硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

求心

久々にマヨネーズを買ったら、二段階蓋の一段階目が細い穴2つになっていて、何もしなくてもオシャレな盛り付けになる。素晴らしい。ここから食に関するデザイン性と機能性について少し考えた。

 

 

納豆はデザイン性を気にしなくて良い物なのだろう。調味料の違いで独自性を追求したり、機能性も気にしたり。味の違いは僕にはよくわからん。機能性では、まず、蓋にたれが入っていてフィルムもなく、蓋を半分に折るとたれが出てくるやつ。折ったら出てくるって、マーガリンとジャムとかでもあったような。これって資源の消費を削減するという意味ではかなり良いのだけど、そこまで普及していない気がする。それはきっと、納豆消費者の総量として資源より辛子だったのでは予想。そこで最近出てきたのが、従来のたれと辛子形式のままだけど、小さい袋を開けるのを失敗しないように押すだけで開くタイプ。どういう技術なのか分からないけど、溶かしてくっつけるみたいなことはしてないのだろう。

 

ここで学ぶことは、ささいなものの中にも技術の結晶がある、みたいなこと。使う側の一方的な視点から見れば、もっと使いやすくしろよと自分の不満しか出てこないけど、色々な面で凄く変化している。まぁこれってそれを追求することが対価として返ってくるっていう経済活動だからだけど。

 

でも何かが返ってくるから行動するっていうのは人間の本質。

その「何か」にはバリエーションがあるのも人間。ヘーゲルさん曰く思考するのが存在らしいけど。僕の対価は相手によりけり。先にあるのは相手の、需要じゃなくて許容。それ以外では、本を読むとか日記を書く時間を確保してくれれば問題ないかなと。料理を食べてもらうっていうのはそれだけで何か返ってきているだろうし。全く良い人ではないことも自覚済。だからややこしい。

 

さておき。

 

満月を越えたからかどうかは知らないけど、精神的にはだいぶ安定しているような気がする。自分の精神性を月齢で統計取っている訳ではないから定かではないけど。月齢と天災とか月齢とサーバーの不具合とか、この切り口で色々考えてみたら見えるものがあるかもしれない。ただ、見えるものがあったとしても周期的にやってくることは変わらないというやるせなさ。月をぶっ壊せる科学力があればどうか分からないけど、ぶっ壊したあとに何があるのかも分からないし。周期的じゃなくランダムでやってくるようになったらもっと大変。というのは、女性の月のものにも近いような。確か月齢と同じような周期ではなかったっけ。

 

まぁ、準備できるかどうかっていうのはささいなようで重大な違いだとは思う。人は精神性の中で生きているから、心構えというのは大事。男って外的な周期性の要因がないからなんとなく安定しているように見えるけど、括ることができるものがないだけで本当は波があるのではないかっていう仮説。ここに無自覚だからあまり関われない部分がある。

 

 

ともあれ。

 

仕事の話。

 

昨日とはうってかわって今日の対応相手は穏やかだった。穏やかではなかったのが先生でかなり負担がかかっていて、下にはやらないけど同等以上の立場の人に対してはなかなか当たっていた。これも月齢なのかどうかは知らないけども。この辺りもスマートだと思う。不満のポイントをちゃんと分けているところが好ましい。ストレスを投げやすい下には向かわせないように絞る。こういう上司が居る職場だと、行く行くは先生の負担を減らせるところまで積みたいと思える。飲みに行くことがあれば、何に特化すれば良いですかねって聞きたい。人として好き。

 

そうして、もう1人の上司は別の意味で好き。あだ名はまだ見いだせないけど、先生と共通項がある部分とない部分がある。おそらく同期に近くて、この二人にしか投げられないことがいっぱいあるのだろうなという感じ。この2人はちょっと違う軸に生きているような。

 

 

やれやれ。

 

 

今日は少し法律学の話を。

 

会社における株式の概念とか、憲法で認められる権利とはの部分を読んでいたのだけど、法律学と数学には通じるところとそうではないところがあるなって。数学ってまず現実にある数から始まる。リンゴが何個とか。それから進んでいくと、頭の中にしかない概念になる。分数の割り算辺りからかなぁと思っているのだけど。法律も同じ。まず自分が現実の中で自分に降りかかる法律はなんぞやというとことから。で、やっているうちに人が抽象化される。関係の学問なので。

 

違うのは、数学に関してはどこまで行っても自分の現実とは全く関係ないから抽象的な概念操作はできるけど、法律に関しては現実が関係してくるから、現実から離れた純粋な抽象的な思考はできない。例えば性的な被害を受けた人が、性犯罪に関して自分の経験から離れらないとか。

