硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

自分の定義

帰ってからダメもとでもう1回電源を入れてみたらなんだか最後の力を使ってくれた冷蔵庫さん。ありがたい。週末までもってくれるとよいけどそこまで都合良くはいかないという気もする。というか、土曜日に買って日曜日に届くのかいな。とか何も知らない。そうして次に買い替えるときにはもう忘れているのだろう。人間の良いところは、記憶を人格に合わせて伸び縮みさせることができるところ。

 

「多重人格とは押さえつけられた可能性が独立したもの、それがどんなに病的で周囲に破壊性があるものでも可能性に善悪はない」

 

ブギーポップは笑わないって読んでみると良いって言われているのだけど、かれこれ4年くらい見つからない。アニメは見つかったから見てみているけど。

 

ともあれ。

 

今日はまっさんが休みだったから先生に負担が集まったのもあいまって、先生が怒っていた。先生は自分で言っているより短気なのかも知れない。周りも慣れているのか一瞬しんとなるものの、あとは通常営業だった。でもここの問題は先生が短気なことではなくて、温和で何でもやってくれるっぽい先生に仕事を押し付ける人が多いことに対する感情を表明しないといけない構造だと思う。

 

怒りを表明されたときの対応って、怒りが去るまで待つっていうのが常套手段。怒りは対話を求めないものであって、その瞬間にその怒りからズレたことを言っても意味がない。という学習をしてきたのが僕。母親が理不尽によく怒る人だったから、怒りが去って期限が良い時にするしかないって思う。

 

でも、先生と母親の怒りは構造的に近いような気がする。やや違うかなって思うのが、母親の場合は、怒りを蓄積した対象と怒りを発散する対象がややズレているように見えるところ。怒っているけど、本当に自分に向けられた怒りなのかが定かではない。虫の居所が悪かっただけだろうと。

 

ただ、これってなかなか難しいところ。人って自分と近しい人を認識するとき、時系列で関係した長さを基準にする。だから、過去の相手に対する怒りを現在の当人にぶつけるということになる。これならしょうがないというか正当な怒りだと思う。すいませんしか言えない。でも、過去の自分がしたことは改められるものではないって現実があるときに相手の過去を責めることって、関係性の未来が改善することはない。っていうのも経験則。お互いの人格に変化がないっていう前提なら問題はないけど、人格の変化って基本的に観測しようとしてもできないから、年月を経て齟齬が出てくるのは当たり前ではある。

 

僕が失敗した経験則(もしかしたら成功とも言えるかもしれない)は、相手が自分を変えようとしているのに、過去の相手の失態に重きを置きすぎて相手の変化を捉えられなかったことにある。過去の瞬間の自分の怒りに重きを置きすぎて、今の相手が捉えられなかった。

 

でも、これって自己認識と鏡だからしょうがない。つまり、自分の人格を確立することを過去の実績の積み重ねにしている場合、関係も同じになる。同じ実績を積み重ねたのが関係だっていうのがこれ。

 

そもそも怒りの用途ってなんぞやっていうと、要求に尽きる。怒れるっていうのは、相手に何かを求めることができるということだから、健全な観念。僕もイライラは良くある。匿名

的個人に対して。

 

要は、自分にとって都合良くない何かに対して都合よくしろよって求めること。

こ関係性の中で双方が怒ることができる環境であれば問題はない。

 

僕は都合良い状態っていうのがズレているに違いないから、関係性を構築することができないんだろうなという感想。

 

僕にとっての都合の良さは、欲求に応えてもらえることではなくて、欲求とは関係ないところでなにがしかの良いことがあること。もともと何かを求めるっていう意味の欲求がほとんどないように調整している。だから、鏡理論でいうと齟齬が生じる。

 

 

鏡理論と言えば、自己が何処にあるかっていう脳疾患の症例を挙げている本が自我の脆弱性を語り出している。今ちょうど鏡に写った自分を他人とする症例が出てきている。こういうのを見て、自分はまともに世界が見えていると思うのか、明日は我が身にとどまらず自分もそうかもしれないとするのか。

 

個人的な視点で言うと、人って自分の自我ないし人格に自信持ちすぎじゃないかって思っている。

 

ここで記憶の話に戻ってくるけれど、人は自分の人格を補強するための記憶力は高いと思う。だから、新しいこととかどうでも良い記憶に対しては外付けになって、覚えていられない。って考えると、自分とは関係ない記憶力を増強するためには、自我から解放されることなのではと試行錯誤してみたい。ただ、自我から離れられない本質は興味。興味が人格に直結しているとすれば興味を盛り上がらせるように人格を調整しないと難しい。

 

じゃあなんなんだっていうと、マニュアル化できないのが人間だ、でいいのかな。

はい、おしまい。

 

皆さん良い夢を。

 

おやすみなさい。

 

 

 

 

