硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

存在(前)

落語の夢を見た。
割と面白かったけど、もう文字には起こせないなぁ。創作落語で幽霊の媒介を何にするかっていう話。なんでもよくすれば最強じゃないかというという落ち。ではこの落語の製作者は誰なのか、っていうのを教室みたいな所で集団が探るのだけど、他の人の意見を聞きながら、これは探ろうとすることすること自体がアウトなのではって思っていた。

所詮夢だし整合性はない。細かい断片はまだ思い出せるけど、繋がらないから一緒。

あとは、火山が噴火するとか諸々。夢は好き。
ここ何年かあまり見なかったけど、なんだか活発化してきたみたい。厳密には夢は毎日見ていて意識に上ってくるかどうかの違いらしいけど。


さておき。

ありがとうの語源は存在しにくいから珍しい。って仮に前提とすると、逆説的に悲しい言葉だと思えなくもない。僕はありがとうっていう言葉に嬉しいとは思わないことが多い。別に存在しにくい事象ではないし。要は広い意味も含めて自分にとって有益なことをしてくれることが珍しいから感謝の意を表す。ビジネス界隈だと単なる形式だからまた別だけどやっぱりなんだか悲しい。世が世なら、ありがとうは悪い意味になるかもしれん。

我ながらややこしい奴。


あと、読むのかどうかわからないけど、まさかそこが通じるとはっていう所。
僕も自分が何かを思ったり行動したりするときの反射に対して本当にそうなのかってずっと反復していた。だから、基本的には暫定でしかない。
まぁ、これくらいのことをやる人は結構居るか。ピンポイントで言語化されたからびっくりしただけ。ほんとにそうなのかって思っていても、自己顕示欲とか生存欲求があれば問題ない。大丈夫。

天才論の本でも、自己顕示欲っていうのが明らかに出るか、裏にあるかっていうのが源泉
にあるらしい。

僕は本当にそういうものがない。
ある部分もあるだろうけど、それは肉体と直結している精神であって、本質ではない。
本質に届いたところで救いはないのだけど。

ほんとうにそうなのかじゃなくて、ほんとうに生きていて良いんですかって自問している。

基本的に人は自分が存在していることを前提として考える。
天動説なのかな。


一旦切ろう。

 

 

 

 

楽しむ重り

 

帰り道の街路が銀杏模様になっていた。人工の電飾よりも綺麗。

週末見る予定の紅葉が落ちたかもしれないけど、自然はもろともだからそれはそれで良い。

 

好きなものは何ですかって聞かれたら困っていたけど、なんとなく決まった。

自然、動物、言葉。とりあえず挙げることはできたけど、最終的にはなんでも同じだろうなということになるだろうなという気もする。

 

さておき。

 

仕事は今日も恙無く終わった。

怒られたものが身になったというか、通話に対する緊張感がなくなったからか、かなり落ち着いている。通話し過ぎて舌の筋肉痛になったかいがあった。一番なおざりにしていた部分だから鍛えられるのはありがたい。

 

そうして、今日は時間的に結構余裕がある。というのも、ガス代を払い忘れていてお風呂時間が省略されたから。自分の悪い癖だなぁと再認識したのは、極寒シャワーもレンジだけで弁当作るのも、楽しんでしまうところ。外界を向上させようっていう欲望がほとんどない。

 

楽しむっていう言葉だと誤解されるおそれがあるけど、痛いものは痛いし、苦しいものは苦しいし、冷たいものは冷たい。悲しいものは悲しい。っていう感覚を受け入れることが現世での楽しみかなって思っている。怒りはまだあまり楽しめていない。

 

 

ちょっとわかりにくくなってきたから、ところでを挟む。

 

いつも読んでいるブログで、アメリカが地獄に向かっている、それは日本もそうだっていう流れの記事からの発想。ほぼほぼが悲観的な波であまり読むのはおすすめできないから引用もできないけど。

 

若者が現実を否認する傾向にあるみたいな話で、薬物でトランスするとかもあったけど、僕が注目したのは、乳児期とか幼少期に母親から離れて過ごす子供が多いのが問題だとか、ちゃんと母親が接していた子供は脳が大きくなるとかっていう下り。

