っていたけど、だいたいは繰り返しみたいなものだった。そりゃあそうか、どんな会社だって大事なものは変わらないだろうし。
この前の面接を踏まえて、なかなか強気になっていた。
言葉は拙いけど、言いたいことは言った。吸収力も探究心もあるけど、転職のリスクありますけど、みたいな。
労働契約って対等なものであって、売れ残りだろうがこっちから選ぶ権利もある訳で。
長く勤めてくれるのかって指標は、現代的に見ると、転職のリスクを踏まえて、企業がどれくらい新規を定着させることができるかっていう方向にシフトした方が良いような。
面白き齟齬。
選んで居るようで選ばれているという感覚を学んだ方が良い。
そういう意味ではきっちり言った。というより、言えた、のほうが適切、
次はもっと社会的なところでは言い回せる。という意味での学習。
この話って非現実的なものと読めるかもしれないけど、そんなことはない。
自分の感情とか培った経験で人を測ることがそもそもおかしい。
では、生まれ持ったものについて考えてみる。
ここの起点って、自分の自我が生まれたところで良い。
自分の自我の起点ってだいたいの人は知らないし、僕も知らないけど、この時点で世界の印象が決まるっていうのはあるかもしれない。
僕の話で言うと、そこそこルックス良いように生まれたのに、自分のルックスに対してなんとも思っていないのは、姉がやたらとディスってきたし、呼応したのかどうかで色々いじられたところにある。
仮に姉が存在しなかったら世界はきっと変わっているけど、そんなことには興味がない。
今日の面接でも、社会経験がないことに対してどう思いますか、遅いけどっていうことを聞かれた。そんなのたりないのは分かってるし、積まなきゃならないって言うしかしかない。
人って自分を守るっていうところでしか生きていない。これって、現代では普遍的な感覚で良はず。
世界の社交辞令が通じなくなった世界で同じことを言えるのかどうか。
おしまい。