先の先は底の底

新弁当箱1日目はなかなか良好。おかずは卵焼き、鶏むね肉と玉ねぎの炒め物、人参のグラッセ、余ったスペースにサニーレタスとミニトマト。前の弁当箱はシリコンの入れ物3個でぴったりだったから、お昼に生野菜が食べられるのはありがたい。ご飯も朝詰めて密封したからなかなか新鮮だった。悪くなることを考えると冷蔵庫に入れさせてもらってレンジを使わせてもらうのが一番いいのだろうけど、まだちょっと勇気がない。

 

そうして、食生活が良好になるなぁと帰宅したら不穏だった。昨日買った鶏むね肉が悪くなっていたし、冷凍したはずの豚しゃぶ肉も駄目だった。冷蔵庫の故障。コンセントを1回抜いてみたらモーターは動いているからなんとかなるかと思ったけど、まだ怪しい。フラットな状態からどれくらいで冷えるのか分からないし。まぁ電気代から考えると徐々に冷やして保温するものだろうから、まだ体感できるほどは冷やせてないのかも。

 

まぁもう15年選手だし、冷凍庫もすでに怪しかったからそろそろ世代交代だろう。文明の利器の凄さというよりなんだか悲しい感じはある。これが愛着か。特に手入れもしていないけど、学生時代からよく頑張ってくれたなと。冷凍肉はほとんど死ぬだろうけど、もともとなかったものだって考えると甘えていただけだろうと。そういう時系列を生きていた人からすれば当たり前。

 

 

まぁなければないで弁当生活もやりようはあるし、ちょうど良く買い替える資金も近いうちに入るし。世界はなんとも都合よくできているのか。1人用で野菜室がある冷蔵庫ってあるのかしら。ついでに他の家電も回収してもらおう。

 

という感じで、僕は環境に対する不満みたいなものがほとんどない。これって、人として欠落している。来る人拒まず去る人追わずという観念もきっとここから来ているはず。環境としてあるものは等しくありがたいし消費するけど、それがなくなったとしてもそれなりに生きるだろうなって。

 

もっと言ってしまえば、そうやって生きるしかないのが生物だろうって思っているから。

環境を変えたい欲望って相対的だと上手くいかないような。果てがない欲望で生きるというならしょうがないけれど。

 

要は、環境に関わるものって器の話で移ろなものだから、自分の根拠としては足りないということ。欲望も、器にかかわるものであるものにはほとんど拘泥できない。だから、不健康な習慣を平気でやっている。

 

 

いったんおいておく。

 

さておき。

仕事の話。

 

もう1人の名もなき上司は、かなり合理的視点で仕事を捉えているのだろう。休憩とか帰りとかきっちり定時近くだし。こういう上司もありがたい。その効率の中にもう1回同じ処理をするときに相手が迷わないように余計に説明する人情みたいなものも含まれていて人間味を感じる。余計なことはしないっていう枠の中でどれだけのことができるか。これってかなり頭を使い続けないといけない。視点が自分ではないけど自分を使わないといけない場って、自分視点でなんとか相手を収めるとは頭の回路が変わる気がする。

 

同期は傾向として規定時間に収めるっていう観念が経験則上ないから、OJTのエクセルで一日の感想を書いて、それに研修監督がコメントをするやつを勤務時間を越えて書いていたりするから、まっさん(命名決めた)の内心ではかなりイライラしていると思う。仕事で培ったイライラを言動に出さないスキルで穏やかに振る舞っている風だけど、なんとなく見えなくはない。

 

先生とまっさんだと呼称で格差がありそうだけど、そんな意味は全然ない。呼称は全然関係ない。

 

そういえば、呼称に対する観念もおかしいところがある。

 

他人をどういう風に呼ぶのかにずっと違和感。これは時系列上のあるタイミングからずっとある。自分を代名詞で呼ぶときの違和感と直結している感はある。僕から俺に変えるタイミングがあったはずなのだけど僕の方がしっくりくる。なんならなるべく主語は使いたくない。っていうのは高校時代からあって、当時室長になった人をしっちょーって呼んで誤魔化していたのだけど、卒業後会ったときに名前を呼んでくれよって言われたことがある。

 

偽装する技術が上がったからピンポイントで指摘されることはなくなったけど、この観念と冒頭は繋がっている気がする。僕は自分の氏名は大好きだけど、これを呼称で間違えられてもなんの感情もわかない。まぁそうだよなというだけ。でも世の中の人の多くは自分の氏名と人格を直結している思っているから、応対ではかならず名前を呼ぶ。呼びかけられるだけで無意識に個人として認められている感があるのだろうなと。

 

ということは、僕は何をもって人に認められているのかという観念を自分でも把握していない。そもそも認められて嬉しいみたいな観念がないのではという実感。ある意味エゴしか生きられない。生きているだけで余生みたいな水準なのかもしれない。その中で自分がどれだけできるか。この「できる」も広く知られるとは違う。営業力皆無。

 

 

