硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

はっぴーはっぴー

親族に令和生まれが加わった。妹に子供が産まれたとのこと。画像を送ってもらったのだけど、なかなか良い顔をしていた。母親からの伝聞だけど妹からではなくて妹の旦那さんからの報告だったらしい。妹が母親のことを嫌悪していて、旦那さんが仲を円滑にさせたいから気遣っていると解釈することもできるけど、実際は分からない。なんとなく母親の声はこのことに嫌悪している空気が滲んでいたけど、嬉しいことでも接することが疲れる相手には報告したくないだろうっていう感覚も分かるし、なんとも言えない。実際疲労でそれどころではないっていう可能性もあるし。

 

そうして、こういうときにどういう声を送るかというと、一般的にはおめでとうだと想像する。確かに、おめでたいことではあるけれどなんだか他人事感があってこれだけではふさわしくないような。お疲れ様との比率が7対3くらいと6対4くらいの方がしっくりくる。旦那さんの感じだと妹を充分ねぎらってそうだからあえていうことでもないというのと、出産日の忙しさとか手続きの雑多は知らないから、送って良いものかという躊躇いと。

 

なんとなく冷静っぽく書いているけど、かなり喜ばしく感じている。滲んでいるかどうかは知らないけど。そうして、おそらくメッセージは送ると思う。そして、送った。文面を見る限り結構元気そうだ。そうして第一子の自慢が入ってきている。良き。

 

姉兄妹(きょうだい)の子供というと、姉の第2子に自分の名前を使って良いかと聞かれて、お好きにと答えたことを思い出した。姉が大学で東京に行ったあとは特に接点も会話もなかったのだけど、嫌いな人の名前なんか付けたくはないよなぁと思うと、名前を使ってくれてありがとうって言えたらよかった。漢字自体が好きだったらその漢字を使った事後報告で良い訳で。自分の人格を自分より知られていたのか。今や音信不通だけど、親族だから戸籍を追って最後に登録してある住所は特定できるから、まだきっと縁はあるだろうな。

 

いつか、我が家の状態を話した人に、その離島状態を繋げることができるのはあなただけだっていう趣旨のことを言われたのだけど、この予言は実現されるのかもしれないと思ってきた。この世界は縁で構成されているとしたら、生まれ落ちた家族っていうのが最初の縁で。それだけでありがたいこと。妹はなんだかんだ可愛いと認識しているのだなと思ったし、人格的にはともかく家族親族には何か内側と思っている節があるのだろうなと。

 

妹夫婦は、令和家族のモデルケースになりそう。

 

穏やかさには、ありがたさがワンセットじゃなかろうかというところに至ってきた。ありがたやーありがたやー。

 

しかし、これを、他人の家族でもそうあれと押し付けることは違う。そういう善意とか道徳の押し付けみたいなことをする人は人情があるってされるけど、僕はそうは思わない。鉄の理性っていう言葉は刑法について書いていた日記で評されたのだけど、この流れで、共感について考えていた。

 

 

共感能力って別に人間だけのものじゃないっていうのは、ペットを飼った経験がある人は分かるはず。で、共感する人が優しいっていう風潮があるけど、これってあくまでその感情を持っている個人のものであって、そうされた相手が共感されたことにありがたがる必要はない。分かるよーって言われて嬉しい人ももちろんいる。自分が感じていることが他の人も感じていることで救われるという層。ただ、これの危険性はだったら世界もそうだって拡大してしまうところ。

 

 

僕は今ちょっと流行っている、感じやすい人(SPSだっけ)みたいな傾向があるから、共感しようと思えばいくらでもできそうな気がしないでもない。けど、共感が何を救うのかっていう観点だと、誰も救われない気がする。

 

例えばというか、僕の世界で最近一番見えている、悲惨な事件に対して被害者が可哀そうだって評する人。可哀そうだって評した人への被害はその時には終わっているし、同情されても本人がありがたいと思えるどうかは分からない上で、それを公に表明するのなら、これはあくまで自分の感情だって注釈を入れないといけない。そうしないと、被害者が可哀そうだと思っていることが一般化されてしまう。つまり、犯罪被害者は可愛そうな人だっていうシールが貼られてしまうこと。

 

エゴではないっていうことを含めて言う同情とか同調は、胡散臭くて仕方がない。で、この胡散臭さはきっと被害者個人にも響いている。だから、同調と個別化のジレンマが起こる。共感が欲しいのは女性が多いっていうのが定説みたいだけど、男もそんなに変わらないと思う。ちょっとズレてるけど。

 

今、獣の奏者エリンを見ているのだけど、鋭さは時に災いを呼ぶっていうフレーズが流れてきて、まぁそうだろうなと。ここのポイントは鋭さと優れているイコールではないということ。

 

 

 

感情ってなんだろう。

個人的には、誰とも共有できないものって定義したいところだけど、言葉にして共有できるものを感情としている人が多そうに見える。でも、言葉にされた感情ってもう当人にとっても過去で、当初のものとは違う。継続した感情がないとは言わないけど、継続する感情ってかなり強度な体験があって、今だとPTSDとかの診断が出るはず。

 

つまり、そうでない感情って、生きている限り変化するしかないもの。痛かった、苦しかったっていう感情は、反芻する度に違うことになる。増幅したり薄まったり。

 

だから、感情で繋がる関係は危うい。

僕も自分の感情を直の関係で重きにしたときもあったけど、これってなんの救いもなかった。感情だけしかない関係は地獄として良い。

 

この意味が分かるかどうかが通じるかどうかの分水嶺

 

だから、共感が胡散臭いと思っている。

あなたの感情は分かりますよみたいなてきとーな括りで世界を捉える人とは付き合いたくない。同じ体験をしていても変わらない。そういう風に同調できるなら、まだマシな層だと思う。

 

僕は自分の感情に対して分かるって言われるのが嫌だから、自分のことは普通の関係においては全然話さない。そんなことよくあることだって自分の固有の感情に評されたら相手に不信感しか起こらないし、だから何が解決されるかの話だし。一般化して属性に嫌悪を持つのは勝手だけど、ということは自分も属性なのかという。

 

ところで、義務教育に宗教教育を入れたら良いっていう提言があった。

たしかに、法律っていう絶対的な網の内側にある行動のマナーっていう面では道徳教育は大事。で、ここにイスラム教徒の道徳とはとかキリスト教、仏教も含めて教えるっていうのはありだと思う。ただ、現実的な側面として政教分離とは関係ないけど、教師がある宗教に帰依していたら、そこ寄りが強くなって事実的な影響が強くなるだろうなと。義務教育時代の教師は親と同じくらいのレベルで人格が学習されるから、教師がどの信仰であるかっていうので影響が否めない。

 

けど、影響は当たり前に受けて育つわけで、そのままにするかどうかは選択でしかない。

産まれながらに宗教の洗礼をするっていうのは嫌だなぁって思っていたけど、これって特に一般社会と変わってないような。

 

まだ書きたいところだけど、とりあえずおしまい。