 

自殺の自由があるかどうかっていう憲法学の議論を読んだときに思ったのが、憲法上の存在って、肉体っていう器を主眼としているのだろうなって。もちろん、それでしか統一化できないっていうのは分かる。物は有体物だし、プライバシーとか名誉棄損も、そういう情報が公に可視化されるかどうかを基準とするのは最低限の網としては当然のやり方。

 

ただ、個人的に相手を捉える時に、こんなざっくりした網で良いのかっていうのは俎上に上げていい問題。自殺する自由を認める社会って、人の精神っていう見えないものを承認する社会だけど、これがまともになるために必要なことって、だいたいの人が自分の精神性を個別なものだって分けられる世界であって、器のコンプレックスとかをどうでも良くする就業を要すると思う。

 

自分が自分のままで承認されるっていうのは、相手を相手のままで承認すると表裏で、一方的に求めるのはおかしいことになる。

 

承認した上で、関係するための調整なら分かるけど。

 

最後。

 

戻ってくるけど、思考することが存在だっていうヘーゲルさんの定義は正しいと思う。ここでいう思考はきっと自分のことを範疇にすることも含めているし。僕の周りの人が自殺してしまったしたら、それは悲しいことで自分の精神の中で背負うことだけど、だからと言って、死ななくても良かったという方向でその人を責めることはないかなと。これってまったく関係ない他人でも同じ。自分の世界でしか見ていない。悲しいのは確か。念のため。

 

 

まとめると、人って、人を肉体に根がある現実的側面という器でしか見れないことが多いのだろうなという話。僕のこの日記がどの側面にあるのかっていうは微妙なところだけど。

 

おやすみなさい。

 

 

 

 

 

 

ないもの収穫

どうやら逮捕されたみたいね。無差別に巻き込まれる前に逮捕になった、というより無差別を目的とはしなかったのかな、良く分からない。関テレ常務の息子だったのか。周到さからすると個人的には何か先があるような気がしないでもないけど、可能性的ものさしで考えると、一番なさそうな可能性を現実化させてしまう感がある。どの可能性も等価とするならよりなさそうな可能に重きを置かないと釣り合わない。変なの。

 

しかし、ざわざわは収まらない。単に満月のせいなのかもと思ってきた。満月の時は月の引力が最大化するから(間違えてないといけど)、人が不安定になる。狼男の伝説は案外事実の寓話化だったりする。狐憑きはどうなのだろう。人の成分で一番多いのは水分だし、影響がないことはきっとない。ともあれ、感じやすい人、かつ、本質が表面に上がってくるのが満月の日なのかも。僕の場合は、あまりよろしくないけど、死が近くなる感じ。厭世的とか自己肯定感がないという話ではなくて、僕がいなくても世界は回るだろうなという感覚。正しいけれど正しさだけではない、っていうのは外付けの諸々がある。

 

まぁ自分の最後のとき誰に何を伝えようかみたいなことはよく考えるけど。例えば地震で建物の倒壊に巻き込まれたときに、もう死ぬしかない状況でスマホが手元にあるときとか。何も伝えない方が良いと思われる人と、伝えても大丈夫だろうなと思う人と。この文脈で個人的に熊が怖いのは、熊に食べられながら実況中継しながら亡くなる話があって。これで言ったら、宇宙兄弟の事故で亡くなる前のレコードとか、山岳漫画で滑落した人が亡くなるまでの発言とかもそうだけど、極限状態で自分が何を残すのかっていうのは想定していてもきっと無理ではある。痛いとか暗いとか言いながら死んでいくのかもしれないし、死にたくないって言うのかもしれないし。まぁ、自発的に行ったりはしないけど、死は遠くないよなというだけ。

 

そういえば、「が」と「は」の使い分けというのを見かけた。「が」は事実で、「は」は主題ということらしい。なるほどとは思うけど、ある程度直感で使い分けているから知らなくても問題はなかろうと。

 

さておき。

閑話休題

 