それだったら通常ルートで生きればよかったのにねって自分を観測して思うけど、これが駄目だったのだから今になっているっていう意味で見れば、ここに私の本質があるとも言える。だとすれば、どう考えても誰かと共同生活できる人格ではなかろうなと。

 

関係性において、自分の認識を語れないっていうのは行動様式のズレより致命的な欠落。相手からして、私が相手に対して何を考えているかが認識できないから。ここに関しては僕にも言い分があるけれど、この言い分は言葉として現実化しない。

 

 

ここまでかな。

 

 

おやすみなさい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

どうしようもなさ

弁当箱を買い替え。5年くらい酷使していて、手入れも適当だからもう限界だった。体積が1.5倍くらいになったか詰める枠が広がった。ついでに想像力も。良い感じ。ご飯を詰めるのと具材を詰めるタイミングがずれるから二段は譲れないのだけど、おそらく積む場所を間違えている。プラスチックの蓋がある方がご飯のポジションだとおもったのだけど、蓋はレンチン対応じゃないから、むしろ生ものを入れるポジションなのかもしれない。こんなのどっちでも良いと言えばそうなのだけど。下の方が体積は大きいからいっぱい淡水化物が欲しいならこっちに入れたら良いだけ。たまには麺類とか。

 

ともあれ、枠が広がったので、もう少し見栄えとか栄養バランスとか考えていこうと思う。突き詰めると、インスタ映えみたいな。インスタはやってないしやるつもりもないけども。

 

自分の視点とか自分の料理とか、公に晒すようなものではないと思っているから。というか、僕はそもそも自分を表現者としてみなしていないのだろな。文章は表現していると思っていないから、なんとか書いているという。これが後ろ向きなのかと言われると微妙なところだけど、万能感と無力感が並行して共存している。どっちが強いかってそりゃあ後者。何故かと言えば、、。

 

 

 

ところで。日記が空いた日にアラジンを見てきた。ちゃんとアニメ版の復習をしたあとに。もともとが原作からそうとうの改変があるような気がするのだけど、ともかく、面白いのは確か。勢いとかテンポとか音楽とか。

 

ただ、ディズニー界隈は結構苦手。自然と馴染ませるような思想の裏が見えるところがなんとなく。これはハリウッドとか洋画一般に言えることだけど、洋画が泣けるとすればそういう理由。僕もアラジンで泣きそうになったのだけど。

 

共通項として、王女は王子しか結婚できないっていう法律を最後に王様が覆すのだけど、方法が違った。アニメ版では王様が法律を変えたのだけど、映画版ではお姫様が王様になって法律を変えた。これって結論から見ればどっちでも良いし、原作の千夜一夜物語だったらもっとスルーされていたところなず。でも、現代社会で見れば意味合いはかなり違う。

 

誰がルールを決めるかという話。

アラジンのアグラバーって社会制度として君主制みたい。王様が法律を変えるって現代社会ではありえない制度なのだけど、それが成り立つのはファンタジーだからではない。最終的にルールに縛られていたお姫様がルールを作る強者になったから、今の物語として成り立つ。

 

ただ、いちゃもんじゃないけど、いやいちゃもんだけど、この王女様って全然縛られてない。映画版だとやたらと女性っていう属性だからなんもしなくて良いみたいなジャファーからの圧力がやたらと描かれたあとに、女性が自立していくみたいなことがやたらと見えてげんなり。そもそも姫様は全然弱者ではないだろうって。環境が整っていれば、自分で道が決められるっていうメッセージだったら分かるけど。

 

まぁそれがエンターテイメントっていうなら分かりみ。

でも、楽しむならジブリの方が良いかなと思っている。ちゃんとエゴだから。新海さんとかもまさに。

 

そう、僕はおそらくジブリと一緒にディズニーアニメも金曜ロードSHOWでやってる範囲では等しく見ているはずなのだけど、ディズニーが記憶に残っていないということはそうそういうこと。豪華さが全然残らない。チャーリーとチョコレート工場は残っているけど界隈が違うか。僕がこの辺りで一番好きなのはシザーハンズなのだけど、これはジョニーさんだからだろうなと。でもカリビアンは全然覚えてない。

 

まぁ映画って、見ている瞬間の感動が本質であって、振り返られるかどうかは別物なのかね。

 

やれやれ。

 

仕事の話だけど、やっぱり同期のほうがコミュ力高いしまともだ。僕は疎通に無駄な言葉を遣おうとは思わないけど、発話を費やすことが疎通にとって必須だっていう観念があるところ。

 

僕はそういう観念はまったくない。関係に大事なのって行動であり今でしかないような。

 

でも、人が他人を人と見る定義って、ぶっちゃけると過去の蓄積だと思う。

これは自分を自分として把握することにも等しい。

 

こういう意味でもポンコツなのだろうなと。

 

おしまい。

 

 

 

 

 

 

たまたま論

クリーニングに出したスーツを取りに行ったら、向かいの立ち飲み屋で北欧男性っぽい人が外に出て赤ワインを飲みながら煙草を吸っていた。良く分からないけど好きな風景。

 

