硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

突拍子もない

冬が寂しさを増幅するのは、寒さっていう体感が寂しさの起源だから。

 

感情は五官というか、知覚を流用している。もちろん自説だけど。

四季とちょっと似ているのかな。感情の起源がどこから来ているかっていうと、きっと自我も芽生えていなかった幼少期の頃。

 

感情表現っぽいものでしか自分を表わせなかったっていう必要に迫られて生まれているのだと思う。ってところから考えると、感情っていうのは自分を表示する為の記号の意味しかなかろうって。自分の中のものではなくて、境界にあるもの。

 

伝達ではない感情だったらもう少し高度になるけど、なんだろう、感情を顕にできる人の方が豊かだっていう観念が少し不快。

 

感情も一種の社会の場の話で、知覚を流用した反射だから、それを外に出すかどうかは任意なはず。

 

なんか変な感じ。

感情は、どうしたって人間的ではないような気がする。

自然に回帰するっていうなら分かる。

 

まぁ良いや。

 

あとなんだっけ。

 

 

感情を排した後に残る人間とはなんだろう。

僕の感情はよく分かるみたいだけど、それってきっと分かりやすくしているだけ。っていうのも厳密には違う。その関係で生きる自分はそうっていうだけ。

 

量子論まではいかないけど、素朴な感覚として宇宙は自分の認識だろうなっていうところから。過去は現実に在ったっていう認識が須らく人のものだろうけど、だったら、記憶で再現出来ない領域はどこに行ったのだろうって。自己認識さえも記憶で想起できる部分に絞って再構築している訳で。

 

 

要は、自己認識として自分を観測している第三者の視点は古い。

歴史的な自分しか観測できないということ。

 

ここで言う歴史は、意識に選別されて残ったモノという意味。

 

だからなんなんだって言われても困るけど、僕は無意識に埋没された自分の発掘作業をすることが自分のことを探ることだと思っている。

 

あと、自己発展の作業だけど、これは時間とか回数とかただ作業するだけでは上手くはいかない。違う第三者視点という意識で自分を修正すること。

 

キーボードでの運指が上手くいきつつあるのは、過去の自分からしたらありえないこと。

もともと不器用でしょうがない。

 

意識の偏在性の話を思いついたけど、時間切れ。

 

おしまい。