死が暗い概念なのかっていうのも怪しいけれど、とりあえずご飯が美味しい(事実)。「は」でも問題ないけど。実家から送られてくる玉ねぎは何故こうも美味しいのか。紫じゃなくも硫化アリルをあんまり気にせずサラダにできる。ブナピー(真っ白なしめじ)を買ってみて豚肉と玉ねぎの半分とカレー粉炒めにしてみた。パッケージには、オルニチンが豊富だって書かれていて、これってなんだっけと思ったら、二日酔いに有効とされている貝だった。シジミ。でも、豊富と言われても、シジミと比べてなのか、他のキノコに比べてなのか分からないという。美味しいけれど。食で失敗したのは、帰りにスーパーに寄ってコーヒーを買ったのだけど、無糖と思ったらカロリーオフの微糖だったところ。人工甘味料の甘みって気持ち悪くなるから、申し訳ないけど捨ててしまおうかと思っている次第。カロリーが欲しい。

 

 

やれやれ。

 

満月が本質を曝け出す流れなのかは知らないけど、今日は仕事でお叱りを受けた。運が悪かったって先生は言ってくれたけど、確かにサーバーエラーだとしても、問い合わせの回答通りにやって不具合が出て、できないじゃないかって聞かれて、まだ確認中だって言われたら怒るだろうなって。三連続で同じ人物が回答してそうなったらしょうがない。めぐりあわせも悪かった。他の人が回答していたのを修正するなら、もっとやりようがあったのだろうし、知識と技術がもっとあればなんとかなった事例だけど、怒鳴られるのを受け入れるしかなかった。

 

先生は慣れが大事だって言ってくれているし、自分でもそうだと思うのだけど、こういう怒鳴り自体に慣れるっていうのも有益だろうなと思う。怒鳴れると体と精神が固まってしまうことから、毅然と対応するっていうこと。怒鳴り事象の根源は母親なのだけど、一時期そりゃあ凄かった。機嫌が収まるのを嵐が通りすぎるのを待つようにじっとしているしかなかったし。1つ覚えているのが、母が運転する車に僕と妹が乗っていて、祖母宅からの帰りの山道でヒートアップした母親がこれで良いのだろーって急発進と急ブレーキを繰り返したこと。なんでそうなったのかも定かじゃないし、本当にそれがあったことは証明できないから、捏造の感がなくはないけど、そこで考えていたのが、あぁ恐怖感を感じさせたいのだろうな、じゃあ怖がっている風に演技をしとくか。あとから妹にお兄あの時めっちゃ怖がっていたなって言われたことまでがセット。

 

ということで、人との対話に慣れるっていう意味では怒り事例にもっと接しすることが大事。私的な関係で怒る人は離れた方が良いと思うけど、社会には怒ったら相手をコントロールできるということで怒りを道具として使う層も居るから、そこに対応しなきゃならんなという意味。そういうときには相手の言い分を肯定してはいけないらしい。もっと怒り事例に当たりたいドМ。

 

どうあっても自分が拙いというのはしょうがないなぁ。なんでこんなに賢くないのか。それは、そこに重きを置いていないから。っていう自己完結はしているのだけど、それでは駄目だろうって外付けで改修工事をしている。

 

個人的な収集の話は全然面白くないからなぁ。というか、分かるように書けないか。技量不足。

 

おしまい。

 

 

 

 

 

 

 

 

理不尽への考え方

朝起きたら外がやたらと騒がしい。ベランダに出て洗濯機の上から空を眺めてみると、ヘリコプターが2台飛んでいた。どうやら事件とのこと。調べてみたら警官が刺されて拳銃が奪われたとか。まだ捕まっていない。今日の外出時間は10分程度という最大限の自衛。でも、コンビニへの行きと帰り、普通に人を見かけた。子供が見えなかったのは良い。一応現場から徒歩圏内だけど結構安穏とした雰囲気。自分だけは大丈夫と認識しているのだろうか。でも、拳銃社会だったら普通な日常だと思うとなかなか。

 

少し考えると、犯人は捕まらないとは思っていなさそう。捕まらないと思って軽率に行動していればとっくに捕まっているだろうし、かなり計画しているのだろうなと。明日大阪市で休校にするのは適切な措置。計画性からすると、監視カメラに映っているのも計画の一部なのではと思わなくもない。今の季節一晩屋外で過ごすくらいなんともないし、なんなら警戒線が引かれる前に何処かの民家に押し入って家主をどうかして潜伏していたりしたら操作は難しい。引かれる前に電車で移動も考えられるけど、タイムラグという不確定要素を計画に組み込むのかなと。

 

で、目的と手段の話だけど、手段として拳銃を手に入れたのであれば、無差別を目的としているような気がする。かなり合理的に動いているように感じるし、目的が殺人だったらナイフでも構わない。明日捕まってなかったら休校にするっていう措置は賢明だと思う。でもふと思ったのが、無差別だったら車でも良いのではというところ。とはいえ、次点で何が危険か。数打てば当たる論理で言えば、密集地帯が一番合理的。とすれば、一番現場から近い密集地帯は大学。その次の密集地帯が僕の仕事場がある駅。でも、何か社会にアピールするには衝撃が少ないような。