なんだか変な感じ。言葉の定義を考えるというのは広辞苑的な意味ではなくて、自分が特定の言葉をどういう風に遣っているかだと思う。広辞苑は個人的に欲しいけど。実家にある百科事典もいずれ読破したい。僕はどんな家庭にも百科事典とか家庭の医学が常備されているという観念が拭えない。今はネットで検索すればWikipediaとかがあるから一概には言えないけど、どうにも無防備に見えなくはない。僕は今のところ個人だから良いけど。

 

でも、外付けの情報があるだけで、情報を扱う技術がなかったら持ち腐れのような気もするけども

 

「法や倫理を越えた時、人の魂が見える時がある」と言ったのはサイコパスのまきしまさん。サイコパスは前提知識がないとなかなか読みとけない。僕もルソーの人類不平等起源論なんて読んだことがない。けど、たぶん言いたいことは素朴なところなのだろう。ルソーを踏まえて、言葉もネットも社会性を強めるための道具だっていう説も分からんではない。ネットは本音を見えやすい傾向があるというのも分かる。枷が1つ外れているから。器に対する危険がない。それだけで嘘が付けるのが人。これで何か得られるのかというと僕にはあまり分からないけど、仮想的な自分でも認められることで心が満たされることもあるのかもと。心は水物だから何で満たされるのかは定かではないし。

 

ネットと言えば、ほとんど動かしていないつぶやき場のアカウントで全く知らない人からフォローされたらしい。何をもってなのだろうとは気になるけども、まぁあえて紐づけていないだけで紐解けばここも見えるだろうし。まぁ理由はなんとなく分析できなきなくもない。紐解いたからではないはず。今のところ紐づけの欲求はほとんどない。というか、僕は自分が認められることに充足の観念がほとんどない。残念ながら。

 

という感じで自分が言葉をどう扱っているかに戻るけれど、僕はかなり頭がおかしいのだろうなと。これは解放というより、分析することで還ってきただけなのだろうなという感じ。

基本的に個別的な関係においては見下す人が多い。それでダメージを受けることはなくてダメージになるのは別のところ。という分析の先に、今まで振られてきてばかりの恋愛関係も分からんでもないなって。

 

ここも完全に自由とはいかないから言葉を選んでいる。

 

 

言葉の選択肢って疎通においては基本的に縛られているもの。僕は怠け者だから、当たりをつけた言葉をこれなら通じるかなって投げるだけで、相手が分からないとしてもさらに言葉を継ぐことはあんまりしない。そもそも通じないのが当たり前だと思っているから。だから人間関係があんまりうまくいかないのも知っている。

 

僕が理解されなくても良いやって思うのは、そもそも人は理解できるものではないっていうのが根っこにあるから。他人が自分の理解の範疇にはないっていう思想は人を人として見ることに繋がっている。だから、かえって来ることを前提としない。

 

でも。社会単位で見ると対価が返ってこないと具合悪い。何故なら、社会は自然とほぼ近くて、循環っていう観念があるから。労働には対価として賃金があるとかそんなやつ。っていう社会性を自分の目だと思って世界を見れば、返ってこないことがおかしいっていう感覚は正しい。だから旦那とか嫁とかに不平を漏らすわけで。

 

キリスト教徒ではないけれど、聖書物語は楽しい。し、なんとなくキリストさんの気持ちが分からなくもない。有名な言葉で左の頬を打たれたら右の頬も打たれなさいみたいな言葉があるけど、これって、理不尽を受け入れなさいっていう言葉ではなくて、自分を分析してみることなのだろうなって。でも、人のほとんどは自分の器を分析するほどの余白がないから、導くしかないって思ったのだろうなと。

 

これって人の本質だから、当然現在生きている人にも紐づいている。人々は歴史に学ぶっていう傾向がほとんどない。他人事だろうから。

 

ここで、当人の歴史について。

当人にしかないから、何を覚えていて覚えていないかとか、自分が歴史上で正しかったかみたいな改竄はいくらでもできるのが自分という1つの国家のこと。

 

僕は、自分に都合が良いように歴史を創り変えることはしたくない。自分の時系列の不具合は全部自責にしたい。と考えると、自分が歴史上の好きだった人と継続的な関係を構築できなかった意味も分かる。相手と合わせられなかった自分が悪い。

 

そもそも他人と生活できないっていうのもあるかもしれないけど。

 

 

要は。

 

あらゆる人間関係って、単なる巡り合わせでしかないということ。

人類の歴史が千万年単位で、たまたまこの時代で生まれた自分がもう1個たまたまで人と

出会っている訳。

 

 

視点によりけりだけど、広く考えたら、義務ではないところで関係している相手って奇跡でかない。この奇跡性が常識になれば世界はもっと平和になるかもしれないという空想。

 

ということで、出かけます。

 

 

おしまい。

 

