硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

交換

 

なんとなくアクセス数増えている気がするのだけど、気のせいかしら。もともと誰が読んでいるかは気にしていなかったけど、人との疎通で見ると誰が読んでくれているのかっていうのは結構大事なことだろうなと。別に原動力とは関係ない単なる興味だけど、僕の人の疎通傾向はここだから。

 

 

ともあれ、可能性の話の続きするか、他の考え事にするか、どうしよう。ミックスで良いか。

 

今日読んだ死について! の人は、輪廻論を信じている仏教徒だった。僕の認識では原始仏教では輪廻を語ってなかった気がするけど、ともかく。前世では何人だったとか、現世の肉体的不備は前世の因果だとか、考え方としては有りかなって思う。説明できないことの方が本当だし、あらゆる時空に自分が偏在しているっていうのは、過去の自分は今の自分とは別人にも関わらず認識できるっていう所からしても繋がりはありそう。

 

ただ、人間基準なところはどうだろう。まぁ、人間って器に入らないと意識できないとするなら分からなくもない。

 

でも、自殺したって戻ったときに苦しみが返ってくるだけだっていうのは良いと思った。

 

こういうのってオカルトチックだけど、超然として考えずに素朴に考えるとそんなに凄いことはない。例えば、自分の行動基準の中に、亡くなった人がやっていたことを採り入れているとすれば、それはその人が当人の中で生きていることにしていいし、自分が影響を与えた人の中には、自分が生き続けていくわけで。

 

結局は、自分とはなんぞやっていう自己定義に左右されるけど、自意識自体も誰かに倣って作ったものでしかない。そういった日常的な自意識を排した後に残る自分っていうのが魂っていう説は結構分かる。

 

結局何がしたいのだと自分に問う。

 

 

あとはなんだっけ。

 

可能性を限定するのは、自分じゃなくて他人。厳密に言ったら社会そのものにもなるけど、自意識の芽生えはそのときの他己評価だどうだったかっていうのが最大の要因になっていると思う。

 

これを観測者の視点で考えると、相手は自分にとって分かりやすい存在にしたい。処理能力は節約したいし、ラベルで分類できる範疇に収まってくれないと困る。相手はこういう人だって言葉にできることは、こういう整理をしているだけで、観測力があるとはちょっと違う。

 

こういう意味で、コミュニケーション能力高い人って個人的な関係としてあまり信用できない。

 

 

で、仕事での疎通とか人間関係を考えると、相手を自分の仕事則の枠内で見ている。

仲良くしている風なのが嫌。きっちり区切るなら区切れば良いし、何かそれが生産性に繋がっている感じでもないっていうのが今の職場。

 

 

最後。

 

 

人って別に人の言葉をあんまり見ていないのだろうなってこと。

じゃあ何を見ているのかって言ったら、自分にとって分かる言葉かどうかで取捨選択しているだけ。それが社会とかビジネスとかっていう大きな後ろ盾があればなおさら、自身の言葉を省みることはない。

 

人の魂が偏在する論から見たら、自分のぶん投げた言葉の中にも自分が生きている訳で。

 

 

因果応報とは言わないけど、自分が感知できない至るところで反作用は起こっているはず。

 

 

何の話か分からないけど、そろそろ時間切れなのでおしまい。