 

別に犯罪者に共感するつもりはないけど個人的に凄く胸騒ぎがするから考えてみている。

ナイフで刺された警官も、当初は重傷だったのに今は重体になっているし、なんだかきな臭い。まぁ1つの胸騒ぎは解消されたけど、この胸騒ぎは自分への危険性なのかもしれない。

 

自分は死なないとは思ってない。

結局のところ、人を一番殺し得るのは人であるのは確か。これは肉体というより精神に係っているけど。

 

とはいえ、可能性の収束のどの時点で警戒するのかという話。

危なさなんて想像すればほぼ無限にあるわけで、警戒するかどうかを決めるのは当人しかない。警戒ってなんぞやっていうのと、結果を回避するっていうよりは、単なる心構えに近い。実際拳銃を装備した犯人に遭遇したり、震災に見舞われたりしたときに、回避するっていう選択肢はないし。

一応、明日病欠してみるっていう回避策はあるけど。もっというと、満月近くなると人の精神は不安定になって犯罪率が増すから、満月近くには外出を控えるとか。そんなの理不尽だっていう見解もあるだろうけど、犯罪とはこんなものだという気もする。刑法は人の行動の自由を尊重しつつ、ある行為だけ罰するものであって、誰か個人を救うものではない。ギリギリの秩序を保つ機能しかない。しかっていうと仕事をしてないって見られるかもしれないけど、その機能しかない方が良いっていうのが今の暫定的正解。

 

この流れで、Twitterでよく見ている界隈の痴漢問題。被害者に自衛を強いるのは被害者に対するセカンドレイプだっていう主張。周りの人が助けろよっていうのも分からないではない。けど、その周りの人って別に何の義務もない第三者であって、第三者に助ける義務があるのが当たり前だっていう感覚はかなり他責的なものさしだと思う。そもそも、犯罪の被害にあう可能性が高いところを回避するっていう自発的な行動はないのだろうか。多くの人は学生時代の経験を前提として語っているように見える。確かに他の行動を選ぶことはできない。満員電車を回避する選択肢がないし。

 

この事件に引き直すと、吹田市の危険度が増しているから警戒してくださいっていうのと、満員電車の危険度が高いのはあまり変わらないような。一駅歩くとかでも変わってくるのでは。となると、自分が他の人より労力をかけなきゃいけないことに対してそもそも不満があるのではというところに至る。昨日のヒール・パンプス問題も、男性に比べて女性は労力がかかるみたいなところに根があるような。これ自体は大したことではない自然な考え方。人は自分の指標でしか物事を判断できないだけ。

 

まぁ、社会通念の違いっていうのも分かるけど、社会通念もマジックワードだからなぁ。

男は料理ができないって通念がある人はやってない人にしか接していない訳で。

 

個人的には、なんで匿名的でフェイク情報も不可避なところで真実を語ろうとするのかっていうのが疑問だったりする。誇張されているって思われても仕方ないと思うのだけど。

 

これで社会は変わるのかいな。だいたい都合の良いことだけ採り入れることになってより隔たりができるだけなような。

 

僕はそもそもこういう意味の言葉にあんまり重きを置いていない人なので。

公開できるトラウマは消化できた後のものだという説。

 

さておき。

 

 

劇評が公開されました。一緒くたに貼られていると読む人大変ではなかろうかと思わなくもない。誰が読めるのかって。合計何文字読み切らなきゃならないのか。

 

僕も読みにくさであんまり読めていない。けど、最初の人だけは残っている。

 

主人公のセックス依存症がしれっと治ったことに整合性がない、みたいな言説があったのだけど、僕の中ではこの人はそれではなかったから、なんの転換期がなくてもそうではなくなって問題ないという説。セックス依存症って自己肯定感をまぐわいに求めることであって、まぐあいの快感自体に依存している訳ではない。自己肯定感自体はまともにあって、単に関係性の希薄を問題にしていただけであって、関係が濃いものを知れば、そっちの方が良くなるのは自然かと。

 

集合的関係はどうあっても薄くなる。

 

 

つまり、自分が関係している人に対して、集合的に見ているかどうか。

僕はそういう風に見られたきっと存在していない。

 

これが最後の日記になるかどうかは分からないけど、いつもそんな感覚だから問題はないか。

 

ではでは。

 

