硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

凝縮

英語を聞いているからか、なかなか頭がすっきり。英語にももちろん語彙があって、同じ意味の言葉がどう使い分けられているのかを考えながら聞いている。意味を一個一個把握していくっていう段階ではないから、ただ気楽に聞き流す。聞いていて分かるのは、思ったより自分は英語を知っているなっていうこと。この単語はこういう意味ですって表現することはできなくても、意味は読みとれるみたいな区分けもあるし。

 

僕がコミュニケーション能力苦手に見えるとしたら、脳内言語と発話言語の語彙に乖離がありすぎるところ。内向的な人にはありがちな齟齬。自己主張できないと疎通力がないとみなされる。

 

 

でも、あまり疎通能力ないとされている人の方が有意義な言葉を持っているような。

 

 

 

という感じで、今日は国語の話。

 

 

あるニュース記事で、日本人の3分の1以上は、基本的な日本語の文章を読むことができないていう検証結果が出たっていうのを見た。OECDがやった調査結果だし、それでも日本人の方がマシという結果だったから、なんとなく信憑性があるように思う。

 

でも、調査っていう単語が出た時に疑うべきは、調査対象の範囲と、母数の数。少なくとも僕は調査された記憶がないから、おそらく大学生の授業の一環で取ったのだろうと想像する。

 

けど、その上で、日本人全体とも相関しているだろうって思う。

 

語学って学問の一種だから、国語が苦手だと思っている人は多々いると思う。

日常の言葉遣いに完全に還元できるものもないからゆがむ。語学てってうのは原住民にはほぼ関係ない、他人事の観察の収束。

 

だから、日本人が日本語の文章を読めないのは、そりゃあそうだって思う。

識字ができることと、意味が分かることっていうのは全然違うし、自分で日本語の範疇を決めているし。

 

TOEICと同じような日本語検定みたいなものができたら良いのになぁ。疎通できているっていう錯覚は、お互いに語彙を限定しているからって気づけるのに。多分接客業で人と接している人ですら満点は取れないと思う。

 

 

疎通できている状態が落とし穴みたいなハプニングでしかない。

 

僕がコミュニケーション能力疎いって思われるのは、相手がその言葉の中身に何を込めているだろうって背景を考えるタイムラグで、会話が上手く流れないから。

 

 

やれやれ。

 

そうして、考えるまでもないけど、日本語圏の人は、日本語だいたい分かります、伝わらないのは相手が悪いみたいなスタンスにしていると思うけど、その語彙は、自分の世界で規定されたものでしかない。だって専門用語は分からずスルーするし、説明書とかもあまり読まないだろうし。

 

だから、自分の当たり前ができない人に対して、排斥するか、意味が分からないからもう一回って。他人の発話を読み取れないとき、他責にするか自責にするか。

 

要は、日本語圏内であっても、原住民みたいな棲み分けがある。方言で単語が分からないっていう次元も含め。

 

でも、世界が規定されてしまったら、もうその範疇以外はスルーしないと生きられないんだろうなって思う。僕は絶賛拡張中だから分からないけど、その規定された世界の中で自分の立ち位置を守ることに傾注する、みたいな。

 

って、考えていくと、自他って単なる観測対象でしかないのかなって。

そりゃあ痛いししんどいけど、こうやって観測できる状態がハプニング。次の瞬間天災で脳が潰れているかもしれないし、脳の血管が破れるかもしれない。

 

それでも、悔いは残らない。僕は在るもので良いから、向上とか物欲とかの欲求がない。突発的に死んだ人に、運が悪かったって表する人は多いけど、もしかしたら反対の世界ではこれが上がりなのかもしれないし。やっと肉体から離れたかーおめでとうみたいな。

 

最後。

 

 

知ることは怖いこと。

 

 

知識が増えることは良いことだって風潮だし、知識は世界を開拓するものだって前向きな見解だと思われる。でも、知ってしまったら後戻りはできない。これは、知ったって確定する当人のものさしによるけど、見識を拡げるっていうのは本当に怖い。

 

何が怖いかって、自分が積み上げてきたこととか、ものさしをぶっ壊されて、自分とは何だったんだろうってところに至るところ。切り分けて単なる知ってることってできる人は凄いなぁて思う。

 

 

知るっていうのは踏み込むこと。

 

おしまい。