硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

越境

 


野菜が高い。特にきゅうり。晩御飯はちくわとキャベツの焼きそばともやしとささみのサラダ。ご飯は基本的に自炊派。必要に迫られて始めたことだけど、なんとなく好きになってしまった。別に食欲に対する執着もないのに。


こだわりがあるとすれば、なるべく早く、なるべく安く、なるべく美味しく。前の職場の時も弁当はずっと作っていた。卵焼きと副菜二品と肉料理みたいな。変に感動した同僚(同姓)が毎日グループラインに僕のお弁当の画像を貼るという風習が生まれていた。そして、本人が作ったのかが局所的な都市伝説になったくらい。いくらか試食してもらったから一般的には美味しいのだろう。


常備菜っていう観念がないから毎日毎日浅漬けやらナムルやら副菜をせっせと作っていた。まとめて下準備をするっていうより毎日の習慣に組み込む方が楽だったというだけ。最初に作り出したときは大学生の頃に時々作るもので、食材を用意して炒めてあとはこれを入れるだけというやつ。オムライスとかハンバーグとかも作ってみていたけれどやたらと時間を消費していたことは覚えている。


その辺りで自分は不器用だと自覚してしばらく遠のいたのだけど、もう一回戻ってきた。環境が一番大きな要因だけど、味付けも切り方も蓄積でなんとかなると気付く。味覚がまともなのは母親に感謝しないといけないと思う。知識なんかよりも味覚の方が記憶に直結している。味覚がまともであれば、あとはそれに合わせる調味料の按分通りに体が動くようにすればいいだけ。大匙とか小匙とかで量りだすと自分が面倒になるからやらない。というより、レシピサイト通りでやっても自分が美味しくないし。


少し違うけど、料理をするかどうかっていうのも一つの知識というか視点で、やっているかどうかで外とか他人の料理を食べたときの見方が変わる。どういう食材を使っていてどういう味付けをしているのかが気になるのはもちろん。美味しい料理はどうやった再現できるのかが考察対象。だいたいは調味料が足りないという結論になるけど、それは構わない。

あと、料理をしない人に圧倒的に足りない視点は労力だと思う。料理は蛇口を捻るように自動的に結果があるわけではなくて、調理人の諸々の対価があって成り立つということ。恋愛とか夫婦の齟齬で良くありがちだけど、お金が対価として成立する契約関係にある業者の料理と、私的な関係ではメカニズムが違う。僕は婚姻を契約の一種だと思っているたちだから、わりと公的に近いとは思っているけど。つまり、相手の舌に合わせながら栄養バランスをとかそんなやつ。


労力っていうのは目に見えないもので、そんなものは当たり前。
美味しい味付けの料理をさらっと作るために費やしたまずい料理がどれくらいあったのかなんて見えないし、パソコンがどうやってできているのかとか自動改札機の中身も然り。


昨日の自己紹介の話と繋げると、自己紹介って自分が人生で費やしてきた労力を表明するっていう意味もあるのだろうな。資格とか業績とか結果があればそれを言うだけで良いだろうけど、過程を見てくれって。


個人的には過程は自分だけが見とけば良いと思っている。他人の過程は気になるけど、ほとんどの人は他人の過程なんて見る気がない。過程もいまここだけど、いまここみたい瞬間を相手に捉えられようと思ったら、相手にずっと自分を観測してもらわないといけない。


量子力学ではないけれど、観測者の主観は被観測者の人格を規定してしまうこともある。
普通はもっと感度は鈍いのだろうけど、なんていうと失礼か。でも、人との関係をこれだけ収集してみても、どうやら人というのは他人に影響されないように自分を決めている節がある。当たり前だし、自分の外面もそういう鎧があることは感じるから、分からなくもないのだけど、その外殻を自分と定義してしまうには少々躊躇がある。

さておき。


個人的な現実としては、週明けで次の仕事の初出勤だからそわそわしている。

これは中途で採用人数一名に選ばれたという意味不明さもあるのだけど、それより観測者の話。何をもって自分が選ばれたのか。自負よりも疑問の方が募る 

まぁ紹介予定派遣だけど。
やれやれ。どうまとめよう。


暫定的な結論としては、人って自分のことを固有としては見ていない人が多いのだろうなと。過程も結果も社会の中にしかない。だから悪いとか良いとかいう話ではない。


要は、生きてきた長さとか結果の積み上げよりも、もっと内側の話。


おしまい。