おやすみなさい。

 

良い現実を。

 

 

人の精神性に関する諸々

阪急オアシスで父の日おつまみセットを発見して買ったのだけどなかなか完成度が高い。蒸し鶏ときゅうりときくらげの中華だしっぽい和え物と、カモっぽいハム(たぶん豚)の下にスライスオニオンのマリネ風と、ビビンバ。これで300円って居酒屋の突き出しでもなかなかないような。奮発して作ってくれたのかな。僕の中では料理の凄さとは再現するのがどれだけ難しいか、が基準になる。

 

父の日か。父親については定期的に思い出す。行動原理の軸が読めない人だった。思い出すと、だいたい悲しくなる。系譜は受け継がれているのだろうなぁ。僕がもっと早く自分に成っていればあるいはと思うとどうしようもなく悲しい。理解者になりえた唯一の家族だったのにという意味で。取り返せないものはしょうがないけど、記憶から排除することだけはしないようにしよう。それだけしかできない。

 

さておき。

 

昨日は時間配分を間違えてここには書けなかった。別に気分が落ちているとかそんなことではないのでご心配なく。配分を間違えたことに後悔はない。

 

ということで、昨日書こうと思っていたネタ。

 

自分を変えれば世界は変わるというけれど、自分を変えたところで変えたかったものは変わらないっていうフレーズを見かけて、これは真だろうかっていう思考の流れ。

 

順を追うか結論から語るかっていうのは、ニーズによって変わるけどここではどうなのだろう。とりあえず僕の直感ではこれはおかしいだった。

 

整理してみる。そもそも自分を変えるっていう意味。たぶんだけど、このフレーズを発した人が自分を変えたことがないっていう想像になる。自分を変えるって、単に認識を改めるみたいなすぐ終わる作業ではなくて、自分で意識して修正する作業を年単位でやる必要がある。啓発本読んで変わるくらいならもっと世界は平和になっている。

 

んで、変えたかったものとはなんだろう。例えば世界そのものとかいう大きなものでも、人は世界の採り入れ方を無意識で選別しているものだから、自分を変えてみたら変えたいと思っていたものが取るに足らないものだったっていう結果は起こりうる。じゃあ、自分が接せざるを得ない他人の意識とかだったらどうだろう。これも変えようと思えば変えられなくはない。けど、費用対効果としてかなり割に合わない。逃げたら良いに変わるっていうのはあるかもしれないけど。

 

ところで、変えるとは別のところで変わっていくのが人間。時系列上のライフステージの中での変えたいものだったとしたら、時系列が動けば取るに足らない欲求だったということになる。これは、自分の器としての時系列と精神性を連動させているかどうかだと思うけど。

 

あと、ここが一番重要だけど、世界に対する不都合性って当人の自我と直結しているから、自分を変えることは自我を崩壊させることも孕んでいるような気がする。幸せスイッチの話ではないけど、不都合性とか弱者であることにアイデンティティを見出している場合、これを取り除いても自分であれるのか。

 

僕は自分の汚点とか後悔とかいっぱいあるけれど、これをなくそうとは思わない。自分が自分である証拠みたいなものだし。けど、未来に対しては過去とは別だろうなと思っている。

 

 

結論としては、世界が変わるのにアイデンティティが変わっていないことがおかしいということ。自我をそのままに世界だけが変わるのはご都合主義に見える。

 

変えたくない自我の部分は誰にしもあるのだけど、その自我のデメリットを他責にして呪詛を言霊に載せるのは違うかなって。これは自分が選んだ自分だから、デメリットも当然受け入れなきゃならない。

 

次。

 

仕事の話。

 

ある顧客への応対の後に、硯さんの顧客の違いはどこにあると思いますかって上司に聞かれて、答えに窮していたら、寄り添いがあるかないかですって言われた。めんどくさいことをやってもらうのだから、残念そうな声色にしなきゃいけないって。同期はそれができているとも。

 

念のため言っておくけどこの上司は先生とは別の人で、先生とは別の意味で好きだったりする。あだ名は何にしよう。

 

んで、これを言われて思ったのが、僕が声で寄り添わないのは日常がそれだからだろうなと。むしろ、声色だけで寄り添えていると思うのが茶番だっていう物差しまである。たぶん声に感情を乗せなくした経緯っていうのがどこか時系列にあったはず。1つ思い当たる中学時代のエピソードがあるけど、なんだかモテエピソードみたいなことになるからやめよう。

 