 

これは昔の自分にはなかっただろうなというやつ。

 

脳が偏在する意識というか波の翻訳器だと考えると、幼少期の肉体的接触とか、精神的接触は、意識がこの世界に紐付けされるのだろうなと。あぁ、この世界は心地よいところなのだっていうインプットになる。そういう入力がされた脳は、時系列上の社会でまっとうな人生を送ることができるはず。別にDNAが繋がっているとかとは関係ない。人格って他人から規定されるのが起源だし、要は無条件で世話をしてくれる人っていうことなのかな。労働で世話をしているか無償でやっているかっていうのは、おそらく何処かでありありと出る。

 

なんだっけ。

 

言語が混線してきた。

 

現実とはなんだろう。

古代人が、「人間こそすべてのものごとの尺度」だって表現していたっていうのを読んだのだけど、この時点で人間は全く進んでないっていうのは分かった。なんにも変わっていない。

 

 

波の話。

 

最新の脳科学だと、意識は脳の電気信号でしかないっていうのが定説だっけ。

脳波。こういう視点で現実を見ると、当人の五感が入力した情報を脳が再構築したものでしかないってことにならんだろうか。

 

他人の痛みに関する情報を入力したとき、当人の脳の痛覚の部分が反応しているっていう結果もそう。現実の肉体が傷付いている訳でもないのに痛く感じる。ってことは、肉の痛みと、脳が感じる痛みには齟齬がある。

 

齟齬。

こうやって、脳と肉体にズレがある以上、どうあっても生きることは苦しいししんどい。

最初にまともな感覚を得られた人は、幸せホルモンセロトニンがまともに出るからなんとか生きるのがマシっていう程度かなって。

そうやってストレスに対抗しないと生きていけないのが現世。

 

人間だけがストレスを感じる訳ではないけど、人間がややこしいのは、なまじ考えられるところ。だいたいは外の敵のせいだってことになるだろうけど。

あと、肉体は絶えず変化しているのに、精神の変化は緩慢っていう齟齬もきっとある。

 

一番個人的に面白い話はここから先。

 

何かを想起したときに、現実と同じように脳が反応するならば、それは現実と同視できる。

これが個人の脳。じゃあ人に何かを想起させたら、それは相手の現実になるのでは。これが関係の脳。僕は人間関係を構築するのは頗る苦手だけど、この辺りに人間関係の根っこがあるような。物理的に繋がっているだけでは人間関係とはならないし、精神世界でヨイショしてくれるだけもそうはならない。

 

個人的には関係自体として捉えていないからあまり参考にはならないと思うけど。

 

あと、音楽を思い浮かべたらその音楽が流れているのと同じ作用になるっていうのもあるらしい。当然だけど。要は、精神世界も物理的世界も脳からすれば濃度の違いでしかないっっていうこと。現実が揺らぐっていう人もいるかもしれないけど、現実なんてそんなもの。

 

 

最後。

 

現実を楽しむためには。

社会で過ごしているとどうあっても感じられないものだと思うけど、一回性を意識すること。さぼっててきとーに括っているけど、どんな経験もその瞬間にしかない。言葉っててきとーに括るためにも遣われる。痛みとか悲しみとか、当人の中でも全然違うはずなのに、その一言で同じものとみなされる。

 

言語化しきれていないけどこの辺で。

 

 

おしまい。

 

内と外

 

 

今日は恙無く終えた。

昨日叱ってくれた一番仕事ができる人は、新しいことを振ってくれた。

なかなかアメとムチが上手いと言うか、経験を積ませようという意図が伝わってきてありがたい。この人の中でも愉しんでいる感じはしないでもない。おそらくここまでまっさらな人物が入ってこなかったから、好きにいじれるみたいな。理不尽は微塵もないし。ちゃんと追跡しよう。

 

