硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

コンテクスト

時間が変則的だけど、お風呂に浸かりながら本も読んだ。

そうして書いていこう。

 

美味しいお酒と美味しいご飯と美味しい景色を摂取してきた。

 

ともあれ、自然の景色に関しては、凄いというより懐かしいという気持ちが強い。時系列上の何処なのかわからないけど、空の動きは田舎の山奥でずっと観察していた記憶がある。でも、人工物と織りなすとまた趣が違う。すれ違う人が皆無の2000メートルくらいの橋を歩いて渡りながら見る夕闇。飛行機が離陸するのと着陸するのは、遠目で見るとちょっとおもちゃに見える。実際着陸のところをよく見ていると、両翼がふらふらしていて危なかしい。

 

景色に対する評価がCGみたいに綺麗だっていうのはありうるけど、よくよく考えると変な話。自然のほうが先でそれを再現しようと思ったのが人工物。個人的には綺麗であればどっちでも良いかなっていうざっくり感。景色は誰の所有物でもないからそれに対する対価は要らないのだけど、対価を払った方がより価値があるというのが資本主義のものさし。

 

 

さておき。

全然酔わないなぁ。何故だろう。

 

じゃなくて、料理から見た愛と当たる占いとか黒魔術とかそういう話。後半まで行けるか分からないけど。

 

 

料理と言葉は人の本質に限りなく近いと思っている。

一般的には別の枠でそれぞれ世界があるという感覚だろうけど、僕の中ではかなり近いところにある。

 

料理に愛情を込めると美味しくなるっていう命題がある。

命題っていう概念もよく分かっていないけど、ここでは、思索対象という意味くらいしかない。

 

逆から見て、美味しいご飯とはなんだろうと考えてみる。

味付けとか現実に味覚だけで考えると、チェーン店とかコンビニでも十分美味しい。でも、ここでは味覚にしか摂取する要素が無い。料理をあまり考えていない人はきっとこの領域で過ごしている。

 

でも、その先に誰かと食べるご飯は美味しいとか、この店で食べるのが好きっていう感覚がキーワード。要は、人はご飯を食べるときに、栄養学的ないし化学的な栄養素だけを摂取している訳ではないってこと。

 

これを踏まえると、料理での愛。

先に結論を言うと人はご飯に含まれた愛を摂取することで美味しく感じるということ。

この文脈における愛とはなんぞやっていうと、単に美味しくなーれみたいな気持ちを込めることではなくて、食べて貰う相手を想像しながら作ること。それが無意識に味付けを調整する。味付けなんて塩のミリグラム単位で変わるし、柔らかめと硬めの好みによって火の入れ具合も変わってくる。なんていうと高度に見えるけど、飲み屋のご飯を食べてていても明確に感じる。食材を良いものにしろみたいな話とは別領域。

 

前の職場で料理の話が出てきたときに細々話していると、硯の嫁になった人はいちいち言われて大変そうだって言われたのだけど、この観念自体が僕の感覚とはズレている。味付けが美味しいかどうか別で、僕の為だけを思いながら創ってくれたご飯はだいたい美味しい。

 

味覚的にどうかって思ったら、その改善アドバイスくらいはするけど、そもそも誰かが自分のためにご飯を作っている貴重さを把握していないからこういう観念が出てくる訳で。

例えば、全くご飯を作ったことがない人からすれば味覚が全てで、配偶者に対してもその水準が基準になる。自分の味覚に合わせろやこらみたいな。

 

なんだかがやがやしているから一言で。

ご飯は、相手の為に作ったっていうのと、自分の為に作ってくれたんだっていうのが繋がった時の双方向になった瞬間が美味しい。

 

もちろん、問答無用で美味しいご飯もある。

それは創り手が探求しまくった結果の上澄みを貰う。僕の料理はお金を取るまでは行かないと自分では思っているし、自分用のご飯しかほとんど振る舞ったことないけど、相手の味覚で調整するくらいはできそう。

 

 

誰と食べたら美味しいっていうのは、コミュニケーションの一種でご飯は一つ下の次元に

なっているから、ちと違う。

 

追記としては、自分の対内に入るものって考えるとご飯って一番大事なのに、ざっくりした栄養学でしか把握されていない、っていうのはなんでかっていうと、自分が生きてきた当たり前しかコピペできないから。

 

ご飯とはなんぞやって伝わっただろうか。

僕の場合は自愛じゃないからここまで来れた。基本的には技術でしかない。ということは、試行錯誤できる人なら習得できる。ちゃんと分量量る道具も在るし。

 

今日の語彙はきっと誰が読んでも分かる。

語彙に関してはパット見で把握できない言葉は使っていないつもり。

 

 

ご飯と言葉の相似性。

 

言葉はファーストフードと似ている。

要は、判を押したコピペでだいたい通じるってこと。

 

ここも愛の概念なのだけど、僕が対人で響く言葉は、自分用に加工してくれたんだろうなっていう言葉。尊敬の言葉とか言葉って、書式があるから内心でどう思っていても言葉尻しか世界がない人には通じるだろうとは思う。

 

コピペが増殖されていく世界。

 

 

でも、少なくとも僕は対人でコピペできるような言葉は使わない。いやいや自分だってそうしているって反論が出そうだけど、ここは共通認識の外だから。

 

共通認識っていう観点で見ると、一番近いのが数学ぽい。

 

指が反応しなくなったからおしまい。