希少品と危険物
買った分の牛肉を使い切った。昨日の夜から明日の弁当までで4食分だから、まぁまぁ良い出来。ただ、味が美味しいかどうかというと良くわからない。慣れなのか品質なのか味付けなのか。明日は弁当作らなくて良いから鯖缶でも食べるか。サラダが食べたい。
今日は、面談してくれただいぶ上の方の立場と思われる人が本社から来ていて、少し面談があった。まだ座学中だからどんな感じかと聞かれても答えるのが難しかった。それよりも研修してくれている人に対して、あの人は自分が知らないことも知っている、変人だと評していた。悪い意味ではなく気を遣っている風でもなく、ナチュラルに。良い社風だ。
当人は、10年以上やっていても知らないことがいっぱいあると、真面目なトーンで言っていた。さすがの研究者肌。あと、僕と語彙が似ている。OOとは何ぞやって、自分以外でなかなか聞かない。院時代、工学系でAIの研究やっていた同期と暮らしていて、アナログ人とデジタル人間が一緒に住むと全然合わないっていう話もなかなか。この区分だと、一般の人はアナログでもデジタル人間でもない、なんちゃってデジタルなような気がする。
まぁ良いや。
最近HSPっていう、外界を感じすぎてしまう人の話を見ていて、なんとなく近しいと思っていた。人込みとか満員電車は疲れるのは誰でも疲れるけど、もっと嫌なのはもっと狭い世界で、常にイライラしている人の気分に当てられるとか、雰囲気に抑圧があったら閉塞感で息が詰まるとか。この職場が心地よいのは、雰囲気が穏やかだから。まぁもともと耐性はあったと思う。ノルウェーの森のワタナベの殻みたいに一定のパーソナルスペースを確保する。
だから、で良いのか分からないけど、僕は悪意よりも善意にオブラートを被せた押し付けが嫌だとずっと感じていた。善意って勝手にやるものであって、見返りを求めるようなものではないだろうと。なんだか薄情っぽいけど、その一方通行がたまたま重なったものが本物じゃないかと。
でも、最近もっと嫌な風潮に気付いた。何も返す気がないのに自分に善意を強制させようという精神。そんな奴おらんだろうって思うし、個人でこれをやっていたら単なるわがままだから、この自分を「自分達」にすり替えて、さらに自分達は弱い立場だから社会が助けるのが当たり前だというさも正義を語っているように言う。気持ち悪い。抑圧されたから抑圧していいっていう考え方は、虐待されたから親になって虐待するのは仕方ないとか、自分が後輩だった時には先輩に偉そうにされたから自分が先輩になったらその鬱憤を次の後輩に発散させて良いっていうのと同じ。
一応、民法には事務管理というものがあって、いったん善意で首を突っ込んだら法的責任が生じるみたいな制度はあるけれど、それでも行動するかどうかはその人次第だし。
社会の捉え方にも歪みがあって、自分が見えている社会は日本だけで見てもごくごく狭いにもかかわらず、その世界に都合の良い事実だけを取り入れて、さも社会全体がそうだってする超拡大解釈。
ある個人は有限だから、必然的に人の善意も有限な訳だけど、有限の善意を誰に投げるかっていう選択するのはその人だから、勝手に投げるものとはいえ、そんな態度だと善意も避けて通るだろうなと。少なくとも僕は嫌だ。
最後。
言葉の弊害について。
感情とか記憶を言葉にするのって、それらそのものではないのだけど、それを自分で読むこと聞くことでフラッシュバックするような。過去を現在としてしまう。正の場合は体感と不可分だからなかなか持続しないけど、負の場合は言葉だけの感情がループするというか、らせん状に落ちていくというか。こういうときに必要なことって、それはおかしいっていう指摘でもないし、まして同情とか共感では余計に増幅させてしまう。ただ聞いて言葉と当人を切り離してあげることではなかろうかと考えている。実際やっている気もするし。
なんだかカウンセラーがやってそう。
おやすみなさい。