 

 

突き詰める不具合

今日は完全にノープラン。自分の気分に合ったアニメもよく分からないから、ワンパンマンにしてみた。同期がなんだか元気になっていた。良く寝たのか何なのかは分からないけど、顔がスッキリしていた。エクセルにはあくせくしているけど、先生は教えたがり傾向があるみたいだから調和している。エクセルの動きってWordと比べるとなんかめんどくさい。けど、もともと数を入力して計算するためのものとして設計されているから、セルの中での改行に手間がかかるのは分かる。

 

まぁ、教えたがり傾向は僕にも少々ある。教えたがりというと自分の知識でマウントを取るっていうのが通常形態だけど(偏見)、先生と僕の共通項は、単に自分が発見したものを共有したいという感覚。幼稚と言えば幼稚だけど、求めていなさそうな人には発信しないという意味ではた迷惑ではないという。

 

さて。

 

前置きを書いてみたけど、どうしよう。

 

時間の配分として色々淘汰されてきている。世界が個人個人だっていうのは、客観的にどうかの前のこと。見られるもの、できるものは物理的に限られていて、何を見るかっていうのが限られているから。つまり世界はそもそも不公平だということ。

 

人が相手にできる人も、人の作業量も限られた中で、何を選択するのかは自由なのだから、必然的に偏りが生じるのは当たり前のこと。これを選択させられていると捉えるかどうかは微妙なところだけど僕は少なくともだいたいは自覚している。テレビはないから勝手にメディアが流れることもないし。

 

今住んでいる市でいじめがあったらしいっていうネットのニュースの表題だけ見かけたけど、いじめがなくなるとしたら、社会がなくなった時で、もうちょっと前で言えばそのいじめのニュースを眺めている人が個人を個人でしか見なくなるとき。いじめは悪いことだというけど、その悪さは他人事ではないはずなのに、他人事として見なくなったときには変わると思う。ただ、これって個人個人に求められるハードルがやたらと高い。もともと他人なんてどうでも良い人の集まりならいじめはないけど、これはこれで結構厳しい。なんでかって認めるところが技能とか才能とかだからそれがない人はそこに入れないし。

 

ざっくり言うと、劣等感をもっている人がいじめは悪いって他人事で言っているうちにはなくならんだろうなという話。僕もそこでいるときはそういう振る舞いしかなかったからそうしていたけども、今や集団自体に嫌悪感がある。

劣等感の反対は優越感で、優越感の方がもっと質が悪いのだけど、社会は人工的にそうやって人が対立するように操作するのが治世学としてしはいいのかもしれないなとか。国民同士で争っているうちは、国家への疑問は見えていても問題の選択としては内輪の方が喫緊になるし。

 

あらゆる歴史で、個人個人が対等になったことってきっとない。カースト制とか、部落制度とか、階級で統治されていない国家はない。日本は割と先駆だけど、平等にしてしまったときの不具合でやや混乱している感。結局のところ人の本質は自分の欠陥とか自分の負の感情を他責にして投げてしまうものだろうなと。

 

でもこれって、人格の回路を1つのシステムとしてデジタルで考えたら分からなくはない。自己保存の為に周りを下げるっていうのは結構自然なこと。具体的なだれだれよりはできているとか知っていることを基準としている。存在期間を基準としてみるみたいなことも往々にあるし。

 

 

そんなこんなで、人が人に与える影響について。今まで書いた文脈からすると、影響っていうのは、言葉での賛同ではなくて、時間を消費すること。

 

時間を消費するのは、相手に対してプライベートな時間を諸々使うってことだけど、そもそも消費ってなんだろうって素朴に考えるとややこしくなる。

 

もう個人的にブームが去ったコンテンツにTwitterフェミニストっていう界隈があって、性的消費っていう文言がやたらと流れていた。良く分からないけど、女っていう属性というだけで、男に消費されていて、それが気に食わないという主張。ところででもないけど、これって消費税の観念ともつながっているのかなって。消費税って払っているものだけど、待て、じゃあ違うか。あぁ、分かった、消費されているって声高に主張している人の主眼は、消費するなら対価を返せよということか。ポンコツ観念。

 

そもそも消費って一方的なものでしかないでしょうと。

何を消して費やすかって時間でしかない。

 

変な話だけど、自分が嫌だとか気に食わないものを見て反論に費やす時間も消費で、これを社会の構造のせいだって他責にするのもおかしい話。もっと美しい世界も見られるしもっと自分を探求する選択肢の中で、当人に中でグロテスクなものを選ぶっていうことは、当人人の中ではそれなりのメリットがあるのだろうなと。良いねを押すだけで賛同することには時間は消費しないから簡単にできるけど、これを自分への後押しだと思えるのはなかなか。

 

結論としては、この場は現代のテレビ的な立ち位置だろうなというだけ。

 

 

もう寝るのかという感じだけど、盛り上がったらまだある。

今日はこのまま酔いつぶれて良い日だから。

 

