硯に向かいて

ただの垂れ流し 今はこちら https://inkstone2525.hatenablog.com/

自分の中の他人

お寺や神社でお参りするとき、人って何を祈るのだろう。絵馬とかあるように、やっぱりお願いなのだろうか。神頼みって言葉もあるし。恋人さんは挨拶から入るらしい。確かにお願いって結構厚かましいものだし、そりゃあ神様も礼儀正しい方を優先したくなるだろう。

 

神様に人格があるかどうかという話だけど、脳はないから言語化とは意識という意味では人格はない。ただ、その場の波みたいなものはきっとある。パワースポットみたいなもの。その波がどういった影響を当人に及ぼすかは当人の意識というか態度による。神聖な場には神聖な空気がある。

 

僕はお願いも頼みもしない。こうするので見守ってくださいなっていう感じ。北野天満宮でも学問の収集率上げるからよろしくって唱えた。

 

人が生きる意図ってもちろん人それぞれ。一言で言えば幸せなのだろうけど、基本的には楽になりたいか快楽を追求するか。ってこれも漫画の話だ。僕はこの脳も含めた肉体があるうちにどこまで使えるかみたいなものを追求しているような気がする。たぶん他の人は漫然とやっているだけで身についたり上達したりするものが自分ではいちいち意識で修正していかないとできない。そういう意味ではスペックは低い。

 

という感じで、タイピングは次のステップへ。間違えた時点でやり直しにして、間違いが0になるまで、料理とかお風呂とか次の工程に進まない。ある程度早く打てる様になったけど、このまま早さを追求しても先はないからやり方を変えた。

 

ともあれ。

 

今日は影響の話。

この話何回も書いているような気もするけど、まぁ良いか。

 

影響とはなんぞやっていうと、当人の中にある他の人とか物事の影。

影響を受けた人みたいな質問は創作者に対してはよくあるけど、一般の人にはあまりなさそう。あんまり影響っていう観念がないのかな。

 

少し噛み砕いたら、育ちとかでも割と近い。

影響は行動に出る。育ってきた環境を反面教師にしたって意識でも影響としては同じことをしていたりする。一瞬セロリのBGMが流れた。好き嫌いは否めない。

 

そもそもなんでこんな事を考えたかというと、通勤中に、恋は思想だけど愛は行動だなってふと思ったのと、お風呂で読んでいた臨床心理学の本で、人から影響を受けない人が人に影響を与えられるはずがないっていうフレーズを見たから。

 

 

なんだか諸々考えているけど、言葉としてまとまるだろうか。

変な話、頭の中がずっと夢みたいなことになっている。アルコールは関係ない。むしろこの領域はそろそろこれ要らんだろうってことになりつつあるし。

 

自分の中にある他人の影。

 

今日は必殺春菊を作った。これは本の師匠が誰かから継承したもので、僕に継承された料理。ただレシピをなぞるなら影響にはならないけど、何かの非言語も継承している。

 

脈絡なく思い出したのが、父親との数少ない思い出の1つ。車に乗っているときに、あと3秒で信号が変わる、3,2,1,で本当に変わったのを見た幼少期、父親は魔法使いだと感じた幼少期。歩行の方の信号の方が先に変わるっていうのを知っていたとしても、タイミング合うように発信できるってことは、おそらくこれを子供に言ってみようって前準備があったはず、って思うと、やっぱりもっと話たかった。影響を受けられなくなっているのがかなしい。

 

親族関係で言うと、父親の母親であるお婆ちゃんが、僕の家族関係について苦言を呈していた記憶も出てきた。どういう状況だったか忘れたけど、もしかしたら二人で居るときだったのかもなって思ったり。お姉ちゃんはあぁだしお母さんもあぁだし、妹ちゃんはこうだしみたいな。存命だけ認知症になっているからもうまともな話はできない。アンテナがもっとまともだったらもう少し我が家を改変できたのかもしれないし、もっと話もできたのかもしれない。

 

記憶に残っている影は、自分への戒めみたいなものでいつも悲しめな感情とセットで想起される。過去は歴史としたい人、というか人類の気持ちも分からんでもない。人はただ生きているだけでは全く変化しないから。悲惨な事件も他人事にするけど、他人事にしていては、影響は思想の面しかない。

 

思想への影響っていうのは、行動に出ない当人の頭の中にしかないもの。

言葉は人によりけりで、コピペを多用する人なんかは思想と近い。

 

なんだか、もっと書きたかったことあるけど、指が追いつかないから、そろそろ収める。

 

 

最後。

 

おそらく人って影響の観念がないっていうより、他人からの環境を自分の功績としているのではなかろうか。影響は受けていないようで受けているけど無意識の領域だから現実化しても分らないっていうのが善解。もう一つ在りうる解釈はあるけど言わないでおく。

 

僕の場合は、自分の今の現実の行動とか思考があぁこれはあの人から承継したやつだなっていちいち感じる。かといってコピペしているわけでもない。その前にそれを選択した意志っていうものがあるし、どれだけ無いものにしようとしても自分は在る。

 

 

おしまい。