お局さんは、体調なのか精神状態なのか忙しさなのか、が良い時はとっつきやすいのだけど、時々、質問したら聞くまでもないだろうって鼻で笑われる感があって結構ダメージを受ける。そんなつもりはないっていうことだけど、なかなか。

 

 

もう少し力抜いても良いのかなぁって感じはしてきた。

よく見ると、皆てきとーに仕事をしている。そうして、よくよく見ると、電話を取るとか来客応対をするっていうのも、まずは硯が行くだろうっていう1拍置いていている感がある。

 

個人的には積めるから良いのだけど、なんだか歪。

 

 

こんな話していると切り替えられないから、さておき。

 

 

喉の違和感は、ちょっと調べてみた。一瞬甲状腺ガンを疑ったけど、どうやらストレス性のものみたい。首を締めるネクタイと精神的な縛りが重なったのかなと。喉に出るってことは、王様の耳はロバの耳みたいな意味で、発信しきれていないっていうことなのかも。ここでこれだけ書いていても出るっていう評価も1つだけど、ここで書いているからっていう向きもある。

 

ここが井戸みたいなものだから、逆にバランス取れなくなってきているのかも。

基本的に縛りプレイだものな。知識も出せない、人格も出せない。

 

縛りといえば、ヒールが付いている靴で歩かなきゃならない女性も縛りだよなぁって目が止まったりするのだけど、ぐにゃんぐにゃん歩く人が居てなんだか心配になる。あれって竹馬の省略版みたいなもので、意識して歩けば焦点を絞れると思うのだけど、意識して歩いていないのだろうか。意識して歩くと筋力使うから面倒なのかな。

 

意識して筋力を使うっていうと、キーボードの運指もそう。

無意識だと無駄に動くから意識で修正しないといけない。だいたいの人は無意識の領域でできるのだろうなって思う。僕は割とそういう意味ではポンコツ

 

 

ともあれ、要は肉的な意味での当人と、当人が知覚する世界は繋がっているということ。

他の人になったこと無いから分らないけど、だいたいには適用できそうな気がする。

 

そもそも世界が知覚している領域でしか無いっていう感覚はないか。

 

個人的な宇宙はもう少し面白くなりそうだから、まずは首と肩の凝りを解している。

なんとなくデジャビュなのだけど、ここから離れようという試み。

 

この解釈だと、肉体に凝りがあるっていうことは世界に対しても凝りがある。

虫歯はもう少し重篤なのかも。精神的首輪は、ドSでドMだからあまり問題ない。首輪をしたのが誰かっていうのは問題だけど。自分だったらつまらない。

 

よし、おやすみ。

 

 

 

 

浮世

 

今日は朝一から結構な勢いで叱られて、ひたすら一番苦手なことをやっていた。何人と通話しただろうか。前もって言っていたのだから先にやっておけと言われたけど、次々と回される仕事の納期の順列を付けるのが一番難しい。特に新人だから、当日中にやらなければならない簡単な仕事がいっぱい回ってくるし。まぁ、次々もいっぱいも僕の評価であって、上層部としては抑えているという評価に違いない。

 

逆から言うと、ここだけ押さえればなんとか付いていけるということだから、なんとか収集していこう。

 

言い訳できないのが、通話が苦手だから意識的無意識的に後回しにしていたという部分もあるところ。電話かけるだけなのだから何も考えないでできるだろうと言われたのには少々思う所もあるけど。電話をかけるだけの仕事の価値が高いことを考えても。ともあれ、結構回数はこなせたと思う。受信と発信はまた違うし、私生活にも汎化できそうな領域だからエネルギーは遣うけどありがたい。

 

そうやって外界との接触慣れしていたから、帰りにたまたま良いことできたし。別に僕じゃなくても誰かがやっていただろうけど。帰りにスーパーに寄って出ようとしたらタイミング的に豪雨で、軒下で收まるのを待っていたら、パスケースが落ちていた。ピタパだかイコカだかが入っていて、もう少し遅かったら水浸しで何か不具合があったかも。スーパーの人に預けようとしたら、ちょうど持ち主が居て良かった。去り際にありがとうございますって言われたけど、こういうありがとうございますは、ありがたい。