影響とは。

 

毎日読んでいるとされている人が僕の思想的に流れるなんてことは全くない。これができたらキリストさんだし、人はほとんど外界から影響を受けない。思想は行動様式と直結しているから現実が変わる訳で、現実が変わるということは自分が変わるということに等しい。

 

影響という言葉って日常ではあんまり使われないだろうな。使うとすれば他人事としてであって、自分の人格がこの人に影響されているみたいな言い回しはしない。僕の影響の定義はもっとわかり易い。義務なきところにかけた時間というだけ。義務あるところで積んだものは、義務あるところは社会的な人格だから全然違う。

 

これって凄くわかり易いと思うのだけどどうだろう。

返ってくるのが当たり前だと思っていると、足が掬われるし、帰って来ないならそれでいいし。

 

まぁ基本的には対人で影響なんて言葉は使わない方が吉。

あなたに影響受けていますって言われてもきっと困る。

 

ともあれ、言葉の定義ってふよふよしているのに、なんで一元的に見ているんだろうっていう疑問はある。はっきり言うと、文字数が少なければ言葉を発することに労力なんてほとんどない。なくない?

 

あるのだったら、それは言葉じゃなくて行動にあるような。

 

まぁなんでもいいのだけど、人って言葉に合ってないのに言葉に自分を合わせているような。

 

言葉はデコり放題。

 

こここまでかな。

 

ではおやすみなさい。

 

 

 

 

良いことは作るもの

職場のパソコンのデスクトップの散らかり具合が気になる。という余計なことも目に入ってくるようになった。たくさんあるとパソコンが重くなると何処かで見たからのパソコンにはごみ箱以外には、書類とアプリっていう2つのフォルダと今後の方針が書いているからメモ。あとはタスクバーにエクスプローラとメールのthunderbirdとWordだけ。青っぽいタスクバー。エクセルを追加するかどうかは迷うところ。もっとPCを活用するようになれば増えるのだろうか。PowerPointとかPhotoshopは気になる。

 

さて、でもないか。

 

仕事ではなんだか同期がしんどそうで気になる。いっぱいいっぱいになっている感じ。痛々しさで顔があまり見られない。たぶんすべての対応事例を知識として外付けで吸収しようとしているからだと思う。要は、問い合わせの問題とその答えっていう組み合わせがまたやってくることに備えようとしているということ。全く同じ問い合わせがくることはないから、何がポイントだろうって考えた方がよさそうな気がするのだけど、それを言って納得するだろうかっていうと分からない。職場じゃなくて準私的な場で、例えば飲みに行ったりしたら伝えるけど、その場を自分で設定するつもりもないし、たぶんなんとかするだろうし。

 

あと、先生ともう1人の上司では微妙にニュアンスが違うからそこの齟齬もいっぱいいっぱいの原因かもしれない。今週から先生なのだけど、先生は疎通に重きを置いていて、もう1人は即答というか教育に重きがある。根っことしては研修だから空気をつかんで欲しいっていうところでは共通しているからもっと気楽で良いのになと思う。

 

疎通能力の経験値は遥かに積んでいるのだから、もっとうまく自分を使えばいいのになぁと思う。僕も多少の余裕が出てきたから何処に引っかかっているかを教えてくれたら説明するのになぁとか。説明をして理解してもらうことでスキルが積めることになるし。

 

生の哲学的発言はとても好き。

 

人は自信がなさすぎる人にはつけ込んで高圧的になるし、こちらが自信満々過ぎる反発したくなるもの、これは個人の性質の問題ではない。デジタルは入力した情報に基づいてしか判断できないのがデメリットだけど、基準をいくらでも増やせる。アナログの基準は有限だけど、基準がないところで判断できる。などなど。

 

そうして僕はというと、仕事では結構ほくほくしてきている。新人育成のノウハウ凄いなぁと思いながら乗っておけば求められる人材には最低限なれるだろうという上で。限定された空間内での会話を楽しめている。立場が固定されているから、相手の立場上での人となりを見るのが楽しい。今の経験値では、女性の方がややこしくはない。これって自分の属性が男だからっていうところもあるのだろうけど。でも最初に対応したのは男性で、凄く穏やかな人だったけど。対話で心が伝わるとすれば、僕のここでの心は、あなたの話に興味がありますが一番強いものだろうなと。だから、対話の相手を想像しやすくはある。まぁ、ここだけには限らないけど。僕は男性だけど、別に解決脳はあまりない。あるなら肯定脳かなというくらい。仕事上では対処療法脳が一番いいのだけど。

 

ほくほくその1は、こういう脳の回路は全然使ってこなかったから、運動になるという話。この回路は日常に持って帰ってきても意味がある。自分を説明しようとはしなくても、何かを収集するときに説明するならどう言葉を遣うっていう回路があると、自分の中で整理できていないとできないからなんとなく吸収率があがる。

 

