硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

感性

 

予感はしたことは起こるけど想像したことは起こらない。

 

 

お昼に中華バイキングをご馳走になった。店員さんが中国人の本格的なところ。

んで、美味しかった。麻婆豆腐は自分が作っているのが和食だっていう評価が分かる。辛いし美味しい。次作るときはこれを標準にしよう。多分豆板醤の量が核だろうけど、旨味は研究しないと分からないな。あとは、唐揚げ、チャーハン、スープ、焼きそば、サラダ、杏仁豆腐、餃子(食べていない)。どれも美味しかった。

 

3人で食べたのだけど、もうちょっと打ち解けたら良かった。なぜできなかったと思うに、まだ閉じこもっている傾向にあるから。せっかくこっちのプライベートを検索してくれて門を開いてくれたのにこちらがそれを通らないのは失礼だ。キャッチボールというよりはトスバッティングみたいな感じ。

 

でも、歯止めになるのが、やっぱり誰かに言ったことが伝聞されて共有されるという想像。

まぁそれもどうでも良いかなと思うのだけど、田舎の閉塞感を経験しているとなんとなく気にはなる。けども、これはあくまで僕の中での経験則でしかなくて、もしかしたからこの職場には淀みというものがないのかもしれないと思ってきた。となると、もっと開示しても良いし、興味を示しても良い。すべては僕の内側の問題でしかない。そういえば、ちょうど水滸伝読みたいなと思っていたら、その話題が出てきた。

 

 

共時性の話に戻ってきて。共時性の定義はざっくり言うと、全然因果関係がない物事が関連するという体験みたいなこと。あまり一方的になってもいけないから統計的に共時性を否定するっていう本も並行して読んでいる。ただ、どっちが説得的かっていうと、明らかに共時性を肯定する方だなって。

 

否定する方は科学的に確率論から論拠を積み重ねる。母数が増えれば一致する結果は起こるとか、人は事後的に辻褄合わせをする傾向にあるとか。矢が刺さったあとに的を書くみたいな。確かにだいたいの思い込みは排除できるような気もするけど、これってなんというか、試験管の中の世界の捉え方。世界はサイコロではない。っていうのはこの世はそもそも初期条件が統一されていないっていうところからきている。量子力学からいくとややこしくなるけど、要は計算で片付く程単純ではないくらいに無数の要因が絡み合っているということ。

 

これに、世界は当人が見ている仮想現実でしかないみたいなものもあるし、ややこしさは無限大。

 

1つ個人的に捉えたのは、人は生きている限り世界に影響してしまうということ。

影響の度合いが強くなれば、感動とか恋慕みたいなことになるだろうけど、全然関係ない人にさえ影響を与えずにはいられない。すごくちっちゃなことでも最終的にはどうなるか分からない。

 

もう1つは職場を観察して思ったのだけど、どれだけ長く一緒に居ても言葉は不可欠なのだろうなという素朴な感想。非言語の領域は増やすことはできるだろうけど、結局は言葉が必要な領域は変わらない。って考えていくと、言葉は疎通の手段っていうより異星間の交信の方が適切な表現なのではなかろうかって。あんしん、あんしん、みたいな。

 

言葉があるから情報量を制限できるっていうのもあるのかもしれない。

人から得る情報ってキリがないけど、その人が言っている言葉をとりあえず正しいとして情報を区切るとか。

 

最後。

 

こういう意味で言葉を捉えると、個人的な言語で語ることは、他の星にメッセージを発信していることに近い。別に誰にも引っかからなくても良いし引っかかったらそれはそれで嬉しい、みたいな。

 

おしまい。