硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

下限解放

 

胃が大きくなってきたから弁当箱を新調しようかと思っている。

できれば二段でついでに汁物も持っていければ言うことない。ポタージュ系が捗るはず。弁当作り出した頃は母親のありがたみを感じたけど、母親も冷食をローテしていたし、そこまで凄いことでもないのかなと思わなくもない。仕事しながら三人分って考えると大変かなと思わなくもないけど、量を増やすことはあまり時間かからない。食費はかかるけど。もちろん、義務としてやっていたのであれば凄いと思う。別の意味で。

 

ともあれ、早速薬膳を採り入れた。

紫蘇の葉は好きだけど残った分を悪くしてしまう傾向にあったからあまり買っていなかったけど、常備菜にすれば良いやと醤油漬けにしてみた。薬効が高い食材は常備菜にしてストックしておこう。常備菜の概念を習得した。テッテレー。

 

食材を大量に買って切って準備しておくっていう意味では無理だけど。保存はできるのだろうけど、食材って加工した段階でどんどん栄養価落ちている気がするし、なんとなく好かない。まぁ先のことは分からない。

 

さておき。

 

仕事の進捗状況はあまり自覚できていない。無難に過ごしているのか発展しているのかは有事にならないと分からないし、有事が予測できないのが新人ということだから。師匠(と評そう)は相変わらず情報をいっぱい教えてくれる。他の人も情報量はいっぱいなのだけど、個別事項のことが多い。個別事項っていうのは、その状況でしか正解にならないこと。何が違うかというと、教える側の中で根っこが体系的に整理されているのか、それとも不文律なのか。答えは同じように出せるのだろうけど、前者の方が自覚的に考えた時間は長いと思われ。なんにせよ、現時点ではどんな人にも収集事項が無限くらいある。

 

一番の変化は、自分が穏やかになっているなというところ。

発言量はあまり変わらないけど、なんとなく気安く接している。一回指摘したことは違わないっていう評価が定着させよう。あとは、新人はこれをやらなければいけないっていう所から脱している所か。ちゃんと仕事をしているのであれば頼って良い。ここのスキルはもっと上げていかないと。

 

やれやれ。

 

先が永いのは楽しい。

何かをしたいと思う衝動は欲求と呼ばれるみたいだけど、僕の衝動が欲求に分類されるのかっていうのは気になるところ。欲の分類はとりあえず省略。

 

現時点でやっとなのだけど、そもそもを知らないとこの先見聞広がらないなっていう意味で、中学数学の復習をするつもり。多分明日辺り買ってくるだろうなと思っている。高校以降の数学の本は持っているのだけど、全然分からないのは、もっと遡って分かっていない部分があるからだろうなと。グーグル先生に聞いてみたら、大人が中学数学復習するには三年かかるっていう話があった。特定の人のブログだったけど、確かに1日30分として、1年では1000何時間か、ってざっくり三年で3000時間と考えると分からなくもない。

 

けど、この書いていた人はなんとなく自分の領域を自慢している感が見えたから、水増ししている気がしないでもない。

 

こういう風に、自分が時間を費やして習得したものって自負になる。で、自負を目的としたらそれは努力だけど、この対価的関係ってどうも刹那的というか動物的に見える。時間の観念が長くとれるだけで。

 

そうじゃない方向性というか、僕はこういう方向性しか採れないなって思ったベクトル。

 

ところで、世界観が拡がるのは衝撃的な体験だっていう観念がある。

で、後付けで世界観を拡げる行動ができるようになるっていう話。

 

これも真理だけど、もっともっと狭めていく領域にもこういう次元はあるのじゃないかっていう発想。厳密には発想じゃなくてもともとの行動原理だけど。

 

要は、精神世界を拡げることで相手の深みがより読み取れるようになること。

ここに、読み取って利用しようとかっていう観念はなくて、ただ拡がっていくだけ。宇宙かよって感じだけど、それくらいの意味で起源を探りたい衝動で動いている。

 

人間関係なんて量子論そのもので、量子論を創ったのも人間だから当たり前。

観察者が観察相手に影響を与えるって当たり前の経験則なように思っているのだけど、一般的にはどう評価しているのだろう。自分の主観も客観もないまぜで分類されていないだけなのだろうか。

 

人の観念が世界を読み取るっていうのが適用できないのが数学。

数学は本当に不可思議。人の観念の外に在るものかなってとりあえず認識している。だから神様としてのめり込む数学者が居るのだろうって。興味対象。