 

 

外界との接触がこういうことを反射的にできるようになるなら、それはやっぱりありがたいこと。なかなかおもしろい考察対象だけどまた今度。

 

 

さておき。

 

なんだか最近喉の辺りがやたらとつっかえる感覚がある。

喉仏が今更成長期っていうのはなさそうだから、ネクタイの縛りに慣れていないっていうことなのだろうって観測しているのだけど、これも今更かっていう感じ。ネクタイ縛りだしたのが二ヶ月前くらいで、つっかえを感じだしたのがここ1週間くらいだから。つっかえているっていうのも特に声が出ないっていう感じもないし、食べたものが食道で詰まっている感じもない。何が縛られているのだろう。肉体に出る病気にまではいかない感覚的不具合は精神の顕現なこともあるから少しは気になる。

 

今の生活が自分の首を締めているんだよーっていう警鐘かもしれないっていう意味で。

肩とかに首の後ろにはやたらときているけど、喉仏に来るのは初めてだし。

喉仏に対する知識もないけど、成長期なのか?(錯綜)。

 

最後。

 

意識の偏在。

脳波も電波も音波もどんな波も宇宙に偏在する波でしかないとすると、自分が持っている波は肉体が滅んだとしても、何処かには在るもの。

 

ただ、こうやって言語化するとか意識化するっていう翻訳ができるのはこの肉体というか、脳しかないから、人の人生は一回しかない、でいいと思う。

来世を望む思想はおそらく現代の日本にはそんなにないと思うけど、生まれ変わりを信じる宗教はあるかも。

 

こういう文脈で考えていくと、スピリチュアル系の捉え方も正しいのは正しいと思う。

自分の精神の次元を高めると云々みたいなやつ。

 

確かに、自分の生きている階層が変わると環境が変わるっていうのはあると思う。

自分が人間関係で感じる煩わしさは、だいたいが当人のそういう性質を原因としているブーメランな世界。

 

でも、やりすぎてもいけないと思う。

どうあってもやりすぎることはないから流行っているのか。

 

 

強制終了。

 

 

おやすみ

 

 

 

 

 

 

突拍子もない

冬が寂しさを増幅するのは、寒さっていう体感が寂しさの起源だから。

 

感情は五官というか、知覚を流用している。もちろん自説だけど。

四季とちょっと似ているのかな。感情の起源がどこから来ているかっていうと、きっと自我も芽生えていなかった幼少期の頃。

 

感情表現っぽいものでしか自分を表わせなかったっていう必要に迫られて生まれているのだと思う。ってところから考えると、感情っていうのは自分を表示する為の記号の意味しかなかろうって。自分の中のものではなくて、境界にあるもの。

 

伝達ではない感情だったらもう少し高度になるけど、なんだろう、感情を顕にできる人の方が豊かだっていう観念が少し不快。

 

感情も一種の社会の場の話で、知覚を流用した反射だから、それを外に出すかどうかは任意なはず。

 

なんか変な感じ。

感情は、どうしたって人間的ではないような気がする。

自然に回帰するっていうなら分かる。

 

まぁ良いや。

 

あとなんだっけ。

 

 

感情を排した後に残る人間とはなんだろう。

僕の感情はよく分かるみたいだけど、それってきっと分かりやすくしているだけ。っていうのも厳密には違う。その関係で生きる自分はそうっていうだけ。

 

量子論まではいかないけど、素朴な感覚として宇宙は自分の認識だろうなっていうところから。過去は現実に在ったっていう認識が須らく人のものだろうけど、だったら、記憶で再現出来ない領域はどこに行ったのだろうって。自己認識さえも記憶で想起できる部分に絞って再構築している訳で。

 

 

要は、自己認識として自分を観測している第三者の視点は古い。

歴史的な自分しか観測できないということ。

 

ここで言う歴史は、意識に選別されて残ったモノという意味。

 

だからなんなんだって言われても困るけど、僕は無意識に埋没された自分の発掘作業をすることが自分のことを探ることだと思っている。

 

