硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

内膜

大根が全然減らない。たまたま広告の品だったから買った1本に、その日実家から来た小さめ2本。長持ちするし使い勝手良いからありがたいけど、何作ろう。煮物、漬物、サラダくらいは思い浮かぶ。自家製いぶりがっこ食べたいけど、ハードルが高い。まずは沢庵から。漬けるのか干すのかも定かではないけど。

 

あとは白菜も一個は使ったけどまだまるっと1個ある。あと味付け海苔が2ロールとか。生で食べられるものばかりだから、今災害に巻き込まれてもしばらく生き延びられる。

 

そういえば、今周りに料理の話をする人があまりいないなぁ。職場にはそんな空気はないし、母親くらいか。実家に帰ったら祖母の料理の中身も多少は読めるようになっているだろう。

 

僕が言う読むは、こういう意味。

っていう話をした覚えもあるし、ない気もする。というのも、ここは思考の搔い摘みであって、考えたことのすべてが書けている訳でもないし、別にコミュニケーションのためのものでもないし。疎通だったら自分が言ったことも把握しとくのが肝要。

 

何かを知る時。

例示として人としておこうか。その人の情報が増えることで相手を知っているってことになるのだろうけど、本当は違うと思う。知る側にも何某かが必要になる。ぼやかすのは、一言では言えないから。言語化すれば、知識だったり、性格だったり、素養だったり、共通項なのだけど、どれも適切ではない。自分が隠していることを言っても大丈夫だろうっていう疎通の場を提供するだと、少し近いか。

 

要は、人のことを知りたいなら、それなりの対価が必要だということ。

でいいのかな。良く分からないけど、人は分かってくれないだろうと感じた人に地は出さないのは確か。

 

別に地を出す場がなくてもまっとうに一生は終えられるけど。

 

まぁ良いや。

さておき。

 

仕事場で、やっぱり波長が合わないなぁと思う人。

そこでの発話数は多いはずなのに、さっぱり読めない。その一言で行間を把握するって、経験がないと無理だろうって。厳密に言えば合わないじゃなくて今の所合わせられないだけで、別に嫌いとかではない。今の所苦手だけど。メールの方が分かり易い。

 

もう少し考えていくと、僕も少なからず近いところがあるから合いにくいのかなってところはなくもない。思考が飛ぶから、主語とか省いたり、唐突に別の話題に飛んだりする。流石に仕事ではやらないけど。仕事の場合は、行間を投げるけど別に意図に反したことが起こってもまぁそうかってだけ。これで分かるのが普通だろうとは思わない。

 

ってなるとちょっと違うか。

 

 

最後何を書くつもりだったか忘れた。

 

レッテルの話をしていたと思うけど、今日読んだ本の中にそういう話が出てきた。レッテルを貼るのは、相手を簡略化して把握し易くするためとのこと。どうなのだろう、そうやって人と接している人が多いのかは不明。

 

僕は不感症だから、共感では他人を好きになれない。

把握しづらい対象の方が楽しいし、相手が何か自分のことを語ったとき、自分の目線から見るのではなく、相手目線で考える。

 

これは、内的に培ってきたルールは他人にはそぐわないだろうっていう価値観が一次的にあるからだけど、人間として生きるならこの部分も汎化しないといけないかもしれない。

 

追記。

コミュニケーションが足りない世の中だっていう話だけど、どれだけ会話がまともだとしても、人って根本的に自己像を破壊する疎通は拒んでいる気がする。

 

おしまい。