硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

読解(1

明日は祝日だったのか。知らなかった。
台風は温帯低気圧になって北日本の方に行ったのだっけ。

さて。
昨日はひどいことを書いたらしい。個人的には割と地だったと思う。まぁ布教活動の対象ではないから表には言動としてそうそう出てこない部分だけど。誰かが言っていたけど、文系の人って言葉をその人そのものだと捉える傾向があるらしい。文系理系っていうより一般的感覚だと思う。人の情報として一番わかり易いものだし、人格の代替物にするにはてっとりはやいし。

創作物でさえそうなる。確かにその人の作品を読んでいると人格の片鱗というかその人が引っかかっているものみたいなものは見えてくる気がする。癖とかも。例えば、図書館戦争の作者の人は親族関係に不和があるのだろうなとか、伊坂幸太郎さんは性犯罪に何かしら関わったことがあるのだろうなとか。あまり語句検索でひっかかりそうなワード入れないのだけど、ここって語句で検索するのは不便だから大丈夫か。


ちょうど、mixiだっけ? に、若者の文字不足っていう記事に対する見解があった。両極端。若者がやばいっていうのと、若者の方が文字を読んでいるだろうっていうっていうやつ。
確かに大阪で満員電車に乗っているとアプリゲームしている人も多いけど本を読んでいる人とか画面で読んでいる人も多い。本を読んでいたら、何か気になるから観察するのだけど、小説か資格の本が多い。若者ではないけど。若者は教科書読んでいることが多い。

そうして、若者がやばいっていう側の見解は的がズレている。集団で話しているときに必要なことは語彙ではなくて空気だし、疎通さえできれば別に単語数は要らない訳でおそらく集団の語彙標準に合わせて言葉を選べるはず。これを単に日本の将来が遺憾みたいな見解にする方が言葉遣いとしては拙い、ような気がする。通じる相手としか話していないのだから。語彙数としてはそんなに変わらないように思う。

若者の方が読んでいる説のほうが個人的にはまともに見えた。
言葉の疎通は場数で、手紙っていうツールしかなかった時代から比べたら疎通の場数が全然違うっていうのは割と真理だと思う。今やスタンプもあるし、疎通能力は全世代より高いような。

そうそう、この両極端な見解は語彙と疎通を混同しているような気がする。
語彙は自己表現の話でこれが増えたからって疎通相手が増える訳でもない。疎通するためには語彙は共通項でないといけないから言葉を相手に合うように選なきゃならない。

観測しているのは自分だから、どうあっても指標は自分になる。

疎通に関しては確かに場数だし、疎通用の語彙が必要。
ビジネス文章も、ただそれ用の語彙を習得すれば良いだけで、自分なんて要らない。

送付書とか当たり前とされているけど、資源の無駄遣いじゃなかろうかって。
国家機関ですら時代遅れなのだから。紙媒体の文章に中身なんてほとんどない。


この時代にあえて手紙っていうのはまた別の話。
字が汚かろうがあえて労力を使ったっていうのが見えるから。


自己表現の方は全然違う。
疎通するための表現なら語彙は絞るんだろうけど、色々段階がありそう。ここでの語彙は難しい言葉を使うっていうより純粋にその人の思考を言語化しているか。誰もそんなことしていないけど。

自己顕示欲が低い人は他人を恐れているらしい。
確かに他人は怖い。怖いけど直に接している人には警戒心がないように振る舞っている。誰か自分を退場させてくれないだかとか。

生活に戻してみると、共同生活って自分が譲れない部分に合う人を入札するものみたい。
一般的なのだろうけど、本当に好きだったら自分の譲れない部分でさえ動かせるのでは。これは元恋人さんに試されたもので、僕はそれを選べなかった。あと一年時期がズレていたら分からなかったけど、タイミングがズレるっていうことは相性が悪かったっていうこと。

僕が生活を気持ち悪く思うのは、自分の親関係を観測したから。
結婚生活が全然良いものに見えなかったし、父親はそうそうに退場して、俺以外の子供達も母親とほぼ絶縁状態。開放されてきた母親を見るにつけ、なんのために縛ったのだろうって。


ポイントは、報われなくても良いって思うこと。
僕は需要と供給とか対価みたいな考え方が出てきて失敗した。そういう世界には馴染まない。自分のものさしでもない。疎通の話。

まぁ僕は自分の遺伝子残したいとは思っていないし、生活がまともにできるとも思ってないから、一人でちょうど良いのかなと思っている。関わっている人の価値観をトレースしてしまう精神病質だから、相手からしたら同じものだって思われてしまうし。もちろんこちらから思う場合もある。
 

語彙なんて全然使ってないし、観念もまともに表現していない。昨日のは割とまともだったかなって思うけど。これは自信の話。

 

最後に解釈の話。

解釈って事実と混同されているけど本当は違う。
自明だからワンセットになるのだろけど、事実を動かすのは改ざんだけど、解釈はどれだけ動かしても構わない。

たとえば、浮気されたっていう事実があるとしよう。
どういう関係かっていう前提でも変わってくるけど、制裁があるべきっていうのと自分にも原因があるっていうのは解釈次第。事実と評価がワンセットになっていると解釈の余地はない。

解釈の余地がなければどれだけ語彙があろうが評価はその人の価値観に収まるから、考えた所で同じところに結論する。

そうして、意味の読解も解釈の範疇だけど、これって言葉の広辞苑的な意味を知っているだけでは読解不足になる。解釈ってなんぞやっていうと、自分がこういう風に読み取ったっていう1次的なものではなくて、少なくとも、こういう指標からその対象を読み取ったっていう2次的な捉え方。

捉え方なんていくらでも変わる。

おしまい。