(後)
この年末年始の連休で、タイプスキルはやたらと向上した。絶望してキーボード触らない期間が二日くらいあったけど、戻ってきたら、もっと早くなっていた。
ヒトが大人になるかどうかっていう1つの基準は、憑りつかれたように1つのことができなくなること。自分が大人だと自覚した人は1つにすら熱中ができなくなる。ギャンブル系とかアプリとかは、何かの為っていう駆動力がある。この駆動力は基本的に邪だから、大人と言って良いかも。
僕のキーボードは、ある意味では邪。自分の思考をなるべくストレートに現実化する為。
っていう意味では、会計学とか経営学の本をちょこちょこワードで纏めているのも邪。
そう、これを「硯にとって」って認識されると少々興が削がれるということ。
だから、人に話したくない。
そう、人に自分の知識を語れないところ。
もっというと、自己開示ができないのが何故かという本質。
僕は自分が優位に見られたくない。
優位に見られるっていうのは、もう、僕がその人が言いたいことを制限してしまうことに等しい。ここは、何回も言いたいけど、僕が僕にとって利益があるから関わっているとは思ってもらうと困る。
こういうところが生活になじまないんだろうなって。
生活の定義は知らないけど、要は、自分を留めて置ける場所が生活だと思う。
これはもちろん経済生活もあるし精神生活もあるだろうけど、僕はどちらにせよ留めておけない。そうして、書けないことも多い。
じゃあ、どこで生きるんだって聞かれても、あまり分からない。
未だに全然生活できる気がしていないし。
さて。
落ち込みそうで荒みそうだかけど、素朴な疑問。
言葉って基本的には言語圏では誰にも通じるものだけど、誰にも通じるものとして使っている人とは言葉を交わしたくない。ちゃんと相手と交信していますか?
まず、経験を共有している人には、ショートカットできる言葉はある。
我が家が旅行した地理を今回聞きだしたのだけど。黒部ダム、北海道、九州の方、色々行っていたらしい。僕は小学校時分だからあまり覚えてないけど、石鎚山に幼少期鎖もすいすい上っていて、あとで親の親に怒られるくらいには険しい山だったらしい。
ともあれ、僕は自分の経験則を全く信じていない。
自己の経験則は自信と直結している訳だから、不信になるわけだけど、自分の直感の方が正しいから信じていないっていう風潮もある。
直観は経験則を前提としているけど、範疇の外にあるもの。
基本的には言語化できないもの。
無理矢理やろうとすればできるけど、意識すれば自分から離れて行ってしまう。
あとなんだっけ。
結局は、自分の範疇は相手によりけり。
今回帰って母親が拡がったなって思ったけど、だからと言って別にもっと話したいとは思わない。
そのエピソードが、愛媛県の自治体で日本唯一の鬼を冠した町があって、そこにほおずきの苗があった。母親はこの植物は知っていて、なんでこれがあるのかは知らなかった。そこで、僕が鬼繋がりじゃんって言ったら、あぁ!って納得する精神。昔だったら子供に自分が知らないこと言われたら激高していたのに。
どうまとめよう。
知識も「自分」の構成要素としているのが普通のヒトなのだろう。
知識も経験則も、努力して得た外部ユニットみたいなもので、それを知らない人に対しては優位に立っていいって思う。かといって、この次元で知らないことが出てきた時にヒトがどう反応するか。自分を揺るがすものなんて排除した方がてっとりばやい。
だから、僕はヒトに自分のことは話せない。
って言う下りは自己主張の話とも繋がっているけど、これは今度で。
おしまい。