その2は、パソコンスキルの話。些細だけど、Excelでセルが結合した纏まりを他の纏まりに追加する方法。普通にコピペするとできない。ほくほくはこのスキルそのものではなくて、その発想から、自宅でまとめている刑法の構成要件要素表の作り方が改善できたこと。先生と飲む機会が作れたら、セルを結合するメリットとデメリットも聞いておきたい。

 

構成要件要素って法学部卒でも覚えているかどうか定かではない話なのだけど、要は犯罪とは何ぞやという型。犯罪という現象について語るなら最低限のものだと思うけど。某花のデモの人たちが把握しているかは定かではない。

 

おそらくだけど、犯罪現象っていう現実の蓄積から、抽象的に型を取って、これがあれば一応犯罪とするというもの。簡単なところだけど、殺人罪の場合だと、人を殺した行為は一応犯罪とする。でもそれが正当防衛だったりなんだりすると罰は受けないことになるかもみたいな。すごくざっくりだけど。要は、主体とか客体とか行為とか行為と結果の因果関係のひな型であって、現実で言う容疑者とか犯人とか逮捕とはだいぶ違う観念。

 

犯罪について語るのであれば、何が犯罪で何が犯罪でないのかっていう指標は把握しておかないといけないだろうなという話。自然に犯罪がある訳ではないし。

 

犯罪で言えば、猫をいっぱい誘拐してきて虐待して殺した事件に器物破損罪しか成立しないのはおかしい、猫は家族だから殺人罪と同じで良いっていう主張もあるけれど、これも抽象的に考えるとおかしい話。でもこのおかしさって、たぶん11人に対面で説明しないと無理だろうなという感じ。まず、家族と言いながら所有しているじゃんっていう事実がある。ということは、家族の観念に所有が含まれているという節もありきなのかどうなのか。

 

 

まぁ良いや。

 

なんだっけ。

 

聖書物語は新約聖書に移ってイエスキリストの時代に入ったのだけど、キリストさんは凄かっただけでもないっていうのは人間味がある。人が自然とついてきたとか奇跡を起こせたとかは合理的に考えるとややおかしい感はある。その性質があれば、世界をまるまる変えられたではないかって。まぁ歴史の話は記憶の話と似たようなもので、何を信じるかによるだろうなとは思う。違いは、信じるものが多いと歴史になるっていう感じか。

 

ともあれ。

 

これ書いたか忘れているのだけど、日本人の宗教観。無神論者が多いのが特徴だけど、本当は、基づいて行動する指針は外にあるから宗教とあまり変わらない。一番強いのは世間かなと思う。ものさしを他責にする傾向。世の中がこうだから自分はこうしているし他人にもそれを求めるのだ論。でもこれって日本の地理的な歴史を考察すると、もともと天災とか天候みたいなものが基準だったのではと思う。どうしようもない理不尽なのだから、それを踏まえて動くしかないっていう性質があるのでは。っていう単位が国家に移り、社会に移るにつれ、これって自分も使えるじゃんって、理不尽をふりまけるようになる。

 

これって、悲しいことなのかというと微妙なところ。個人の尊厳を守るっていう憲法が発足する前からそういう私的な社会としての階層はあった訳で、そういう理不尽の纏まりが公然なって、声が大きな個人が強くなるっていう時代ではある。ただ、そういう小さなまとまりでも、声が大きいだけでは強者に居続けられるわけではないから、自浄作用は期待できる。

 

でも、個人であることって、素朴に考えると当たり前のように思うけど、厳密に考えるとかなり難しい。これって自分が人をどう見るかと直結していて、人を相対的に見てしまううちは自分を個人としては見られない。例えば、歴代の好ましい人を共通項で括ってしまうと、それは個人を見ている訳ではなくなるし、ということは自分も誰かの共通項で括られても致し方ないということ。

 

そういう共通項を取り去った後でも個人で居られるかというのが個人主義の最終地点。個人が個人で居るだけで個人として認められるみたいな話は幻想で、個人で居るための努力が必要だっていう、資本主義とは別の階層の対価がないかもしれない努力を要するということ。

 

みんなこんな世界を求めているのかしら。僕はともかく。かなり大変だと思うけど。

 

という感じで、おやすみなさい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

見えるものと見えないもの

大宝律令を初めとした日本史の法制度の中身が気になる今日この頃。教養としての日本史という東京大学出版の割と古めの本。割と背景的なことにも触れてくれるのだけど、法制度は役職の名前と説明で留まっている。租庸調とか侍所政所とか、墾田永年私財法とか。なんとなく想像はできる。

 

今日は最初から本題。

 

識字率も今と比較すれば低かったのだろうから、当時の法律は誰でも分かるものっていう公向けというより、今で言う行政機関間の通達っぽいものだったのでは想像。通達っていうのは、現代行政法だと上級行政機関から下級へ向ける命令であって拘束されるのは対象行政機関だけで国民を拘束するものではないとされるものだから少々違う。んで、きっと細かいところは当時の国家を担う機関個人の裁量に任せられていたのだろうなと。つまり法は豪族とか貴族のためにあった。