あと、自己発展の作業だけど、これは時間とか回数とかただ作業するだけでは上手くはいかない。違う第三者視点という意識で自分を修正すること。

 

キーボードでの運指が上手くいきつつあるのは、過去の自分からしたらありえないこと。

もともと不器用でしょうがない。

 

意識の偏在性の話を思いついたけど、時間切れ。

 

おしまい。

自を革命するためには

 

 

ネットでタイピングの訓練ができるやつを1ヶ月前までやっていた。そこには。とか、がなないからあまり実践的じゃないと思ってやめたのだけど、ここ一週間くらいでまた再開している。指の運動にはなるし、ぽ、とか、ーとかミスなくやれるようにならねばと。そうして、最高値出たわと思ったら、前の自分の方が点数高かかった。今日やっと越えたけど。それでもやっぱりミスが多い。小指が不器用なのと左手の人差し指が押す範囲が把握できていない。

 

そういえば、思ったけど、回数と時間はちょっと違う概念だなと。

確かに、回数をこなすためには時間はかかるけど、時間をかけるだけで回数が増える訳ではない。時間からは少し切り離された概念。回数は時間を消費するだけではなく意思も使う必要がある。

 

さておき。

 

 

今日は髪を切りに行ってきた。

指名制度はないみたいだけど、同じお姉さんに切ってもらえた。きっと担当制度はあるのだろう。マージン付けてもいいくらいだったからありがたい。

 

他の人はヒゲがダンディズムだったり、見ているとやたらと会話を振っていたりして、疲れそうなのだけど、この人は会話のリズムとか量とかが心地よい。個人的にはシャンプーだけしか許されていないお姉さんの洗髪も好き。かなりごりごり頭皮を刺激してくれる。

 

今日は一人で出かけるとか、年始の初詣の話とかをしていた。

どうやら彼女は厄年らしく、来年の初詣を何処に行こうかみたいな話。個人的に寺社仏閣フェチだからもっと盛り上がっても良かったけど、人が多いところだと一人ひとりに時間をかけられないだろうってアドバイスしたら、今年と同じく近所のところに行くって言っていた。寺社仏閣には相性があるから多分それで良いとは思う。

 

でもなくて、なんで言いたいことをセーブするのだろうって思っていた。

他の人はどうなのだろう。セーブする必要がないっていうのはどういう状況なのか。

 

例えば今日のお姉さんとの会話でも、綺麗なグリーンのグラデーションで髪を染めていたことも気付いたけど言わなかったし、一人で映画を見ることも良いと思うみたいな評価も発信はできない。

 

発信をしないっていうのは外から見れば分かっていないと同じ。

っていう意味で言うと、世界はある程度恣意的にコントロールできるとも等しいのだけど、何を警戒しているか。

 

興味を持たれるって、単に評価が高いよりもっと喜ばしいものみたい。

僕は自分に興味を持ってしまった人に対して大丈夫かこの人くらいしか思わないのだけど、喜怒哀楽であえて表現するなら喜だろうっていう水準。

 

こういう言動が禁忌なのだろうなって思ったことはある。

単に興味のまま会話していたら中学生時代にやたらと執着されてしまった。その人は絶賛幸せな生活をしているようで何より。

 

これは別に恋愛感情みたいな異性間だけではない。

同性間でもありうる。人は他人からの打算がない興味を求めるものなのかしら。

 

 

打算。

買い物行ったら、小さな女の子とやたら目線が合った。微笑み合ったりして。ただ、子供は純粋だって言うけど、僕の評価では、純粋にあざとい。自分が可愛がられることは分かっている上でそう振る舞える。大人もあざといけど、ただ熟練度が上がって見えにくくなっているだけじゃなかろうか。

 

あざとさ繋がりで、年末年始の選択肢。

 

今日母親から電話がかかってきて、もうお婆ちゃんには帰ってくるって言っちゃった。でも無理はしなくて良いよって言われた。そう言ったら、こいつは戻ってくるだろうっていうあざとさがある。

 

