硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

理の外

 

 

いつもWordで書いてコピペしているのだけど、昨日はコピペが上手くいかなかった。改行が全く反映されないという。なんだか隙間なく三千文字くらいが敷き詰められていると、不親切を通り越して、呪詛みたいな見た目になる。今朝出勤前に直せた。

 

 

夢はなんだったけ。

あぁ、なんだか中学校くらいの集会みたいなところで、僕にあらぬ疑いがかかったところを幼馴染が疑いを晴らそうとして色々話しているのだけど、そんなことはしなくていいって退場する話。そのあとは、坂道を変なマシンでやたらと下っていくっていう爽快感がある下り。体重移動だけの原始的な機械だけどかなり長かった。

 

そうして、出勤中にローラースルーゴーゴーで良いのだっけ、みたいなやつにモーター付いたマシンで人混みの中を颯爽と抜けている人を見かけた。自転車より小回りきいて収納もできそうだからなかなか使い勝手良さそうだなと。

 

と言いながら今日は一時間位歩いたと思う。

自分の肉体を稼働させるというのはなかなかこじんまりした爽快感がある。今日の活動率は90%くらい。姑獲鳥の夏に予約入っていて貸出延長できなかったから早く返さねばということで、最寄り駅の一駅手前で降りて図書館に行って返却ボックスへ。延滞になっていることより、次に読みたい人が待っているっていうところが気になって。中古本屋を回ればワンコインであるような気もするけど、スタイルは人それぞれ。途中に居るはずのない知り合いが居た気がするのだけど、おそらく他人の空似だろう。

 

あとは、革靴の靴紐とか、仕事で着るカーディガンとか、セパレートの化粧水と乳液とか。全部仕事用。

 

スキンケア用品が仕事用かって言ったら微妙なところだろうけど、印象値を下げないっていう意味で。なかなかのグレーゾーンだけど。

 

この流れで、仕事概念の話。

最近言葉とか制度を概念と見てみるキャンペーン中だからご容赦を。

 

一番小さいというか、中核にあるのは自分がしたくないこと。これも中核で分かりやすいのは対価があることで、その対価は賃金という金銭。金銭はたしかに大体の価値に流用できるからわかりやすい。ただ、金銭の価値っていうのも、個人的レベルまでいくと相対的。

 

 

そんで、広げていくと対価は何らかの利益になる。例えば好印象であったり、何か優遇されるだったり。

 

もっと広げていくと、自分が不利益を受けないためのことまで含まれる。歯磨きが仕事だって考えている人もいるし、ここには自分が悪印象を受けないための措置みたいな意味があ

るのだろう。ここまでいくと生命を継続させるための何某かはすべて仕事になる。

 

では、ここまで仕事概念を広げた後に残る仕事じゃないものは何か。

それは対価を求めない行為。ボランティアだって達成感とかが対価になるだろうからちと違う。僕は法律学脳が強いからそういう思考になるのだけど、対価を求める行為っていうのは義務と紐付いている。

 

っていう意味で考えていくと、楽しむために何かをするっていう行為も若干怪しくなってくる、けどまぁ良いや。

 

この話もう少し潜れそうだけどとりあえず今日はここまで。

 

 

 

やれやれ。

現実的な仕事はやたらとノルマが迫っている。電話対応とか来客対応とかしなくても良いのであればなんとかなるけど、それを蔑ろにしてしまったら新人じゃなくなるから、より試行錯誤しなきゃならない。

 

 

最後は、人の考え方の話。

 

僕が法律学脳だという下りがあったけど、法律学っていうのは恣意的な内面があったとしても恣意的に語ってはいけないっていうルールがある。素朴な感情は遡上に上げてはいけないけど、割と日常生活よりは分かりやすい。

 

日常生活の方が分かりやすいっていう人は、おそらく恣意的にしか社会を見ていない。

調整っていう名の押し付け合いで、結果的に回るから。なぜかというと、日常生活において人は他人の内面なんてほとんど気にしていていないから。その人そのものと精神世界の下りの日記参照。

 

そうして、そういう人達が遣う合理的とか論理的とか理屈とかっていう言葉は、何の意味も持っていない。常識とか普通とかもそう。

 

別に否定しているわけではなくて、この語彙は前提として、同じ世界に共感できる人にしか通じない、というだけ。これを異なる精神世界の人に遣うと、押し付けという名のいじめみたいなことになる。

 

法律学脳じゃなくても良い、社会学脳とか、経済学脳とか、心理学脳とか、学問をやった人はそういう考え方ができる、というよりも、偏るってことかな。

 

で、学問とはなんぞやっていうと、ある対象について研究することで、誰でも当たり前にやっているのが、自分学だろうなと。研究の定義はおいておくけど、どれだけ他のことに没頭したとしても、観察される時間で見たら自分の時間の方が永い。生きている限り観察しているのだから。

 

だから、常識とか合理とか理屈としてはとかっていう大きい言葉をいくら使っても基準は自分でしかないということ。国家機関レベルで見たってそういうものだっていうのはなんとなく気付いていると思う。

 

僕は二人で話している時に大きなことなんて聞きたくない。

 

どうまとめるか困ってきた。

僕が観察する分で好みなのは、その人の精神世界が面白い人。例えば夏目漱石さんとか太宰治さんとか。で、関わる対象として面白いのは、その人の殻が僕の影響で壊れる人。もちろんそれで僕に利益がある訳ではない。ただ面白い観察対象だし、相互に影響し合えるかもなって。

 

僕は基本的に相手が規定したところでしか存在しない。

そんなことあるかいって思うのが普通だけど、一人の世界と他人と関わった世界は全然違う。

 

まとめ。

 

人が人たる所以って、その人の世界をぶっ壊す自発性なのではって思っている。

人になるためには、過去とか諸々の柵を破壊してみる必要があるけど、別に人にならなくても良い人はそれで良い。

 

明日は何を壊そうか。

 

おしまい。