 

でも、時代が移るにつれて、識字率は高くなってきたという認識。綱吉さんの生類憐みの令がどれくらいの率の国民に読むことができたのかって想像すると面白い。そうして、字が読めない人はその当時、人ではなかったのかなとか。今でさえ文盲って差別用語みたいだし。

 

僕は日本史より世界史の方が好きだから、こういう文脈で分析してみたい。世界史の方は宗教観と法ルールと文化みたいな観点の方が面白そう。日本史も宗教と法制度が繋がっている感はあるけれど。

 

そうして時代は現代に戻ってくる。今はほとんどの人が識字できるし、法律も最低限のルールですとされている。裁判所が判断するときも、一般人が具体的な場合についてこれが法に触れるかどうか判断できるかどうかっていうものさしが用いられていることもある。けど、法制度のしくみが細分化しすぎていて、自分がどういった法律に縛られて守られているのかを把握している人ってきっと法学部卒でもあんまりいない。ということは、識字率とはあんまり関係ないのかもっていう問題提起が芽生える。

 

文字が読めるといっても、あくまで何を読むかは任意であって、自分に関わっているといえ、世界の仕組みに対してどこまで気にするかっていうのは強制できないし、きっとしない方がいい。義務教育に法学教育をっていう憲法学者さんが居て、それを見たときは確かになと思ったけど、今はちょっと違うかなという気分。何故かというと、僕も小さい頃何か人に不快を与えたとき、法律で決まっているのかって言ったことがある。つまり、法律って拳銃と似たような圧倒的な力がある。こっちは暴力じゃなくて、権威だけど。

 

そういう力を持った人が全員正しくそれを使えるかって、なかなか怪しい。これができると断言できる人は、自分が強い立場になったときに下に理不尽を投げない自制を自覚できる人。いやいや、最低限の強制力しかないんですよっていう前提で教えることもできなくはないけど、ただ、この教え方で従う人がどれだけかって。人って権威を使うことも好きだけど、権威になんとなく従うことも好きだと思うから、うまくそれを使って国家をコントロールしてきたのだろうという側面もあり。

 

なんとなく従わないといけないものを全部取っ払ったとき、自分が人間的に振る舞えるって言える人ってどれくらい居るのかという話。そういうなんとなくの塊が社会生活には必須なものだから、自分の不都合だけ取り去るなんてことはできない。

 

なんの話か分からないことになってきているから、生身に少し戻そう。

 

 

個人的な関係性も似たようなところがあるなって思う次第。なんとなく自分の意向に従ってくれる人が居るならば、その関係において自分は権威とか力を持っていることになる。というのは別にありがちだから良いとしよう。優位性の中でしか人と関係している気がしないっていう人はいっぱい居る。

 

じゃなくて、言葉での言葉の関係性。関係の歴史がどれだけ積み重なっていようがなかろうが、自分のことを語るときには発話側は圧倒的な強者だなと思いついたことが今日の日記の根っこにある。厳密には、自分のことを理解して欲しい時に限りだけど。

 

そうして仕事の話だけど、同期の対応は自分が対応される相手だったら気持ち悪いと思ってしまうだろうなって感じる。弱者感を出した媚びが嫌だ。これって当人が情報とか知識的に強者になったら権威に変わるだろうなって。これで強者になっても変わらなかったら認識を改めるけど。

 

かといって僕の対応の拙さは別の話。最終型は、寄り添いじゃなくて穏やかさで安心感を与えながら説明することだろうとは思っている。抑揚で感情乗せるのはそこそこでもっと本質的なところだろうなと。

 

まぁいいや。

もっと言葉の話。

 

メルロポンティさんの言葉論を読んでいる。かなりややこしいから理解しきれてないけど、要は、知覚と言語は繋がっているものだってことなのだろうなって言う認識。

 

僕はあまり意識していないけど、一般の人が遣う言葉ってどれだけ抽象的な概念を扱っていても、自分から離れた言葉は扱えないということ。

 

つまりこの文脈だと、自分の言葉を理解できるかどうかの指標は、自分の知覚と相手の知覚が一致しているかどうかということで、器としての肉体を重視しているということ。自分が遣う言葉当たり前に通じるべきという観念がある。自分の中で理路整然に言葉を並べているつもりであれば、通じるのは当たり前という感覚。

 

でも、伝えようとするなら、ピンポイントの相手の知覚にも配慮するのがあたり前。これをやらずに、他人事で共感される相手を求めるのはややずれている。

 

僕が言葉を選ぶのは、別に自分の中にあるものを適切な言葉にあてるためにやっているのではなくて、この相手ならどの言葉が適切かっていう話であって、自分の本質が言葉で括られるとは思っていない。

 

この感覚って結構大事だと勝手に思っている。

 

 

では、おやすみなさい。