もう一つ、友人も話したいことがありすぎるわーみたいな餌を巻いてくるのもあざとい。

 

 

世界はみんなあざとい。

 

 

最後かな。

 

だったら僕もあざとい。

基本的にはセーブしているけど、酔っているとあざとくなる。

このあざとさも、別に性的欲求を満足させるとか現実的な生活支弁とかでもなく、単に自分の興味のためだけ。その先に何の時間軸もない。

って分かっている人には結構自由だなって思う。

 

僕の不自由さは、人にあまり過剰に好かれないって所にある。

自意識過剰だったら良かったのだろうけど、いや、自意識過剰にしておこう。

 

結局のところ、誰も言わないけど人は誰かを代替できるようになっている。

だからこそ反映したとも言えるし、だからこそ寂しいとも言える。

 

温度と感情の話を入れるつもりだったけど、どうやらここまで。

 

 

おしまい。

波長

 

 

宇宙は音でできている、らしい。

 

今日もなんとなく交流日。

携帯が潰れたって距離が離れていたって、縁があれば繋がる。

一回目はたまたまかもしれないけど、再会は双方向の意思。現実化でもいいけど、現実化しなくても繋がるものは繋がる。まぁ繋がる事自体にはあまり意味はないけれど。

 

光速の範囲内ならリアルタイムだから、交信の意味も薄れている。

 

 

ともあれ、音楽の起こり。

割と分かりやすい。そもそも生まれてくる前に母胎でビート刻んでいるし。

 

そうして、音の起こりを考えていた。

これも、読んでいる記事が発端で、音が繋がるっていうピタゴラスが言っていたことが最新科学で証明されつつあるっていう記事。広告しても良いけど、僕の日記読者そんなにいないからしたところで。

 

 

ところで、友人がやたらと何かを話したがっているみたい。

きっと僕にしか話せないことなのだろうと思うと楽しみ。

何か悩みがあるのだろうし、僕が解決に持っていかないっていうのも知った上だろうけど。

 

 

戻ってきて、音の起こりは宇宙の始まりと一緒だろうなと。

音って、人間の感覚だと聞き取れる範囲に収まるのだろうけど、もっと広げて。

モスキート音は年齢を経たら聞こえなくなるらしいけど、要は世界では聞き取れない音波で溢れている。

 

波で捉えるとちょっと分かり易くなる。

 

波の本質は共鳴というか影響というか、要は響くということ。

 

だいたいのエネルギー源は波の性質を持っている。

 

あと、絶対零度はあるけど、絶対高温はないっていう話を知っているだろうか。

理屈は分かっても実感としてよく分らないから覚えているのだけど、分子の運動が減っていくと低温で増えると高温みたいな。

 

これって素朴に考えたら体感温度とあまり変わらない。

 

 

海の波は地球の自転とか月の引力とかに影響されているのだろう。

ってところを考えていくと、人が音として捉えられない周波数に影響を受けるのは当たり前。

 

そもそも意識は脳波っていう波とされているし。

人と人との相性って、価値観の一致みたいな感じになっているけど、きっと少し違う。

自分に都合がいい人しか見えないなら、物質化している。

 

無機物と有機物の切り分けも最新化学だと危ういみたいだけど、生物の方が波を感じるのには効率的な機構らしい。

 

最後かな。

 

音の起こり。

 

波って共鳴していくものだけど、じゃあ最初の波はどこから来たんだっていう思考は当たり前。振動はエネルギーっぽいけど、じゃあ最初にエネルギーを創ったのは何なのか。

 

って宇宙の話だと壮大過ぎて漠然とするけど、これって個人的な宇宙でもあまり変わらない。

 

意識の起こり。

 

まぁ、普通は何か現実化の欲求のための過程としての意識っていう観測なのだろうけど、個人的観測として、意識の起こりは自分で波を作っている気がする。

 

最後の最後。

 

意識は時空とは関係ないところにあるから、波の伝わり方もきっと違う。

呪いとか生霊とかはきっとこの辺で捉えられるし、肯定的な面でも。

 

 

文字数少ないけどおやすみ。