名付けるということ
金曜日から三連休だと思ったのか、今日が金曜日かと思ったのか、何かもう週末気分だった。実際違っていたけれどげんなりするわけでもなく、肋骨の回復の為にはいいかなと思ったくらい。サポーターの付けた方もうまくなってきた。仕事にも付けて行ってみたけど、とくに違和感はなかった。
一番痛いのは寝起き。新鮮な痛みを感じることができる。寝覚めは良いけど起き上がるときに激痛が走るからとんとん。少し調べたところだと、痛みのピークは2周間続くらしいけど、本当にそうなのかは疑問。昨日と同じ痛みか分らないし。
まぁ良いや。
今日は新食材、ラディッシュ。レシピ調べたらだいたい酢漬けだったからやってみた。甘酢。
美味しいけど、もっと可能性がありそうな気がする。とはいえ買った分は全部使ったから、次の機会で。葉っぱ部分はどうしようかなぁ。きりっと辛めの漬物にしたい気分。
さておき。
特に今日は何も考えていないのだけど、ここからどうしよう。
ふと思いついた名前の話。
僕は他人に結構てきとーなあだ名を付ける。文章で書くときに現実の識別記号では差し障りがあるっていうのは記号を置き換えているだけ。本質は僕の中だけの名前。もちろん当人には言うけど、なんだろうな、当人が示している記号とつかず離れずという感じ。にぼしっしーっていうのある。これは当人には言ってない新規情報だけど。
でも、もっと考えていくのか遡っていくのかはともかく、名前が物事人物を存在させるっていうところはある。旧約聖書とか古事記の世界の起こりもそんな感じではなかったっけ。
光よあれとか、生んだ子供が四国になったとか。
名前と言葉は重なっているけど、なんだかずれている。
物事に付けられた名前は言葉だけど、人だと名前の意味が認識できるから言葉という記号
よりもう少し広い。
ここでは一応書かないけれど、僕は、自分の現実の識別コードである名前がかなり好きだったりする。字面とか響きとか背景とか全て含めて。だからと言って、中身の僕が好きかというと少し違う。
あだ名もいくつか付けられたけど、特に何も感じたことがない。
相手が自分のために付けた名前だったら違うのかもしれないけど、そんなことはなかった。名字だけとか名前にさんとかくん付けのがしっくりくる。
名前の話は深い。
変な話、でもないけど、どうやって物事に名前を付けるかが、当人の世界の枠を決めるっていう所はある。
レッテルとかラベルとかは、当人の処理能力の限界を示している訳で。
括ると楽なのは日常生活と同じ。まぁ個別的に他人なんて見ていられないことも分かるけど、この所作は、自分のことも括っていることにはならまいか。
最後。
机上の空論だけだとつまらないから、そろそろ現実でも動いてみようかしら。
と思うのだけど、そこまで我を通していいのかっていう葛藤。
自分の中では惰性に流れた自分を常にそれで良いのかって問答しているけど、別に他人に
それは求めていないし。どっちの天秤が重いのかって言ったら、
他人が構築してきた他人の世界をぶっ壊して良いのかどうか。
って悶々としていたことが現実化したとしても、相手にとっては世界のラベルだから構わないのだろうけど。
おしまい。