人に寄りそう時、言葉みたいな簡単な手段は取らない。 言葉だけの同調が欲しいなら他の人で賄ってくれっていうことになる。これは僕が寄り添ってもらっているなって感じるのが非言語でそうなっているときっていうのがあるのかも。

 

言葉に対する不信感が根っこにある。いつできたかは悲しいエピソードだからやめる。

これは自分の言葉に対しても言えること。世界は一方的なものではありえないので。

 

現実世界にまつわることなら、自分はこう行動するみたいな記述は要らないように思う。その発言をする前にそれをすれば良いだけ。しましたなら問題ないけど、細かく書くと切りがないからやめとこう。

 

僕がこの上司を好ましいと思うのは、寄り添いの声色を純粋に技術的に捉えているところ。同期ができているっていうのは、自分が拙いっていう状況と日常で、自分が寄り添われたいから寄り添っているっていう天然なのもきっと把握している。他責するところが全然好きじゃないのだけど。焦っていたからこうしてしまいましたって表明するのって結構ずるい。同期のこれって、自分が慣れて強者になったときには転換するような気がする。知らんけど。

 

 

上司は声質的には僕と近いところがあって、きっと10年の試行錯誤で内的にはどうでも良いって思っているスキルを積んで来たのだろうなと。不器用さが好ましい。だから細かく指摘してくれているのだと思っている。難しいと思いますけどってちゃんとフォローもあるし。

 

飲んでみたい人第2号。

多分プライベートと仕事は峻別しているからそんな場はない。作ろうとしなければ。

 

もう1つ。

 

つぶやき場界隈で見かけた、靴運動について。

 

女性のヒール強制が差別だっていう主張だけど、目的と手段が混同されている風。

 

個人的に電車で通勤していたとき、ヒールの人ってあんまり見かけなかったような。歩き方が綺麗な人とは魅入るし、歩き方大変そうだなっていうのは眺めていたような気はする。かなり意識して歩かなきゃいけないのだろうなと。

 

ではなくて、目的と手段の話。

 

例えば、目的をヒール付きの靴の健康被害を回避するって設定するなら、手段を女性差別だって訴えるのは悪手。差別だって言ってしまうと、他の事例とかとも比較しなきゃならないからややこしくなる。

                           

でも、主張している人はどうしても差別だとしたいらしい。ということは、目的は女性差別があるっていうことを公に示したいということで、女性個々人の健康被害は手段なのかって思う。どちらが大事なのだろう。目的が健康被害の解消であるならば、手段は単に健康被害を強いる労働環境は非合理だ、で済むはずだし、これだったらすんなり世間も納得するような気がするけど。

 

差別論って難しいのだけど、基本的には法的取り扱いの不平等で収めておいた方が良いような。ヒール論も、就業規則で明示されていたら法的取り扱いの俎上に乗るけれど、そっから先の、社会通念としての素朴な区別を差別としてしまうと、自分が差別者になることにかなり敏感に過ごさないといけない。被差別者という立ち位置を保てるなら良いのだろうけど、世界はそんなにご都合主義にはできてない。

 

そもそもだけど、区別することって人間の根幹にあるもの。区別と差別は違うって言うけれど、差別は社会的な意味が色づけられているだけで、個人レベルでは同値なもの。誰と接することに時間を配分するかって当たり前の話だけど、これの主語を大きくすると差別になるみたい。

 

ということは、差別意識って人である以上、デフォルトで搭載されたものなのでは。下がいる方が安心できるっていうのがそれだし、上に対してもそうだし。つまり、私的な領域の区別までにもってくると人はすべからく差別の主体になりうるということ。ここまできたらそりゃそうだってことになる。私的時間も労力も自分が好ましい人に使うのは当たり前なことが、差別になったりする。

 

ヘーゲルさん曰く、区別が人間の精神の本質だとのこと。自分と自分以外のものを分けないと自分の精神は確立しない。

 

差別されているっていう感覚よりも、差別しているっていう自覚の方が大事な気がする。

 

おしまい。

 

 

 

輪郭

寝る前には、人間関係は糸電話みたいだなと考えていた。どういう意味かは定かではなないけど、糸電話は振動が流れて相手に届くというところと、繋がりはなかなか儚いものだよなぁとか。どの瞬間でも人は亡くなる可能性がある訳で、両方が糸を張っていないと糸電話の振動は相手に届くことがない。だからとてどうするかは別の話。

 

 

さておき。

 

