楽しむ重り
帰り道の街路が銀杏模様になっていた。人工の電飾よりも綺麗。
週末見る予定の紅葉が落ちたかもしれないけど、自然はもろともだからそれはそれで良い。
好きなものは何ですかって聞かれたら困っていたけど、なんとなく決まった。
自然、動物、言葉。とりあえず挙げることはできたけど、最終的にはなんでも同じだろうなということになるだろうなという気もする。
さておき。
仕事は今日も恙無く終わった。
怒られたものが身になったというか、通話に対する緊張感がなくなったからか、かなり落ち着いている。通話し過ぎて舌の筋肉痛になったかいがあった。一番なおざりにしていた部分だから鍛えられるのはありがたい。
そうして、今日は時間的に結構余裕がある。というのも、ガス代を払い忘れていてお風呂時間が省略されたから。自分の悪い癖だなぁと再認識したのは、極寒シャワーもレンジだけで弁当作るのも、楽しんでしまうところ。外界を向上させようっていう欲望がほとんどない。
楽しむっていう言葉だと誤解されるおそれがあるけど、痛いものは痛いし、苦しいものは苦しいし、冷たいものは冷たい。悲しいものは悲しい。っていう感覚を受け入れることが現世での楽しみかなって思っている。怒りはまだあまり楽しめていない。
ちょっとわかりにくくなってきたから、ところでを挟む。
いつも読んでいるブログで、アメリカが地獄に向かっている、それは日本もそうだっていう流れの記事からの発想。ほぼほぼが悲観的な波であまり読むのはおすすめできないから引用もできないけど。
若者が現実を否認する傾向にあるみたいな話で、薬物でトランスするとかもあったけど、僕が注目したのは、乳児期とか幼少期に母親から離れて過ごす子供が多いのが問題だとか、ちゃんと母親が接していた子供は脳が大きくなるとかっていう下り。
これは昔の自分にはなかっただろうなというやつ。
脳が偏在する意識というか波の翻訳器だと考えると、幼少期の肉体的接触とか、精神的接触は、意識がこの世界に紐付けされるのだろうなと。あぁ、この世界は心地よいところなのだっていうインプットになる。そういう入力がされた脳は、時系列上の社会でまっとうな人生を送ることができるはず。別にDNAが繋がっているとかとは関係ない。人格って他人から規定されるのが起源だし、要は無条件で世話をしてくれる人っていうことなのかな。労働で世話をしているか無償でやっているかっていうのは、おそらく何処かでありありと出る。
なんだっけ。
言語が混線してきた。
現実とはなんだろう。
古代人が、「人間こそすべてのものごとの尺度」だって表現していたっていうのを読んだのだけど、この時点で人間は全く進んでないっていうのは分かった。なんにも変わっていない。
波の話。
最新の脳科学だと、意識は脳の電気信号でしかないっていうのが定説だっけ。
脳波。こういう視点で現実を見ると、当人の五感が入力した情報を脳が再構築したものでしかないってことにならんだろうか。
他人の痛みに関する情報を入力したとき、当人の脳の痛覚の部分が反応しているっていう結果もそう。現実の肉体が傷付いている訳でもないのに痛く感じる。ってことは、肉の痛みと、脳が感じる痛みには齟齬がある。
齟齬。
こうやって、脳と肉体にズレがある以上、どうあっても生きることは苦しいししんどい。
最初にまともな感覚を得られた人は、幸せホルモンセロトニンがまともに出るからなんとか生きるのがマシっていう程度かなって。
そうやってストレスに対抗しないと生きていけないのが現世。
人間だけがストレスを感じる訳ではないけど、人間がややこしいのは、なまじ考えられるところ。だいたいは外の敵のせいだってことになるだろうけど。
あと、肉体は絶えず変化しているのに、精神の変化は緩慢っていう齟齬もきっとある。
一番個人的に面白い話はここから先。
何かを想起したときに、現実と同じように脳が反応するならば、それは現実と同視できる。
これが個人の脳。じゃあ人に何かを想起させたら、それは相手の現実になるのでは。これが関係の脳。僕は人間関係を構築するのは頗る苦手だけど、この辺りに人間関係の根っこがあるような。物理的に繋がっているだけでは人間関係とはならないし、精神世界でヨイショしてくれるだけもそうはならない。
個人的には関係自体として捉えていないからあまり参考にはならないと思うけど。
あと、音楽を思い浮かべたらその音楽が流れているのと同じ作用になるっていうのもあるらしい。当然だけど。要は、精神世界も物理的世界も脳からすれば濃度の違いでしかないっっていうこと。現実が揺らぐっていう人もいるかもしれないけど、現実なんてそんなもの。
最後。
現実を楽しむためには。
社会で過ごしているとどうあっても感じられないものだと思うけど、一回性を意識すること。さぼっててきとーに括っているけど、どんな経験もその瞬間にしかない。言葉っててきとーに括るためにも遣われる。痛みとか悲しみとか、当人の中でも全然違うはずなのに、その一言で同じものとみなされる。
言語化しきれていないけどこの辺で。
おしまい。