硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

もにょもにょ

 

朝覚醒したら、いつもゆるゆるとネクタイを締め終わってそろそろ出るかなっていう時間だった。絶望して良いタイミング。それでも寝起きの第一思考は、「まだいける」だった。

 

朝ごはんと弁当を諦めた(帰ったら炊飯器が11時間も保温になっていた)。ネクタイは締めずに着いてからコンビニで締めた。最寄り駅まで結構走った。

けど、いつもの電車には乗れたし、コンビニでおにぎりを食べて一服するくらいの余裕もあった。

 

この前置きの教訓は、日常にかなりの余裕を持って過ごせるようになったのだろうなぁということ。だから、有事にも対応できる。ちなみに、この余裕は怠惰ではない。朝の時間は常態でも起きてから50分くらいで出ている。起きてからすぐに文字読んだり漫画見たりしているけども、割と秒単位で計測しながら。多分電車はもう一本遅れても問題ない。

 

まぁこれを推奨なんてしないけど。

 

そうして、ここで思った本質は、寝起きの思考がその人の原型に一番近いのではなかろうかという発想。だいたいの人は覚醒しきった後の精神を標準とするだろう。一番良い自分なのかな?でも、当人の素は一番無防備なときに出るのではなかろうか。無防備の考え方も色々あるけれど、酒も飲まない、文章も書かない、っていうなら、寝起きが一番正直なような。

一応言っておくけど、恙無く一生を過ごすだけなら自分の素なんて把握する必要はないので。空想というか幻想みたいな常識的な自分像で大丈夫。

 

 

閑話休題

 

ところで、が多すぎて困るな。

 

肋骨の痛みの件は、病院に行けって言われたけど、病院に行ったところで痛みが緩和するわけでもないしなって思っている。肋骨のひびとか骨折はありきたりっぽいし、そもそも構造的に弱くしているってことは、この傷は外傷と近いところにある。内臓に刺さっていたらとっくに重篤な状況になっているだろうし。素人の判断なのだろうけど、これで重篤になったらそういう運命だったのだろうっていうくらい。痛みはゆるくなってきている。

 

もともと痛覚鈍いし。

痛覚でいうなら、誰かを傷つけてしまったかもしれないっていう頭の中での痛覚の方が痛い。

 

あとはなんだ。

 

あぁ、そうそう、天才論みたいな対談本を読み終わったのだけど、湯川秀樹だっけ?さんが、自分のことを気に入らんって言っていて、やっぱそうだよなと。何かを積む原動力が重なって良かった。ただ、湯川さん自体には興味がわかないから、この本はもう読み返さない。

 

まだ書くかここで収めるか。

悩ましい。仕事力は決断力らしい。

 

よし、書こう。

 

 

さて。

 

僕が人と非日常的な部分でしか共感できないことは知っているけど、その理由がなんとなく言語化できそう。要は、普通の人達がやっているのは共感と言う名の同情みたいなもの。

 

本当の共感はもっと凛としているイメージだけど、同情はドロドロなイメージ。

共感はポジティブで、同情は後ろ向きっていう感じだろうけど、どちらにしろ嫌な感じ。

 

どこまで言語化しようか。

 

共感とか、通じるものがなくても別に共同生活はできる。

社会がそうだし。

 

んで、もっと言ってしまうと、共感って言えるほど自分の感覚を突き詰めているのかっていう話になる。誰もがやっているのなら、今の世界はもっと良くなっている。

 

世界に対する影響力が個としてはないっていう無力感ともちょっと違う。

大体の不満は本能が充足してないっていう下りだろうし。

 

 

抽象的になってきたから、具体論に戻す。

 

僕が遅刻しなかったのは、職場に迷惑をかけるからではない。

自分が無駄な負い目を感じることを嫌ったから。

 

迷惑っていう単語も嫌い。

 

この言葉が遣われるとき、自分が迷惑をかけたっていうことはほとんどないし、ビジネスっぽいし。

 

 

そうして、思った僕の本質(に近いところ)

誰とも繋がらない。

 

もう書けなくなったのでおしまい。