仕事は、慣れてきてはいない。データにフィルターをかけて目的に合わせて使いやすいように拾い出すサービスがあるのだけど、それに特化した人を育成しようとしているって言われた。直接僕を育てるとは言っていないけど、何か見出された感はある。まだ一般的な応対もままならないのに、と思ったけど、穿って考えると、まともな応対には先はなく、まだこういう方面では見込みがあるということかもしれない、とか。まぁどっちでも良いけど。どちらも欲しいものだし。

 

発話スキルって、中の人がどうあれ感じ良く捉えられるようにするもの。クッション言葉とか復唱とか。そんなことを考えていたら、なんとなくサイコパスを隠すこともできそうだに飛躍して、サイコパスとはなんぞやってとこに至る。

 

サイコパスって標準の人が倫理感のブレーキを踏んで止めるところで、合理とかいうか利己でアクセルを踏む脳構造がある人っていうイメージなのだけど、合っているかしら。でも、倫理観って時代とか社会によりけりだから、それを取り去ってみると何が違うのだろうと。僕は割と倫理観は欠如していて、たまたま傾向が利他寄りだから特に何事もないけれど、やっぱり何かおかしい気はする。まぁ、合理的に自分の利益を追求するのは自我を持った人間の本質である訳で、これがなければ人間社会の発展も存続もなかったのではとも考える。誰かを大切にできるのも自分の存在が継続していかなければなしえないものだし。綺麗ごとも嫌いではないけど、言葉は未来や世界に対して自在だからなんとでも言える訳で。言葉でやたらと倫理観を示す人は、僕から見ればサイコパスみがある。

 

 

合理性でいうと、日本人はもともと合理的にできていないっていう記事を見かけた。日本人は特別だっていう主張にはだいたい日本人は優れているっていうニュアンスが含まれているけどここにはそれがない。どういう話だったかというと、電車が20秒早く出発したことで鉄道会社が謝罪したっていう日本人は狂気じみているっていう話題から始まって、食生活が縄文時代から変わっていないとか、日本語は世界で特異だとか。

 

面白いなと思ったのは、日本人だけが虫の声を生活音と独立させて聞いているっていう話。外国だと右脳で捉えるけど、日本人は左脳で捉えているみたい。別に虫の声を聴くことに合理性はないっていう話。外界の捉え方が違うのかな。

 

という話を見ると、日本人で良かったなと思う。無駄がある方が好きだから。

 

 

そろそろ最後か。

 

論理的思考の手法を本格的に習得しようと思っている。樹形図とかマトリクスとか時系列で整理するとかしながら、問題になっている事柄について漏れなく重なりなく考えることらしい。

 

ただ、これを習得しようと思うのは、むしろ論理の外にあるものを捉えるためのような気がする。自分が捉える事象って解決したいもの理解したいもの説明したいものとそれ以外があるのは当然。前者に関しては役立つだろうけど、後者に対してこれを使ったら歪なことになりそうだから、混同させないために使いたいところ。非論理を論理的に説明したってしょうがないし。

 

 

あとは、知識って自分が知っているものの新情報なのかなという思い付きがあったけど、今日はやめとこう。

 

 

おやすみなさい。

 

吸収率

やっぱり一息で書くようにしないと意味がないな。途中で分断されたら一塊の思考にならなくて、回転が上がらない。それでも一般的には問題ないのだろうけど、これでは駄目だ。ちゃんと自分で時間を制御しなければ。動画見ながら書いている場合じゃない。

 

さておき。

 

もっとバンバンと電話を取るようになるのかと思ったけど、上司はペースを緩めてくれている。1人だったら上司はもっとスパルタでやりそう。同期にする指導より要求が高いような。個人的にはもっとペースを上げたいけれど、自己本位に振り切れてはいけない。調和大事。経験値をまるまる還元できるように意識しよう。

 

 

昨日の日記で元気が移動したと書いたけれど、人から人へ移動するものについてうとうとしながら考えていた。元気の例では、より元気な方から元気じゃない方へということになるとして。自然は高きから低きに流れるのが自然。高気圧から低気圧に空気は流れるし(理解不足)温度も、暖かく感じるというは、高温から低温へ温度が移動している。この2つから、人と人の間を移動するものも、高いから低いへ、大きいから小さいへというように優位なものから劣位なものへ流れる法則があると仮説付けた。

 

人間関係はこんなに単純なものではなくて、この法則によっても流れは一方のみということはない。あと、意志で流せるものもありそう。お金はちょっと違うけど。お金はあくまで交換にかかるものだから、何にせよ等価だろう。お金に乗って流れるものはあるかもしれない。流れるものじゃなくて、間にだけ発生するものが感情であることも、別に矛盾はしないだろう。嬉しさとか、嬉しくさせようと思って流せるものではないし。

 

自分と関係している人とは両方にとってプラスになるように成りたいものだ。

 

そういえば、試験は落ちていた。一週間前くらいに既に結果は出ていたのだけど、知らずに次の段階の対策をしていたという体たらく。結果を気にしないを体現している。全く悔しくなくて、やっぱりなぁくらいの感想しか生まれなかった。欠落している。まぁ僕はこういう風にしか生きられない。むしろちゃんと腰を据えて再構成できるっていう意味で合格した世界線よりも燃料が投下されている。

 

具体的に計画を練ったのだけど、最終的には頭の中にデータベースを作って、発話でアウトプットができる水準までいくこと。これはあらゆる領域でもそうだろうなと思って、高校の時に使っていた英語のデュアルスコープっていう黄チャートの参考書を1から読んでいる。集合名詞とか抽象名詞とか、当時は概念を理解できてなかっただろうなぁと浚い直し。ちゃんと言語学的なところから紐付けてインプットしていこう。そろそろ英語辞書を買うとき。あとは他の学問領域も見返せるようにまとめノート的なものを作ろうかと。なんでもかんでも手を出すのは悪いというのもあるけど、もっと忙しくしたいだけ。多分1つの物事にどれだけ時間をかけても1度に吸収できる量には限度があるから、並行してやった方が僕には効率的なはず。概念は他の物事にも流用できるし。

 

あと、美味しいものをたくさん食べたい。そのままの意味で食べ物もそうだけど、演劇ももっと見に行きたいし、美を眺めるのも食べるに含まれる。僕の中では文章も食べもの。普通の言語で言えば、良質な体感を積みたいなことになるのかな。

 

安眠作用がある文章を読み返しながら寝落ちするのは幸せなことだ。

 

 

おやすみなさい。

 

 

 

 

 

 

相対と絶対

今日はちゃんとフル装備の弁当を拵えた。目玉焼きと、レンチンえのきしめじを顆粒出汁と塩とごま油で和えたもの、豚こまとブロッコリーの芯と茄子と玉ねぎのデミグラ風炒め。なかなか満腹。明日卵と野菜買い足すのは覚えておこう。

 

さておき。

 

昨日は寝入るまでにつぶやき場を眺めていたため、やや寝不足。単語で検索してまつわる世界を辿っているのだけど、普通に健康にも精神衛生にも悪い。世界はそんなに殺伐としているのかい、そんなことはないだろうってやるせなさで見てしまう。やっぱり一定の型で見ること見られることが固定されてしまうことは弊害の方が多いのかと思いつつ、ただ、型として語ることができるから良くも悪くも強いことを匿名で発することができるのかなとか。

 

あまりに身近な世界が平和に満ちているからギャップで衝撃なのかもしれない。

 

平和な世界。

 

同期に煙草を1本あげたら、昼休憩終わりにコーヒーを1本頂いた。したたかさを感じなくもないけど、感じは良い。別に何か返ってくると思って投げた好意じゃないからダイレクトに返ってきて不思議。こういうことがあると次にばらまくときに優先度が上がるだろうなという感じ。

 

職場全体も平和。研修の進捗度に差が出てきてしまって、僕の方が先に次の段階に行くことになったけど、上司は差を評価しないし。まぁ性差もあるのかもしれないけど、それでも差をつけて評価されるのは上にいても下になっても嫌なもの。心地良い。なんとか同期をひっぱりあげたいとは思うけど、僕もまだまだ独り立ちできていないから、元気付けるくらいしかないだろうなぁ。まだ折れてはなさそうだから様子見。というか、慣れたら僕よりそつなくこなせるに違いない。

 

生産性第一号自分の声の録音を聞いた。相対的に聞いているから、まだまだ明るくないなぁと思ったのだけど、そのあと恋人さんと通話したら、いつもより三段階くらい声が元気だと言われて、絶対的に聞いたら訓練は効いているのだなと。声に乗った元気が移動したらしい。ハッピーな世界。

 

自分の言動で嬉しく思ってくれる人がいるっていうのは素晴らしいこと。

この素晴らしさは、自分のことがどうでも良いが振り切ったからこそ分かってきた。通常ルートの自分を大事にすることができれば他人も大事にできるでは、一生分からなかったかもしれない。どう違うかは言語化してないけど。

 

ごくごく身近な世界がどう在るかと、世界全体の見え方って繋がっているのかな。

 

皆さん良い夢を。

おやすみなさい。